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Don Basilio, o il finto Signor

ドン・バジリオ、または偽りの殿様

オペラなひと♪千夜一夜 ~第百三十二夜/僕はなにを聴いていたのか〜

年を明けてから一気に本職が忙しくなりました。なかなかゆっくり音楽を聴く時間も取れず困ったものです。しかもただでさえバタバタしているのに、手持ち音源リストの作成に手をつけ始めたがために、実に8ヶ月ぶりの更新になってしまいました。

なんで今更音源リストなどを作り始めたのかといえば、結局のところここでの記事を書くためです。いつも手持ち音源から主役となる歌手の音盤をかき集める作業から始めるのですが、このごろは量の面でも記憶力の面でも流石に限界になってきました。記事を書いてしまってから「あ!こんなの持ってた!」とか「これを載せていない!」と言ったことも少なからずあります。また、若い頃に触れた音源には自分の耳の未熟さで味わえていないものも多く、こんなに良いものがなぜわからなかったのかと恥ずかしい思いをすることもしばしばなのです。
せめて自分の手許にあるものぐらいはもう少し網羅的に頭に入れておきたいと思って始めはしたものの、ご推察に難くないと思いますがまあこれが大変で少なく見積もっても2年はかかりそうだなという気がしています。
そんなこんなで随分間が空いてしまったわけです。

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Ortrud

クリスタ・ルートヴィヒ(クリスタ・ルートヴィッヒ)
(Christa Ludwig)
1928〜2021
Mezzo Soprano
Germany

今夜クリスタ・ルートヴィヒを取り上げることにしたのは、そんな作業をしていたことと深く関わっています。というよりも、改めて捉え直したいという気持ちを持った、という方が近いかもしれません。

20世紀最大のメゾ・ソプラノの1人である彼女は、ご承知のとおり残念ながら昨年亡くなりました。コロナ禍中であったにもかかわらず小さからぬ話題になっていたようです。クラシックの歌手、それも海外の歌手の訃報が取り上げられることが決して多くはない日本ですらニュースになっていましたし、Twitterでも多くの追悼コメントが流れていました。当然ながら僕自身も記事を書こうとしたのですが、しばらく悩んだ末にその時は文字にすることができないと思ったのです。当時を振り返ると、彼女の本領と思える歌唱を見出せていないと感じたことが一番大きかったのではないかという気がします。そしてあの頃の僕はその状況を、僕自身がまだ彼女の膨大な録音にそれほど触れられていないこと、特に彼女の藝術の本丸であるはずのモーツァルトやR.シュトラウス、ヴァーグナーの開拓が進められていないことに依るものだろうと理解しました。いずれもう少し独ものを聴くことができれば変わるだろう、残念だし心残りではあるけれど今はまだその時ではない、十分ではない、と。

最初に述べたようにリスト作りに手をつけたのはその後しばらく経ってからです。進めながら気がついて驚くと同時にショックでもあったのが、自分がこれまでかなり多くの、幅広いルートヴィヒの歌唱に接していたことです。先に挙げたモーツァルト、シュトラウス、ヴァーグナーはもちろんのこと、ヴェルディ、ビゼー、サン=サーンス、フンパーディンク、オッフェンバックにバーンスタイン……もちろん彼女の録音全体から見れば氷山の一角に過ぎないものではありますが、一方で知らない/聴いていないとは言えないぐらいの量です。これだけ接しているにもかかわらずはっきりとした印象がないとは、いったい何事だろうと頭を抱えつつ、持っていた音源を片っ端からあたっていきました。じきにわかってきたことは2つあります。1つは特にオペラを聴き始めた頃の自分が書評に左右され過ぎて真っ直ぐに聴けていなかったこと、もう1つは僕自身が「これはいいはずだ」と思って聴き始めた演奏での彼女が、必ずしも僕にとってベストに聴こえていなかったということです。僕は何を聴いていたのかと、しばし驚くとともに係もしたのですが、同時に自分なりにはっきり死とした像を結び始めたルートヴィヒの魅力を、書きたい、書かなければという思いを強くしたのも事実で、新しい音源も確保しながら、ようやく今夜のご紹介にいたります。
うまく書けると、いいのですが。

<演唱の魅力>
この連載のタイトルがはっきりと物語るとおり、僕自身はオペラファンでしかなくてクラシック音楽や声楽には疎いのですが、母はむしろ声楽愛好家で、実家ではよくバッハの宗教音楽やシューベルトの歌曲もかかっていました。そんな環境でしたから、ルートヴィヒの名はオペラの人というよりも声楽の人として覚えていたように思います。彼女の歌は静謐な美しさと分かち難く結びつき、「派手ではないけれど、端正で、実直で、凛とした美しさのある歌い手」というイメージを、気がつけば押し付けていたのかもしれません。また、色々な方の感想を見る範囲の当て推量でしかありませんが、同じようなイメージが先行してしまっている人は、存外少なくもない気もします。

まず今回縦にしっかり聴いてみようと思ったのは、自分がごく初期に手を伸ばしてみたような演奏にもう一度当たることで、当時は気づかなかった彼女の魅力に気づくことができるのではないかと考えたからです。ところが意外なことにこれがあまりピンときません。言葉にしづらいのですが求心力に欠けると言うか、パンチが足りないと言うか……そもそも僕は低音が好きでオペラを聴いているので、渋い歌手に魅力を感じないわけでもありません。これはひょっとすると僕はルートヴィヒと相性が悪いのでは?と思い始めたところで、印象のガラッと変わる音源に出会いました。『キャンディード』の老婆役−−これを彼女の「当たり役」という人は、あまりいないでしょう。バーンスタインが英語で書いたオペレッタ(オペラという人も、ミュージカルという人もいる)のコメディ・リリーフ、しかも見せ場の歌は思いっきりタンゴなどという役を、ルートヴィヒが歌っているということ自体そもそも意外な印象を持つかもしれません。ところがどっこい、このタンゴが抜群に楽しい(笑)。この録音の時点では尊敬される老大家であった彼女が、悪ふざけとしか思えないような巻き舌英語で、嘘か本当かわからない怪しい身の上話を歌い上げるエキセントリックさに打たれた僕は、虚心に帰ってルートヴィヒで強く記憶に残っている役柄を探りました。それは独語によるカルメン(G.ビゼー『カルメン』)であり、デリラ(C.サン=サーンス『サムソンとデリラ』)であり魔女(E.フンパーディンク『ヘンゼルとグレーテル』)であって、僕が固定観念で「よいはずだ」と信じてかかっていた作品ではなかったのです。

それからはむしろ、ルートヴィヒはうんと身近になりました。僕にとっての彼女の魅力は淑やかさや実直さというよりも、若々しい力強さだとか勢い、切れ味に近いところなのだと今は思っています。狂乱といってもいいような激情に駆られた瞬間や、若さに満ち満ちた少年など、エネルギーの高い役柄、高い瞬間で聴かせる煌めきは、他の追随を許さないものです。そして、そうと定めてしまうと不思議なもので、記事を書くために新しく入手した音源でも外すことは減ったように思います。オルトルート(R.ヴァーグナー『ローエングリン』)、エボリ公女(G.F.F.ヴェルディ『ドン・カルロ』)、ケルビーノ(W.A.モーツァルト)……とりわけオルトルートは格別でした。一周回って結局ヴァーグナーなのかい、と思われるかもしれませが、ここでの復讐に駆られた魔女の異様な迫力に総毛立たない人がいるでしょうか。もし以前の私のように、ルートヴィヒが四角四面な歌い手だと思われている方だとしたら、些かギョッとするかもしれません。しかしだからと言って、「グロテスク」の一言に切り捨てることはできないでしょう。ルートヴィヒの持つカリスマこそが、彼女のオルトルートの魔法の源なのですから。

<アキレス腱>
メゾの歌手の多くがソプラノの役に憧れるものなのだそうで、ルートヴィヒもまた、ソプラノの諸役に挑戦しています。そうした役柄ではバッハを歌うときのような敬虔で実直な彼女が登場してくるように思うのですが、別の魅力になっているかというと……僕の感触としては成功しているとは、必ずしも言い難いように思います。華がない、というより欲しい音色で聴こえてこない、あるいは淡白すぎる印象という方が近いかもしれません。役柄が浮かび上がってこないのです。
やはり彼女は個性の強いメゾの役柄で聴きたいなあというのが、私見です。

<音源紹介>
・オルトルート(R.ヴァーグナー『ローエングリン』)
ベーム指揮/J. トーマス、ワトソン、ベリー、タルヴェラ、ヴェヒター共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1965年録音
>少なからず聴いていたはずなのに、「これだ!」という歌唱と出逢ったことで曲の理解がうんと進むという経験は、オペラ聴きならば誰しもあるのではないかと思います。今回の記事を書くにあたって仕入れたこの音盤での彼女のオルトルートは、僕にとってまさにそういった経験でした。ヴァーグナーの大家であるヴァルナイや大好きなゴールの歌唱にそそられなかったわけではないものの、脳髄に響くようルートヴィヒの魔女の前では霞んでしまいます。この音盤を聴いて2幕の短い独唱に衝撃を受けない人はいないでしょう。むせ返るようなヴァーグナーの毒に、ヴィーンの聴衆が音楽を中断するほどの拍手を送っているのももっともなことです。けれども本当にすごいのは一場面でのスリルにとどまらないことで、このあとエルザの大聖堂への入場に割っているところや、終幕ローエングリンに食ってかかるところではほとんど狂気と言ってもいいような壮絶さを見せています。この作品の裏の主役は虐げられてきたオルトルートだったのではないかと思わされるほどです。これだけ彼女が強烈だとほとんど独り舞台になってもおかしくないのですが、共演者全員高水準で絶妙なパワーバランスです。とりわけトーマスがきちんと表の主役たる力強いローエングリンを歌っているのが素晴らしい。そしてもちろん、この燃え盛るような音楽世界を作り出しているベームには賛辞を惜しみません。

・ヴェーヌス(R.ヴァーグナー『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』)
フォン=カラヤン指揮/バイラー、ブラウエンステイン、ヴェヒター、フリック、クメント、ヴェルター共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1963年録音
>ヴァーグナーからはじめましたので続けていきましょう。と言いつつ初めて聴いた時から今にいたるまで、この演奏全体はどうもパッとしないというのが正直な感想ではあります。それでも敢えてここで紹介せざるを得ないほどの気を、独りルートヴィヒだけが吐いています。開幕早々これだけ男に追い縋る役も他にはないと思いますけれども、不本意な別れを前にした悲しみと怒りに揺れる心を極めて人間的に表現しながら、女神としての威厳もまた決して失っていません。愛情を裏切られた恨みから祟りを齎しているような強烈さがあるのです。彼女はスタジオ録音でもこの役を遺しており十分立派な歌なのですが、ここまでの危機迫る迫力は有していません。オペラ歌手としての実力を、舞台でこそ最大限発揮するタイプの人だったのだろうと感じます。これだけのヴェーヌスを引き剥がしていくだけの覇気がバイラーに感じられないのが非常に残念です(こちらはむしろスタジオ録音でのコロの圧倒的な輝かしさが忘れられません)。それでもこの音盤のヴェーヌスベルクの場面は必聴だと思います。

・オクタヴィアン(R.シュトラウス『薔薇の騎士』)
フォン=カラヤン指揮/シュヴァルツコップフ、エーデルマン、シュティッヒ=ランダル、ヴェヒター、ゲッダ、ヴェリッチ、キューエン共演/フィルハーモニア管弦楽団&合唱団/1956年録音
>名盤として“履修”し、いっときその評価に疑問を抱き、今また改めてその魅力に酔っています。この後ご紹介する作品でもルートヴィヒは数々のズボン役を演じていますが、それらと較べてもやや女性的なテイストでこのオクタヴィアンを演じているように個人的には感じます。このバランスの妙が重要に思えていて、これによって冒頭の閨で迎えた朝やゾフィーと対面した場面、そして最も重要な場面である3幕の3重唱といった重要な音楽の陶然たる官能性がいっそう高められているようです。一転してマリアンデルとしてオックス男爵を手玉にとる3幕でのいたずらっ子らしいおふざけもまた微笑ましい……こうしたシュトラウスにこそ備わっている味わいを引き出しているという点で、彼女のオクタヴィアンは稀有なものだと思うのです。いうまでもなく共演も優れていますが、シュヴァルツコップフの濃密な言葉の扱い、エーデルマンが聴かせる絶妙な高貴と下品のブレンドがやはりお見事(実は一時期その魅力がよくわからなくなったのがこの2人なのですが、今はこれ以上のものはないように思えます)。フォン=カラヤンの卓越した手腕については言わずもがなのものでしょう。

・ケルビーノ(W.A.モーツァルト『フィガロの結婚』)
ベーム指揮/フィッシャー=ディースカウ、シュヴァルツコップフ、クンツ、ゼーフリート、シュテルン、S.ヴァーグナー、ディッキー、マイクト共演/WPO&ヴィーン国立歌劇場合唱団/1957年録音
>これを言うといろいろな人から怒られそうなのですが、ルートヴィヒになかなかピンとくることができなかった原因が、実はモーツァルトです。名盤の誉れ高いベームとのコジは残念ながら彼女のみならず音盤そのものが全く僕の感性に引っ掛からず、ギャウロフの圧倒的な活躍で大好きなクレンペラーのDGでもどうにもおしとやかすぎてエルヴィーラの尖ったキャラクターにハマっているように思えませんし、上手いとは言っても流石に第2の侍女で印象をガラッと変えるのは難しい……そんな僕にとって光明であったのがケルビーノでした。シュトラウスの作曲の経緯もあってオクタヴィアンと重なる部分が多い役ではあるのですが、明確に異なる人物像に仕上げています。もう少し歳下で、分別よりも感情が先に立つやんちゃ盛り、けれども誰からも愛される紅顔の美少年……バジリオの下世話な誹りのニュアンスを斥けて、まさしくCherbin d’amoreと思わず口をついて出てしまうような溌溂とした少年を、ルートヴィヒは作り上げています。わけても2幕のアリアが圧巻です。彼女以外がこう歌ったら、指揮者のテンポからちょっともたついていると感じてしまうでしょうが、胸いっぱいに膨らんでいる甘やかで弾んだ戀の想いがひしひしと伝わってきます。

・シッラ(H.プフィッツナー『パレストリーナ』)
ヘーガー指揮/ヴンダーリッヒ、フリック、ベリー、シュトルツェ、クレッペル、ヴィーナー、ヴェルター、クライン、カーンズ、ウンガー、ユリナッチ、レッセル=メイダン、ケルツェ、ポップ、ヤノヴィッツ共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1964年録音
>もう1人、少年を。うってかわってこのプフィッツナーの大作は色戀とはかけ離れた藝術をテーマとした作品で、オクタヴィアンやケルビーノの出る幕はありません。けれども堅苦しさ一辺倒ではなくて、活き活きとしたやりとりや風刺をはらんだ笑いの要素が織り込まれており、シッラもまたそうした存在として登場します。この少年は夢を抱き、新しい世界に焦がれているからこそ、戀に燃える少年たちとは違う思い上がり、若さゆえに満ちている無邪気で傲慢な自信を持っているのです。ここでのルートヴィヒの純真な声はまさにうってつけと思います。そう、ここでも彼女は全く異なる少年の声になっているのです。なんと凛々しく、またあどけない響きを備えていることでしょう!あたかも本当に思春期のようです。そしてシッラの活力こそが、老パレストリーナが1幕で痛感する衰えと3幕で与える赦しにつながっていきますから、決して長いとは言えない出番であっても彼女が歌うことに大きな意味があるのです。こうして少年3役に着目すると彼女の舞台人としての卓越に気付かされますね。

・魔女(E.フンパーディンク『ヘンゼルとグレーテル』)
アイヒホルン指揮/ドナート、モッフォ、フィッシャー=ディースカウ、ベルトルト、オジェー、ポップ共演/ミュンヘン放送管弦楽団&テルツ少年合唱団/1971年録音
>バーンスタインの老婆で聴きとれたような彼女のおちゃめさ、コメディ・センスを突き詰めるところまで突き詰めるとこの役になるでしょう。デイヴィス指揮の演奏でも大活躍なのですが、更にいい意味での悪ふざけが際立っているように思い、こちらを推しました。ここまでやるかという“イヒヒヒ”笑いやら極端なRの巻舌、味見でのムニャムニャなど笑えるところは枚挙にいとまがありません。この役での悪ふざけと言えばセルフ・パロディ的な怪演を繰り広げたシュライアーを思い出しますが、エキセントリック差ではやや譲ったとしても、女声で演じることによって生み出すことのできる自然さがルートヴィヒにとっては大きなプラスになります(そしてそれでも十分すぎるほどエキセントリックでもあります)。彼女のような優れたメゾが歌う低音でのドス、高音での切れ味はこの役が道化の要素を含みつつも悍ましい悪者であることも思い出させ、オルトルートにも通ずるものを持っていることを教えてくれるのです。豊麗な響き、さりとて重くならない音楽を作るアイヒホルンのセンスの良さは抜群ですし、共演もベストでしょう。

・カルメン(G.ビゼー『カルメン』)
シュタイン指揮/ショック、プライ、ムゼリー、レブロフ共演/BPO、ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団&シェーネベルク少年合唱団/1961年録音
>今となっては後付けになってしまうのですが、初めてルートヴィヒの歌唱を聴いて圧倒されたのはカルメンだったように思います。白状しますと視聴前には、彼女の独的な声質はあまりにも生真面目すぎて異質だろうなどと考えていたのですが、そんな予想は1幕を聴き終える頃にはあっさりと覆されていました。独語で歌われているにもかかわらず、南欧の明るさとロマのエキゾティシズムとがはっきりとあって、蠱惑的なファム・ファタルそのものだったのです。何度聴いてもそのみずみずしく若さに溢れた声と奔放な歌い口(しばしば挟まれる高音の刺激たるや!)には魅せられますし、言語の壁を越えたカルメンの名演であることは疑いようもありません。あんまり知らない人を含めてキャストのレベルも高いので、5重唱の愉しさは格別です。陽気なプライのエスカミーリョも聴きもの。

・デリラ(C.サン=サーンス『サムソンとデリラ』)
パタネ指揮/キング、ヴァイクル、マルタ、コーゲル共演/ミュンヘン放送管弦楽団&バイエルン放送合唱団/1973年録音
>今度は仏ものを続けましょう。主役3人だけ見るとヴァーグナーをやるつもりだったはずが何か手違いがあったのか?という気もすれば、いわゆる珍盤の部類ではないかなどと邪推もしてしまいますけれども、とんでもない!数ある本作の音源の中でも屈指の名盤だと思います。ルートヴィヒは上述のカルメンとは違って自由な歌い崩しなどを避けた抑えた歌唱ながら、そこには収まりきらない情念(それは例えば戀でもあり、復讐でもあり)が見え隠れします。同じように“運命の女”であったとしてもデリラの野心はうちに秘めたものであって、カルメンと一緒にはできないと訴えかけているようでもあります。ある意味でちょっと知能犯なデリラとも言えるかも知れません。尋常一様では無いキングの神々しさと生臭坊主らしい妖しさのあるヴァイクルが拮抗しているのも嬉しいところです(ここの三つ巴ができてこそのこの演目ですから)。

・母(J.オッフェンバック『ホフマン物語』)
小澤指揮/ドミンゴ、グルベロヴァー、エーダー、シュミット、バキエ、モリス、ディアス、セネシャル、シュタム共演/仏国立管弦楽団&仏放送合唱団/1986〜1989年録音
>もう一つ仏ものをと考えて引いてきましたが、いやしかし彼女のレパートリーの広さと言いますか、大成したあとでも小さな役で仕事をしているのには頭が下がります。当然ですがアントニアの母は筋書きにおいても、この作品でも最も盛り上がる重唱を歌うという意味においても重要な役柄ですが、それにしてもルートヴィヒほどの大物が歌っている例は少ないでしょう。還暦前後だったはずですが声の力は健在で、アントニアに呼びかける場面の神々しさは群を抜いています。第一声だけで超常の存在、この世ならぬ人なのです。一緒に歌うグルベロヴァーやモリスはこの頃が一番声に脂の乗っていた時期ではないかと思いますが、衰えによる聴き劣りなど一切感じさせません。

・エボリ公女(G.F.F.ヴェルディ『ドン・カルロ』)
クロブチャール指揮/ギャウロフ、ドミンゴ、G. ジョーンズ、パスカリス、ホッター、ツェドニク共演/WPO&ヴィーン国立歌劇場合唱団/1967年録音
>数は多くないもののヴェルディも歌っています。彼女の土俵と違う流儀の音楽ではあるのでヴェールの歌など技術的に苦労しているところもあるのですが、これまで見てきたような情熱的な麗人が似合う彼女にとってエボリは適性のある役だと思いますし、こうして聴くことができるのは喜ばしい限りです。当然ながら美貌のアリアも緊迫感の有る名唱ですけれども、2幕でカルロたちに啖呵を切る場面の嫉妬に狂う様が鬼気迫る表現で息を呑みます。「拒絶を受けて追う女」としては上述のヴェーヌスの影も見えるといっていいかも知れません。絶好調で豊かな声をたっぷり聴かせるドミンゴと重厚で武人的なパスカリスとのバランスもよく、前半のクライマックスと言えるでしょう。全体に演奏そのものは素晴らしいのですが、パスカリスやギャウロフの出番の肝心なところに欠損や乱れがあるのが非常に残念です。

・クイックリー夫人(G.F.F.ヴェルディ『ファルスタッフ』)
フォン=カラヤン指揮/タッデイ、パネライ、カバイヴァンスカ、ペリー、アライサ、シュミット、デ=パルマ、ツェドニク、ダヴィア共演/WPO&ウィーン国立歌劇場合唱団/1980年録音
>彼女のヴェルディというとこの役のイメージという方もいらっしゃるかもしれません。まとまったアリアがあるわけではないけれど強烈なキャラクターを示してほしいこの役では、彼女の異質性とコメディのうまさがプラスに働くのは間違いないでしょう。あの魔女の底意地の悪さを活かしつつ陽気さを際立たせた感じとも言える気はしますが、ファルスタッフの元に使いとして来る部分ではそこはかとない不気味さも漂わせています。そして、これは共演陣にも言えますがアンサンブルのうまさ!老巨匠の作り上げた複雑で緻密な重唱の旨味を存分に楽しめます。

・アンジェリーナ(G.ロッシーニ『チェネレントラ』)
エレーデ指揮/クメント、デンヒ、ベリー、ヴェルター、ルーズ、D. ヘルマン共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1959年録音
>これははっきりと申し上げて珍盤だろうなと思います。独語なのはもちろんとして、本来の作品の3分の1ほどバッサリカットされていますし、序曲が終わってすぐアリドーロが謎のアリア(出典をご存知の方がいらっしゃれば是非教えていただきたいです)を歌ったり、舞踏会の場面でバレエ音楽が挿入されたりと、通してみても『チェネレントラ』を聴いた感じはあまりしません。が、しかし、この演奏はそういった留保があったとしても歌と声が立派で聴く楽しみがあるのです。「立派」というと重たすぎるのでは?という懸念も出てこようかと思います。実際ルートヴィヒにしても聴くことのできるアンジェリーナとしては最も重い部類の声ではありますが、娘らしい明るさも兼ね備えていて、変に隈取りにならず愉悦も感じられます。秀逸なのはアリア・フィナーレで、それこそモーツァルトの作品を思わせる軽やかで小気味よいコロラテューラを披露しており、若い頃の彼女はこんな歌までうたえたのかと畏敬の念を新たにします。

・アダルジーザ(V.ベッリーニ『ノルマ』)
セラフィン指揮/カラス、コレッリ、ザッカリア共演/ミラノ・スカラ座管弦楽団&合唱団/1960年録音
>カラスがスタジオ録音で遺した2つの『ノルマ』は、残念ながらいずれも彼女のピークの記録ではないと言われ、また共演についても好ましく語られることは多くないようです。今回取り上げているこの録音でよく槍玉に上がってしまうのは誰あろうルートヴィヒで、実のところ僕自身も疑問に思って今した。しかしこの音源についても改めて聴き込んでみると、むしろいったい彼女のどこが悪いのだろうか?という気持ちが湧き上がっています。なるほど確かに独的な生硬さが全くないわけではないですが、むしろこくのあるやわらかな響きは、若いけれどもぎりぎりで分別を持ち込める淑やかさを感じさせます。何よりカラスやコレッリとの声の重なりが掛け値なしに美しいのです。特に2幕冒頭のデュエットは、カラスが悪声だとかルートヴィヒが伊ものっぽくないとかそんな御託を並べるだけ野暮でしょう。

・コルネーリア(G.F.ヘンデル『エジプトのジュリオ・チェーザレ』)
ライトナー指揮/ベリー、ポップ、コーン、ヴンダーリッヒ、ネッカー、プレーブストル共演/ミュンヒェン交響楽団&バイエルン放送合唱団/1965年録音
>20世紀中葉の演奏らしい重々しいヘンデルですが、優れた音楽者たちが本気で取り組んだ演奏であるからこその荘厳な魅力に溢れています。妙な話ですが変にオペラティックになりすぎず、歌曲のように聴けるところが大きいのかもしれません。コルネーリアは嘆く役ですから、華美な装飾のない抑制された旋律をどれだけ聴かせられるかにかかっているわけですが、ルートヴィヒは丹念な歌唱で深い哀しみを表現しており引き込まれます。東山魁夷の京都の風景を観るような静かな感動があるのです。だからこそポップのヴィヴィッドなクレオパトラとは好対照を成していると言えるでしょう。パートの異動にこそ時代を感じさせますが、男声陣の充実ぶりも特筆すべきものです。

・オッターヴィア(C.モンテヴェルディ『ポッペアの戴冠』)
ルーデル指揮/G.ジョーンズ、ヴィッカーズ、ギャウロフ、スティルウェル、マスターソン、タイヨン、セネシャル、ビュルル共演/パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団/1978年録音
>当然こちらも演奏スタイルとしては今や時代がかったものと言わざるを得ないものですけれども、やはり捨てがたい良さがあります(大河ドラマ的な題材ということもあってちょっと『ホヴァーンシナ』っぽいぐらい)。音は今ひとつながら映像が遺っているのもありがたいです。ヴィッカーズの躁鬱っぽいネローネ(セネシャルとのバカ騒ぎっぷりも笑えます)やジョーンズの悪女ぶりも楽しいのですが、公演としては暴君に虐げられる側の演唱が秀逸ではないでしょうか。ルートヴィヒは皇后としての品格もたっぷりですし、不幸を予見した悲哀に満ちた歌が胸を打ちます。なかんずく終幕にローマへの別れを告げる場面は、ディドー(H.ベルリオーズ『トロイ人』)を想起させるような、苦味のあるかっこよさです。ギャウロフのセネカ(巨大な美声!)ともども破滅のさまが魅力的で、真の主役はこちらなのでは?などとこの作品でも思ってしまいます。

・老婆(L.バーンスタイン『キャンディード』)
バーンスタイン指揮/ハドレー、アンダーソン、グリーン、オルマン、ゲッダ共演/LSO&ロンドン交響合唱団/1989年録音
>いまだにこの自作自演盤は代表的な録音・映像でしょう。上述の通り僕にとってはルートヴィヒ開眼になった大事な1枚です笑。ここまでのご紹介で彼女がまた卓越したコメディエンヌであったことは十分に伝わっている気はしますが、それでもこの演奏でのあまりにもあっけらかんとした陽気さには驚かれると思います。僕自身も全曲の映像を持ってはいないのですが、youtubeにも転がっているタンゴの部分は傑作。ここだけでもご覧になってください。大ヴェテランがノリノリで歌い、踊り、カスタネットまで叩いているのがなんとも微笑ましいです。実際会場でも、隣に座っているアンダーソンが思わずファンの顔になっていますし、バーンスタインも実に楽しそう。
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汎用猫型ロボット D0RA-1293

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汎用猫型ロボット D0RA-1293
General Robot Cat D0RA-1293

キャラクターものはあまり得意ではないと思っていたのですが、ポケモンをいくつか取り上げて以来、人に頼まれたり何となく紙をいじっているうちに気づけばそれなりの数を折っています。とはいえキャラクターを「らしく」見せるため要素の中では配色が大きな比重を占めているので、1枚で作ろうとすると裏表2色に限定されてしまう折り紙ではどうしてもハンディがありますし、自分自身の技術的な話をするのであればインサイドアウトは苦手な部類です。なおかつかわいらしさを求めた丸っこいシルエットをしていることが多いことも悩ましく、自分から折りたいと思うことは正直なところあまりありません。

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一方で自分で作ることを離れてキャラクターもの自体の好き嫌いの話をするのであれば、デザインの洗練されたものは大好きで、身の回り品ではワンポイントであしらわれていたりするものをよく選んでいます。もちろんドラえもんもお気に入りで、以前手帳に使っていましたし、今はちょっと狙っているネクタイがあります。ただ、まあ作るのはまず無理だろうなと思っていたんですよね。
それこそ配色の要素が大きいし、めちゃくちゃ丸いし。

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創作意欲の源になった出来事は3つあります。1つは5年ほど前に森美術館で開催されたドラえもんをテーマにした展覧会で、気鋭の現代アーティストたちによる、ドラえもんとその世界を素材にした刺激的な作品が数多く展示されていました。ここでは作家たちのイマジネーションの豊かさもさることながら、このキャラクターのデザインの強さ、ゆるぎなさを改めて実感しました。2つ目はミュージアムのある小田急線の登戸駅の表示です。プラットフォームの何でもない駅表示のデザインが、水色・赤・白の3色で構成され、鈴のマークがつくだけでもうドラえもん以外の何者でもなくなってしまう。その配色の妙に心を動かされました。

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(ここまでの写真のドラえもんは紙を貼って「ドラえもんカラー」を再現しています。モノ自体は不切正方形1枚から作っているので、普通に折ると左側のような姿になりますが、こうして並べると配色の重要性がよく分かりますね。)

最後の1つは星野源の「ドラえもん」とオープニングで使われたアニメーション。僕自身は単行本を買い集めて全てのエピソードを追いかけているというほどのファンではないのですが、小さいころ金曜7時と言えばドラえもんでしたし、映画もひと通り見ているということを考えると、比較的好きな部類に入る方という程度だと思います。ですが、その程度の身から見てもあの詩/音楽の中に数々のオマージュが織り込まれていることはよくわかりましたし、そのために作られたアニメーションもまた、あくまで作品の世界観を中心に据えながら、子どもにとっては煌びやかな、大人にとっては懐かしいワクワク感を覚えるものに仕上げられています。おおざっぱながらわかりやすい言い方にするのであれば、作り手たちのドラえもんへの愛の大きさが、子ども向けアニメを大人も惹きつけるコンテンツに昇華していることに感動したのです。
こんなことから、いつしかドラえもんは「作れないと思うけどいつか作りたい」テーマになっていました。

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とは言えそれぞれの出来事から数年経っても具体的なアイディアは湧いてこず。意欲はあっても中途半端なものにはしたくありませんでしたので(何せ影響を受けたものそれぞれが非常にクオリティが高いものでしたから!)、気長に待ちました。転機は突如やってくるもので、先日コウペンちゃんを作るのにいろいろ紙をいじっているうちに、白い部分と色の部分をうまく使えばドラえもんの顔がふんわり作れそうな気がしてきたのです。こういう直感は外れることも多いので、まずは手を付けて見ようかぐらいのスタートでした。

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作り始めた段階から1点だけ、どうしても拘りたかったのは立体にすること。
人気キャラクターだけあって作例は少なくないのですが、僕の拙い知識と検索技術で見つけられた範囲では全ての作品がほぼ平面で仕上げられていました。おきあがりこぼしがモデルになったというあの丸々とした体躯からこそ、彼の福々しさとふてぶてしさは湧き上がっていると思うのですが、平面にしてしまうとだいぶその雰囲気が削がれてしまいます。立体的にまとめることで、なんとかあの佇まいを表現したいと考えました。

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試作一號機。この時点では、限られたパーツで無理やりディティールを作っても綺麗な仕上がりにならないだろうと踏んで、口は作らずデフォルメした姿を目指してみたのですが、家族からだいぶ不評。顔だけなのか全身なのかもわからないし、言われれば見えなくもないけれど……と散々な言われようで、割と心が折れました……ただ、逆に火が付いたのも事実です笑。

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試作二號機。最初に諦めていた口を何とか折り出し、かなりそれらしさは増してきました。が、ちょっとこなれていない印象があります。「未来の国からはるばると」で初めて登場したときのプロポーションに違和感があるドラえもんみたいと、こちらも家族のコメントは辛口。

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試作三號機。二號機まではどちらかというと原作に寄せて目を小さく作っていたのですが、アニメの顔のバランスを意識して顔を修正。今度はうんと周囲の反応も良くなりました!実は一號機から折り方のベースはほとんど変えておらず、ひたすらバランス調整をしているだけなので、キャラクターのデザインにおけるサイズの大事さを身に沁みて感じました。とは言え、後ろ姿は「しっぽの生えた冷蔵庫かと思った」とこれまたなかなかの言われ様。

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試作四號機。マイナーチェンジに近くなってきましたが、結構あちこちいじっています。後ろ姿での首のくびれを意識して寸胴になり過ぎないようにすることで、「冷蔵庫」から脱却を目指しました。また、一見顔はそれほど変わらないようですが、余計な線を消すとともに白い部分の輪郭に丸みを持たせ、折筋で髭もつけています。

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試作十號機。この間もちろん作り続けているのですが、変化がわかりづらいので割愛。この段階までに腕と足の折り方を修正し、頭と胴のくびれを全体にはっきり出せるようにしました(構造的には若干無理をしています)。これで折りとしては完成し、手を慣らすために何体か折って、先程の2体までたどりつきました。

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最後に紙を貼ってみているときに気づいてちょっと面白かったのは、僕たち割と色のイメージをコントラストで認識してるんだなというところです。正面から見たときの赤い部分(鼻と首輪)水色で出してるのに対し、同じように赤井はずのしっぽは白で折り出してます。表と違う色で表現されている訳ですが実物を見るとさほど気になりません。それどころかここでしっぽを水色にしてしまうと全然らしく見えない。周りに白や黄色があるのか、水色しかないのかでバランスが違うことを感覚的に掴んでいるのかもしれませんね。

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コウテイペンギンの赤ちゃんとシマエナガ

コウペンちゃんと邪エナがちゃん2

コウテイペンギンの赤ちゃんとシマエナガ
Baby of Penguin and Long-tailed tit

「えーっ折り紙作ったの?!すごーい!えらーい!」
言われてみたいものです笑。

コウペンちゃん

また暫く折っていなかったのですが、ひょんなことで頼まれてこの子たちを作ることになりました。
毎度言っている気がしますが、そもそも丸っこい造形のものを作るのは難しいし、僕はインサイドアウトが苦手だしというので、依頼されはしたもののあまり気乗りしないままなんとなく紙を動かすところから始めました。

コウペンちゃん2

すると予想に反してあっさりとそれらしいバランスの顔の原型ができてしまいました。しかもこれはちょっといじるときちんと体とジョイントしそう……ということで実動としては本当にごくわずかな時間でこの形にまとまったのでした。

コウペンちゃん3

本当は足も折り出したくて、またパーツ的にもできなくはなさそうだったんですが肝腎のこの子のふっくら感をそれだと活かせず……実際のコウテイペンギンの赤ちゃんはふわふわもこもこなので、そこを敢えて狙わなくても十分な形になろうかと思った次第です。もちろん、今後考えてもいいかなとは思っています。

邪エナガちゃん

むしろ難しかったのはこちらの子です。
パーツは全部いいサイズで揃うのだけれども顔が可愛くならなくて……猛禽みたい、と言われちゃったりして1週間ぐらい放置してアイディアが降ってくるのを待ったりしていました。

邪エナガちゃん3

僕としてはこの丸っこい体つきに黒い羽が揃っていればかなりそれっぽくなるかなと思っていたのですが、妻や妹、頼んできた人それぞれにもう一声というご意見をいただき、あーでもないこーでもないとやっておりました。
最終的には嘴と目のバランス、そして片方の羽を開くことでかなりあの子のデザインに寄せられるということで、この形になっています。

邪エナガちゃん2

見えづらいですがこちらは足も折り出しています。

コウペンちゃんと邪エナガちゃん3

ここまできて引っかかったのが両者のサイズの比率です。
ちゃんと頭に乗せられるようにしたいと思っていたのですが、ペンギンの方がシンプルな造形な分、あまり大きくすると可愛らしさがなくなてしまうし、逆にシマエナガは細かい作業が多いので小さく作ると可愛く調整ができない……この子たち用に買った和紙ではペンギンはいい感じに行くのですが、厚みもあってシマエナガがシュッとしない……そんなこんなで最終調整に結構手間がかかった次第です。

コウペンちゃんと邪エナがちゃん

「えーっ今日がお誕生日なの〜?!すごーい!おめでとー!」
「ククク……邪悪な力の誕生を恐れるがいい……(うわーい、ありがと〜!)」
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Tora (Panthera tigris)

年が明けたからといってどうということはないのですが、まあこういうタイミングでもないとお題に沿ったものを作る機会もありませんので今年も干支を。

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折り紙を折る人たち、特に若い人たちのグループがSNSを介して強くなってくるに従ってレベルの向上も著しく、自分はすっかりヤムチャやチャオズになってしまってはいるものの、何かしら自分らしい表現、他の人たちがしていない表現ができないかとは思っています。干支は季節ものとしては自分には最も創作意欲を沸かせてくれる題材で(まあ動物が好きなんですね)、且つ色々なアプローチを見られるところでもありますから、良い機会になっていると言えるのでしょう。

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流れてくる作品を見ていると紙の両面を使い分けるインサイドアウトの作品が主流になっているようですが、そもそも自分が得意ではないこともあり、むしろ絶対その技法を使わないでトラに見えるものを作ろう、というのが今回のコンセプトでした。模様をなるべく折込みで表そうとしたのでかなり混み入っていて、残念ながら写真映えはいまひとつかもしれません。

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旧作では折出せていなかった指を作るのも今回の目標。ふさふさとした毛並みと柔らかな肉球の存在を思わせるような立体感も目指しました。紙の厚みもあって、後ろ足の方がうまくいっているかもしれません。

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身体に重点をかけるとやはり顔で苦労をします。特に旧作も顔は気に入っていたので少なくとも同じかできればそれ以上のできにしたいという思いがありました。Panthera属らしい鼻筋の長さとふっくらとした顔の輪郭、顔のこまめな皺など盛り込めるだけ盛り込んでみたつもりです。

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色違いも作ってみています。こちらの方が出来がいい部分もありつつ、紙の模様と折り出した模様が写真だと喧嘩気味になってしまいますね。。。

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と言いつつ後ろ姿は気に入っていたりして。
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オペラなひと♪千夜一夜 ~第百三十一夜/地上の重さから逃れて〜

あまり意図したわけではないのですが、ギオー、ヴァン=ダムと仏ものの大御所が続いております。そろそろちょっと毛色の違う人に行こうかとも思っていたのですが、奇しくも訃報を知りましてこの路線を続けることになりました。

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Tonio(La fille du régiment)

シャルル・ビュルル
(Charles Burles)
1936〜2021
Tenor
France

シャルル・ビュルルの名はどれだけ知られているのでしょうか(ラジオ番組で紹介されるのを聞くとどちらかと言えば「シャルル・ブール」といった音に自分は聞こえるのですが、ここでは表記としてまだ見ることの多い「ビュルル」で通します)。正直なところ、「泣く子も黙る」というほどの知名度を誇っているとは言い難いかと思います。ご存じとすればよっぽどオペレッタに精通している方か、パリ・オペラ座の公演を念入りに集めている方、或いはあのロンバールの素晴らしい『ラクメ』(C.P.L.ドリーブ)に感動された方ならば、ご記憶にあるかもしれません。

経歴としては10歳ほど先輩のミシェル・セネシャルと近いと言えそうですが、後々述べますけれどもセネシャル翁の個性を更に尖らせたようなところがあるように思います。比較的若い時期は主役として活躍しつつ、オペラ座では長い間にさまざまな傍役、更には端役まで歌っていますから、むしろ個性的な傍役として公演に花を添えているイメージの方が強いかもしれない。

かく言う僕も『ラクメ』のジェラルドに圧倒されてはいたものの、真剣に音源を集めはじめたのは、せいぜいこの1、2年がいいところでしょう。(後日プラッソンの同作のCDで脇役のアジを演じているのに気づいて心底びっくりしました)。しかし、聴けば聴くほど改めてその実力の高さに舌を巻きます。特にライヴ録音がすごい。むしろこれだけ卓越した歌い手が、どうしてスタジオでは大きな役を残していないのだろうと思わず首を傾げたくなるような、聴く人を魅了して止まない力を持っているテノールだと言うことがわかってきます。泣く子を黙らせるのは知名度ではなく、実力なのです。

この8月ごろ、Malibranから彼が主演した『ロンジュモーの御者』(A.アダン)を入手して、あの愉悦に溢れた高音を繰返し堪能していたのですが、どうもそのころに亡くなられたようです。日本では訃報も出なければ大きな話題にもなりませんでしたからオンタイムではわからなかったのですが、なんというか不思議な縁を感じまして、少しでも多くの方に彼のリラックスした超高音を少しでも知っていただくことができたらと思っています。

<演唱の魅力>
これまでも仏ものを得意とする歌手たちをご紹介するとき、彼らの声をあらわすキーワードとして優美さや明るさ、洒脱さ、洗練を挙げてきました。ビュルルは、こうした特徴が最もよく現れている歌い手の1人だと言えるでしょう。ゲッダやセネシャル、ヴァンゾ、アラーニャといった並みいるリリカルなテノールたちの中においてさえも、耳が蕩けるような陶酔感を与えてくれると言う点で、彼は別格です。あの高音域の響きの香の煙のような気だるげな甘美さと、夢のような典雅さと言ったら!当て推量ながら現在歌っているベル・カント歌いたちのような鋭利で身の詰まった胸声とは違い、頭声と言っていい発声だと思います。今どき流行らないスタイルなのかもしれませんが、そんな頭でっかちなことを言ってビュルルの声、ビュルルの歌の快楽をなおざりにするのはあまりにももったいありません。

僕が「優美」とか「洗練」とか「スタイリッシュ」と言うときには、あまり聴衆へのパフォーマンスに傾かない人が多いように思うのですが、ビュルルについては様子が違います。歌唱その物だけを取り出してみると、楽譜に書かれていない超高音を随所に挟み込んでもいれば、お得意の高音をしっかりと引き伸ばしていていて、言ってしまえばかなり「攻めている」のです。下手をすれば「テノール馬鹿」の烙印を押されてしまいそうですが(もちろんそうした歌の楽しみもありますけれども)、不思議と嫌味な感じを受けたり、過剰な自己顕示欲に辟易させられたりはしません。押し付けがましいスポーティなスリルを生む装置として超高音が付加されるのではなくて、むしろその優美な歌の中であるべき場所に適切に組み込まれていると言う方がしっくりきます。だから聴いている側にとっては妙なストレスがないと言いますか、自然な流れの中で感情のピークに超高音の愉悦に酔うことができるのです。

真面目な役柄を淡々と歌ったとしても、例えばベル・カントや仏もののように声質にあった演目であれば十分に活躍できる極上の歌をうたえたことは想像に難くありませんが、Malibranが出している名演集(毎度ながらなんと意欲的な仕事!)に接すれば確信に変わります。正確な年代まではわからないのですが、まさか20世紀の中庸に『清教徒』(V.ベッリーニ)の悪名高いハイFを舞台で歌ったテノールがいるとは!それもどうにかこうにか苦労して出しましたという代物ではなく、自信に溢れた声を響かせているのですから驚きを隠せません。また仏もののシリアスな演目としては繰返しになりますが、スタジオで遺しているジェラルドが外せないでしょう。爽やかで秋晴れのような澄んだ明るい響きには、地上の重さを感じないと言いますか、生々しい現実とどこか乖離したようなところがあって、この夢見がちで生活感のない人物と見事に合致しています。

とは言えそのあまりにも明るく、軽い、現実味の薄い声と抜群のコメディ・センスが、ビュルルを喜劇の人として聴衆に印象づけているのもまた事実でしょう。プラッソンはオッフェンバックの3つの演目で彼を起用していますが、いずれも主役ではなく表情豊かな脇役に据えているのは、その尖った個性が最も光る場を計算した見識と言えると思います。ビュルル自身もまた、自分に求められていることがわかっているようです。上述のとおり彼はどうすれば自然さを維持できるかを弁えている歌手なのですが、プリュトン=アリステ(J.オッフェンバック『地獄のオルフェ』)では敢えてはっきりと流れをぶった斬る高音で歌うことでエキセントリックな効果を上げています。こうしたビュルルの美質が結集するのは、高音の強さをコミカルな人物の造形にそのまま繋げられるような役です。残念ながらどちらも手に入れづらいライヴですが、トニオ(G.ドニゼッティ『連隊の娘』)とシャプルー(A.アダン『ロンジュモーの御者』)を聴けば、彼の最良の時を知ることができるでしょう。

<アキレス腱>
これも上述しましたが頭声に近いと思われる高音域は、現代のロッシーニ・テナーたちの力強い胸声による超高音に馴染んだ耳にはちょっと異質と言いますか、古くささを感じるものかもしれません(それでも意外なぐらいしっかり声量はあるのですが)。ゲッダも『真珠採り』(G.ビゼー)のアリアなどで近いことをやっていますし、往年のフェルッチョ・タリアヴィーニのソット・ヴォーチェも近い世界のように思いますから、このあたりに違和感を持つ向きだと辛いでしょう。
あるいはヒロイックで荒事っぽい力感をテノールに求める方の好みにも合わないだろうと推測しますが、そうした御仁にとってはおそらくは彼のレパートリーは興味の範疇外でしょうからこの点はそこまで心配いらないかもしれません。

<音源紹介>
・トニオ(G.ドニゼッティ『連隊の娘』)
エチュアン指揮/メスプレ、フォンダリー、フレモー、ル=ブリ共演/パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団/1979年録音
>この演目はCDでもDVDでも名盤と呼ばれる音源が少なからず存在しますが、僕個人はこの録音を随一に推したいです。序曲に歪みもあって音質がいいとはとても言えないものの、ドニゼッティらしい旋律の愉悦と仏ものらしい洒脱さ、そしてライヴの熱気が一体となった快演です。トニオは高音を得意とするテノールの憧れとも言える一方で、見せ場のアリアで連発されるハイCに加えて原典版は仏語なので、ただベル・カントを歌えるというだけではこなせない難役ですが、これら全てが強みであり、しかもコメディアンとしての才能のあるビュルルにとっては、自身の魅力をこれ以上なくアピールできる役と言えるわけです。その地に足がついていないつっころばしぶりは特に1幕前半で発揮されています。例えばマリーの歌う連隊の歌の合いの手の部分などは力量のある歌手がやればやるほど勇ましくなってトニオがスベってる感じが出なくなってしまうのですが、彼は声こそしっかり鳴りつつどこか頼りなげで世間知らずの坊やらしく、スュルピスたちに一喝されてしゅんとなるのも違和感がありません。当然ながらアリアも文句なし!ハイC8連発(多くの場合最後もあげるので9ですね)を終始スリリングな響きで魅了する名テノールはたくさんいますが、見せ場としての緊張感を保ちながらもこれだけリラックスした音で鳴らすことができる人は他に思いつきません。まさに、天にも昇る心地という感じです。2幕ではメスプレやフォンダリートのわちゃわちゃしたアンサンブルも楽しいですが、終盤のカヴァティーナの真摯な歌い口が1番の聴きどころでしょう。シリアスもしっかり行けるところがこうした部分で活きてきます。共演のメスプレ、フォンダリー、ル=ブリともに彼らの最上の歌唱、特にメスプレはすごいです。残念ながら手に入れるのがなかなか難しいのですがblog更新日現在でyoutubeで聴くことができますので、未聴の方にはぜひ一度触れて欲しいです。

・ジェラルド(C.P.L.ドリーブ『ラクメ』)
ロンバール指揮/メスプレ、ソワイエ、ミレ共演/パリ・オペラ・コミック管弦楽団&合唱団/1970年録音
>ビュルルの藝に触れることができるスタジオ録音として最も手に入れやすいものあり、決して多いとは言えない本作の全曲録音の中でも随一のものだと思っています。ジェラルドという男はある意味では最もテノールらしい、戀に没頭するがあまり破滅に突き進んでいく、あらすじだけ読むと共感を呼ぶというよりは苛立ちすら感じさせるような人物なのですが、これだけ耽美な歌声を聴かせられるとぐうの音も出ません。その淡くて儚い、蠱惑的な甘さを持った歌い口は、現実のラクメや彼女を取り巻く状況が全く見えておらず、彼女の棲む森が桃源郷か何かだと思い込んでいる彼をリアルに描写するばかりでなく、聴き手もその幸せに巻き込んでしまうような危うさもまとっています。残念ながら主役としての録音が多くない彼ですが、この役ばかりは当時の他の歌手に換えることはできなかったのでしょう。ここでもメスプレは絶好調でこれ以上ない名唱、ソワイエも苦々しい役を軽やかな美声と歌い口でくるんだ得難いサポート、ロンバールの華やかな音楽も夢想的なこの作品を引き立てます。

・シャプルー(A.アダン『ロンジュモーの御者』)
ブラロー指揮/サニアル、J.ドゥセ、ブリュン共演/マルセイユ歌劇場管弦楽団&合唱団/録音年不明
>彼の録音としては最も最近流通するようになったものだと思います。同時期に出たスピアーズ主演のDVDもバカらしくて楽しいのですが、力強い暗めの音色がこの中身のない軽やかな音楽といまひとつ相性が良くないのと、ちょっとその他のメンバー含めて「おバカをやってる」感じが拭えないので個人的にはこちらの方が好みです(スピアーズ自体は現役のテノールとしては最高だと思うのですが)。こちらは音しかない上に必ずしも音質良好とは言いかねるという大きなハンディキャップがあるにもかかわらず、「この人たちおバカだ」と確信させるような裏表のない潔さがあります。ゲッダもアリア集で残した1幕の御者の歌はハイDまで記譜されていて、この軽佻な作品にはそぐわないぐらい難しい曲なのですが、この超高音がそのままシャプルーのオペラ歌手としての売りとなるものであり、そのエキセントリックな人物設定そのものが笑いを誘うというところまでを、ビュルルはいささかも衒いのない清々しい歌で描いてしまうのです。これを聴いてしまうと彼以上の歌が想像できないような仮称とも言えるでしょう。共演ではここでしか聴いたことのないサニアルというソプラノが、メスプレのような可憐さと外連味を感じさせる歌でお見事です。

・プリュトン=アリステ(J.オッフェンバック『地獄のオルフェ』)
プラッソン指揮/メスプレ、セネシャル、トランポン、ロード、ベルビエ、コマン、ラフォン、マラブレラ共演/トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団&合唱団/1978年録音
>この作品のために書かれた音楽が全て収められているのだそうで、聴いたことのない旋律がたくさん登場するのは楽しいものの、プラッソン先生のテンポ設定もあってちょっと間延びした感じもある録音です。メスプレやトランポンもおっとり気味(2人とも大好きな歌手なのですが!)な中で、このドタバタ劇らしいスパイシーさを与えている人物こそ我らがビュルルで、黒幕であるプリュトンをかなり尖った歌と語りで演じています。既に述べましたがまず登場のアリステの歌からして、優雅で気持ちのいい歌だなあと聴いていると突然最後のフレーズを1オクターヴ上げて歌い出し(!)、そのまま歌い切ります(!!)。最初に聴いたときには、本当に椅子から転げ落ちそうになりました。かと思えば語りの地声は意外と低くドスが効いていて、悪役笑いなどルーニー・テューンズの世界から現れたかのような堂に行ったものです。アンサンブルでもエッジの効いた、しかし仏ものらしい物腰の柔らかさは決して失わないバランス感覚の鋭さで、映像も含めてこの役としては最高の歌唱だと思っています。共演ではいずれも以前記事にしていますけれども、やはりセネシャルのコメディアンぶりとロードの立派な世論が忘れがたいですね。

・ポール殿下(J.オッフェンバック『ジェロルスタン女大公殿下』)
プラッソン指揮/ヴァンゾ、クレスパン、マッサール、メローニ、ルー、メスプレ共演/トゥールーズ・キャピトール管弦楽団&合唱団/1976年録音
>『オルフェ』とは逆にこちらは結構カットが入っているようで、ミンコフスキ盤ではハイライトの一つと言っていい面白おかしさを見せている鐘のアンサンブルなどがごっそりカットされていますが、プラッソンの音楽運びそのものはこちらの方が闊達です。ややクレイジーな笑いを作り上げていたプリュトンに対して、ここでのポール殿下はまさしくつっころばし。優美な品こそあるけれどマッチョさや堅実さからは程遠く、軍人好きの女大公殿下のお眼鏡にはとても叶わないだろうなという情けなさを全体から発していて笑えます。お坊ちゃんらしいクープレももちろん楽しいものの、最高に楽しいのはカヴァリエ・バリトンらしい高貴さと気負いのあるマッサールと陰気なしたり顔を気取る実務家っぽいメローニとのチグハグでスピード感のある3重唱!フリッツ憎しだけで結託するおバカさが音だけでも伝わってきます。

・メネラオス(J.オッフェンバック『美しきエレーヌ』)
プラッソン指揮/ノーマン、エイラー、バキエ、ラフォン、アリオ=リュガ共演/トゥールーズ・キャピトール管弦楽団&合唱団/1985年録音
>プラッソンとのオッフェンバックの仕事でもう一つ。「エレーヌの夫」であることしか取り柄のないことを恥ずかしげもなく自己紹介してしまうおとぼけな王様を演じるには、彼の明るくすっとぼけた響きはうってつけですね。科白回しの巧みさはこちらでもしっかり発揮されていて、浮気の現場を発見して激怒するところなど、この人声優もやれたんじゃないだろうかという暴れっぷりです。そしてこちらでもバキエ、ラフォンとの3重唱が愉しい!この曲は『ギョーム・テル』(G.ロッシーニ)のパロディな訳ですが、ビュルルは引用されているアルノールの嘆きの旋律を原曲同様の悲壮な色彩で歌っていて、内容のバカバカしさとのギャップの笑いを仕込んでいます。バキエは恐らくテルを歌ったバリトンで唯一このアガメムノンも遺している人だと思うのですが、ついついあのシリアスそのものの歌唱を思い浮かべてニヤニヤしてしまいますし、仏語の節回しや言葉捌きがとにかくうまくて舌を巻きます。ラフォンもまたここでは縦横無尽の大活躍で、この人は喜劇の人なんだなと認識を新たにしました。予想外の配役に驚かされるノーマンやアリオ=リュガ含め、充実しています。

・漁夫(G.ロッシーニ『ギョーム・テル(ウィリアム・テル)』)
ガルデッリ指揮/バキエ、ゲッダ、カバリエ、コヴァーチ、メスプレ、ハウウェル共演/ロイヤルフィル管弦楽団&アンブロジアンオペラ合唱団/1973年録音
>そしてパロディ元の作品にも、彼は登場しています笑。ビュルルほどの声と技術があればアルノールも十分歌えたはずですが、父を殺した圧政者を憎みつつもハプスブルクの娘との戀に悩むという役柄があまりにもヒーロー然とし過ぎているせいか、この小さな役しか遺していないようです(次に触れる名唱集ではライヴの歌唱が入っています)。けれども、小さくてもむしろこの役の方が確かに彼の個性に合致しています。冒頭に歌うアリアは戀に焦がれつつも優しく楽しげで、祖国を憂うテルを苛立たせるには十分な暢気さがあります。ビュルルの軽やかでのびのびとした声とやわらかな歌い口がこの暢気さに合わないはずもなく、現実の危機を顧みない感じを一層引き立てているわけです。僅かな出番しかないのがもったいない気もしますが、適材適所といえる配役と思います。実力者で固められた主役たちについてはそれぞれの記事で述べていますが、ここではぜひバキエを上述のアガメムノンと聴き比べてほしいということだけは述べておきましょう。

・ジョルジュ・ブラウン(F.A.ボワエルデュー『白衣の婦人』)
・アルトゥーロ・タルボ(V.ベッリーニ『清教徒』)
詳細不明
>Malibranが出している名唱集は、いつものことながら詳細不明なライヴの切り貼りで必ずしも聴きやすい音ではないとは言え、全てのテノール・ファンにオススメしたい痺れる内容です。CD2枚にわたってラモーからアダンにいたるまでかなり色々な役柄を入れているのですが、特にオススメしたいのはこの2つ(いやむしろMalibranさん、これらの全曲を出してはくれまいか)。ジョルジュは強い高音を響かせているゲッダやブレイクを前にしても遜色がないどころか、彼らを凌駕する切れ味を持っている上に、セネシャルが聴かせるような優雅さや余裕さえもまとった超人的な歌唱。小気味の良い登場のクープレも胸のすく名唱ですが、やはり白衣の婦人を待つ大アリアが聴きごたえ満点、拍手がうるさいのだけが惜しいです。アルトゥーロについては何故かトラック分けされていませんが、主な出番がまとめてドカンと入っているので聴きどころは押さえられます(けどこれだけあるなら全曲が欲しいです、Malibranさん!)。彼の持ち味を考えれば想像できるとおりの、いやあるいは想像以上の力みのない、気持ちのいいベル・カントでうっとりさせられます。高音を売りにしている歌手でもえいやっと出しがちなハイC以上の音を、こともなげにスッと出していく技術の高さにはただただ頭が下がります。あのハイFをも滑らかに決めているのには、本当にびっくりさせられました(思わずスピーカーを二度見してしまいました)。ビュルルの真の実力を知ることのできる名盤です。
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