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Don Basilio, o il finto Signor

ドン・バジリオ、または偽りの殿様

ケンタロス



ケンタロス  ポケットモンスター25周年に寄せて
Tauros ver. 25th anniversary

今日は「ポケットモンスター」というゲームが世に出てから25周年だそうです。初代からのファンの1人として、心からお祝いしたいと思います。
コンテンツとして素晴らしい作品になったなあと思うのは、大人・子ども問わず現時点で現役で何かしらのゲームやアニメを楽しんでいる人たちはもとより、一時期離れてしまった人やもはやゲーム/アニメそのものを楽しむことはしなくなった人にも、そのキャラクターや音楽、登場人物やアイテムが郷愁を抱かせるものになっているという点です。かく言う自分もGoは続けていますし、金銀以来ひさびさに剣盾も買って少しずつ進めていますが、どちらかと言うと後者。でも、今もポケモン自体は大好きで、グラニフのコラボシャツなどは嬉々として買ってしまいましたし、推しのアイテムは(なかなか存在しないこともあって)ごりごり集めています笑。

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時の流れの速さを感じさせるのは20周年の記念作品として慌ててリザードンを拵えたことが本当につい最近のことのように思えることですが、考えてみればあれからフシギバナ、カメックスニドキングギャラドスピカチュウを作っている訳ですから、それなりに年月を累ねているんだなあと実感します。
この記念のタイミングで何を作ろうかと頭を捻ってみると、ちょうど今年は丑年!以前一度作品にしたときにも書いていますが、僕が25年間ずっと好きだと言い続けているケンタロスにぴったりではありませんか!普段あまりにも地味な扱いに甘んじていて、グッズにもならない彼らが節目の年のテーマにピッタリなどということはもう2度とは来ないでしょうから、どうしても作りたいと思って2ヶ月ほど準備を続けていました。

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前作に続き苦労したのはやはりしっぽ。三叉同じ長さ、そして細長いという作りのものがお尻からちょこんと飛び出しているというのをウシの身体に仕込むにはどうしたらいいか非常に難渋して、満足のいくものにできるまでには文字通り何日も費やしましたし、無駄にした紙もどれぐらいあったものかわかりません(もちろん当世の展開図から考えていく作家の方々にとっては難しいことではないのだと推察するのですが)。それでもどうにかこのバランスに行き着いたときには本当に嬉しくて、小躍りして妻に報告に行ったぐらいです笑。
頭のサイズや蹄を作るための仕込みを含めて最終的に割と簡単な比率に落ち着いたのもよかったところ。ただ厚みは結構なものになってしまうので、紙質をかなり選びます。最初に本折りと思って仕上げたものは糊で頑張って固定したのですが、どうも納得がいかず、ホイルで裏打ちした紙を新たに用意して作ったのが今回の写真のものです。
厚くなりすぎる部分が出てきてしまうというのは欠点ではありますが、出来上がりはもちろん、折っていて楽しいという意味でも自分としてはいいものが作れたと思っています(作品の完成度と折っていて楽しいかどうかは、不思議なことに相関しないような気がするんですよね)

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折角なので色違いも用意しました。
実のところケンタロスの色違いは、僕としては「どうしてこの配色にしたのか?」と思ってしまう色みでそこまで愛を感じてこなかったのですが、先日のGoのイベントのレイドでうまいこと1頭だけ手に入れることが出来ました。そうすると厳禁なものでなんとなく愛着が増してきまして、急遽紙を手配してこちらも作った次第です笑。

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ポーズはやはり25周年のお祝いというところで赤緑のデザインに拠るのがいいかなということで、初期の絵柄を元にしています。
ただこの点実は思うところもなくはなく。例えばピカチュウやイーブイ、プリンといった人気のあるモンスターはデザインについての研究がかなり進んでいて、グッズにしてもカラーリングや抽象化されたパーツに落とし込み、一瞬そうとは見えないのだけれど見る人が見ればポケモンのグッズだということがわかるレベルまで昇華された素敵なものがあります。ところがケンタロスぐらいのレアキャラになってしまうと、露出が少ない分その点の発展があまりにも少ない。時たまグッズが出たとしても赤緑版のポーズをごりっと押し込みました!みたいなことばかりで、タッチの差もあまりなければ思いっきりキャラクターグッズですよ感が全面に出されてしまってややおダサいテイストになってしまいがちです(このあたりもはや絶版になって久しいと思いますが絵本「ケンタロスのまもりがみのなみだ」は絵も物語も独特の世界を作っていて魅力的でした)。

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ときどき思うのが、ケンタロスが初代のゲーム環境であれほど圧倒的でなければ、或いはああして話題になるタイミングがもっとあとであったら、むしろ今もう少し日が当たっていたのではないかということです。もちろん当初は地味だし、しんかもしないしで名前すらほとんど知られていなかった彼らが小学生だった僕たちプレーヤーに知られるようになったのは、その強さがあってこそです。子ども目線の記憶になってしまいますが、あれだけゲットしづらかったにもかかわらず(実際僕は赤緑でのゲットは結局できていません……延々サファリゾーンで彷徨いていたのに……ガルーラやストライク、ラッキーは何度か獲れたのに……)、あの頃ケンタロスをパーティに入れていない子どもはいなかったのではないでしょうか。
でも、早すぎた。彼らが全盛だった時代はポケモンはもちろんゲームそのものが「子どものもの」でしたから、「子ども」を離れたコンテンツの展開はあまりなされていなかった。他方で初期の環境で強すぎたケンタロスは世代が進むに従って弱体化させられ(これが僕がポケモンから離れた理由でもあります)、大人に向けたポケモングッズが出て来るころには、ほとんど注目されなくなってしまった。
拗らせたファンのノスタルジーだとは思いますがそんな彼らに、もっと光を、という想いはつい募ります。

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さてゲームでは鬪神と謳われた彼らですが、アニメでは当時から不遇を託っていたところがあります。サファリゾーンを舞台にした回で、サトシがボールを投げるたびにケンタロスの群れに横切られ、結局30個のボール全てケンタロスになってしまう……比較的ポケモンのアニメはモンスターとの心の交流を描くような回が多かったにもかかわらず、自分の推しのときに限ってネタ要員なんてと子どもながらにかなり悲しくなったのを覚えています(しかも実際のゲームではケンタロスは群れどころか1匹出て来るだけで居住まいを正して真剣にボールを投げなければならない相手でしたから、「サトシお前、なんてうらやましい!」という気持ちもありました)。
ただ他方でやっぱりあの場面は印象的で、ケンタロスというと群れを作りたいという気持ちになります。そして作った結果がこれです笑。

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実際には「群れを作ろう!」と最初から意気込んだわけではなく、自分として気に入ったものができたこともあって、Goにハマっている母のいる実家に渡そうとか、職場の机に置きたいとか需要を見越した結果何頭か出来上がることになりました。ただこの時はホイルを使っていないので、改めて作る前のものです。
複数いるとそれなりに疾走感が増すように思えるのは欲目でしょうか?

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ひさびさの本格的な新作(実は年始のはこちらからのバリエーション)と積年の想いとで随分暑苦しい文章になってしまいましたが、今日はこんなところで。。。
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オペラなひと♪千夜一夜 ~第百廿七夜/深淵の奥底から〜

Twitterではつぶやいたのですが、昨年暮れに15年ほどデータを貯め続けていたiPodがお釈迦になってしまいました。ある程度手許に音盤の形で残してあるコレクションもありつつも流石にショックが大きく、ここのところずっとその修復作業に追われておりまして、あまりこちらの更新が進められる状況には今も至っていません。
とはいえあんまり開けてしまうとそれはそれで書かなくなってしまいそうな気もして、けれども特集したいという思いのある人はまだまだたくさんいるので、ぼちぼち更新していこうと思います。

我ながら驚いたのですが、ヴィノグラドフの特集をしてからまるまる3年近くここでバスの記事を書いていないのでした。大バリトン特集でほぼほぼ1年かかっていますし、そのあとは反動のように女声を立て続けにご紹介していましたから当然といえば当然なのですが……それにしてもそろそろ「これぞバス」と言えるような人を取り上げたいなと思った次第です。

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Zarastro

クルト・モル
(Kurt Moll)
1938〜2017
Bass
Germany

ヴァーグナーをあまり聴き込めていないこともあってどうしても独国の歌手は取り上げづらく、名だたる巨匠を認識していつつも記事にできていません。今回久々にバスのことを書くのであれば、折角ならここで開拓できていない独国のバスを、その中でもとびきり思い入れのある人をと考えまして選んだのが今回の主役、クルト・モルです。

バスの種類についてはネーリやルッジェーロ・ライモンディのところで触れており、そこではプロフォンドだカンタンテだブッフォだと伊語による分類を紹介していますが、仮にその分け方に則るのであればモルの声は正しくプロフォンド。それもこれほどに底知れない深さのある、石炭袋の闇のように暗い音色の持ち主は古今東西あまり思いつきません。しかも単に深い、暗い、重いということではなく、その声はあまりに美しい……深淵の底から響くような彼の声に誘われると、人智の及ばぬ闇の中へすら思わず足を踏み入れてしまいそうになります。だからこそ彼は、多くの神秘の世界の住人や高徳の僧侶を当たり役にしてきたのでしょう。

他方でモルは小さな役をコツコツと演じてキャリアを積み上げてきた、言わば“叩き上げの歌い手”の感があって、スタジオ録音でもライヴ録音でも信じられないようなレパートリーを遺しています。少なからぬ大役を歌ってきてから何もそんなパートを歌わなくてもと思わなくもないのですが、そうした経験こそが彼自身の歌を作ってきたという矜持があるのか、或いは主役を演じるのとは違う抽斗を使うことに意味を見出していたのか……いずれにせよモンテローネ伯爵(G.F.F.ヴェルディ『リゴレット』)やバルトロ(W.A.モーツァルト『フィガロの結婚』)といった役でも、彼の圧倒的な演唱を楽しむことができるのはファンにとって嬉しい限りです。そして、こうした役を演じてきた積み重ねが功を奏してか、コミカルな難役の中にも彼なしには語れないものが多々あります。

バス・ファンとしては不覚としか言いようがないのですが、2017年3月に亡くなられた頃は公私ともに多忙だった時期で全く訃報に気づかず、2年ほど経って大きなショックを受けたのでした。追悼というにはあまりにも遅ればせながら、今夜はモルの歌に想いを馳せたいと思います。

<演唱の魅力>
またもや自分語りのようなお話からで恐縮なのですが、僕が彼のことを初めて知ったのはまだクラシックを聴きはじめて間もない頃、NHK BSで放送された来日リサイタルの様子だったと記憶しています。この時の自分の第一印象は無邪気というかなんというか、「うわ、すごいおじいちゃん出てきたけど歌えんのかな」というものでした(と言っても、振り返るに70代ぐらいだったんだと思うんですが)。しかし第一声を聴いてその余りにも深みのある美声にビックリ!それ以来、あまり独ものは得意ではないと言いつつモルだけは自分の中で別格のポジションに居続けています(また、あの頃に既に幾らかでも自由にできるお金があったならと思うと、ちょっと残念でもあります)。ほとんど声楽に関心を持っていなかった人間の脳裏にすら刻まれる声なのです。

「深い」という形容詞を繰返し遣っていますが、他の面から光をあてるならば、やや籠ったやわらかな声ということもできるでしょう。この「やわらかな声」という点は彼のキャラクターにかなり効いていて、荒々しさはトーンダウンする反面、畏敬の念を感じさせる落ち着き、超常的なオーラ、声の暗さを緩和する人間くささと言ったものが引き出されているように考えています。加えて絶妙な瞬間に挟まれる声芝居が抜群にうまい!コミカルな悪役に憎めない表情を与えているのはこの濃やかさだろうなあと思います。象徴的なのはハーゲン(R.ヴァーグナー『ニーベルングの指環』)ではなくオックス(R.シュトラウス『薔薇の騎士』)を持ち役にしていたことで、これはモルの持ち味を知る一つのヒントになり得る点でしょう。もう少し深掘りするなら、同じように独国に典型的な暗く深い声を持ち、コミカルな役も得意にしたゴットロープ・フリックとの比較も役に立ちそうです。興味深いことに、彼は逆にオックスではなくハーゲンをメインレパートリーに据えています。両者がともに名演を遺している役オスミン(W.A.モーツァルト『後宮からの逃走』)からはその違いが炙り出せるかもません。どちらもその凄まじい声でオスミンの剛力無双ぶりを際立たせている部分は共通していますが、フリックがけばけばしいまでのドラマティックさでかえって間抜けぶりを強調する一方で、モルの歌には終始どこか人のよさがにじみ出ていて、ブロンデとのやりとりなど可愛らしささえ感じられるものになっています。

上述の通りその美声を駆使した小さな役にも忘れがたいものが数多くあります。こうした活躍という観点では、最近特集したところでいうとザレンバに近いということもできるかもしれません。これだけの声の人が一瞬の登場とはもったいないとも感じられますが、むしろその一瞬で舞台を引き締める声を出してくれるという意味では得難い存在と言えるでしょう。気品を失わずに呪いの言葉を突きつけるモンテローネ伯爵の鮮烈さ、怒る領主を諫める隠者(C.M.フォン=ヴェーバー『魔弾の射手』)の崇高さ、地獄の底から現れる騎士長(W.A.モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』)の血も凍る壮絶さ、異端者への容赦ない極刑を言い渡す宗教裁判長(С.С.プロコフィエフ『炎の天使』)の冷酷さ……いずれもモルだからこそ引き出せる境地を聴き取ることができます。

膨大なレパートリーの中から「これは」というものを一つ選ぶのであれば、ザラストロ(W.A.モーツァルト『魔笛』)を挙げたいです。物語をコペルニクス的にねじってしまうこの役は大変厄介な存在で、厳かな旋律にもかかわらず誰が歌ってもどうしても嘘くささや胡散臭さが漂ってしまうのを避けられないのですが、モルの穏やかで思慮深い歌い口にはそういったことに封をしてしまう魔力があるように思います。敢えてその怪しさを強調するのでないならば、彼以上に説得力のあるザラストロの登場は望めないように感じるのは、やや贔屓耳に聴きすぎでしょうか。

<アキレス腱>
低い方の倍音が豊かな深い声であることからは想像に難くありませんが、どうしても高い音には苦労している感じはあります。またこれも仕方のないことでしょうが、早口が必要な部分のもたつきが気になるという御仁もいらっしゃるでしょう(いずれも彼の声の重さを考えれば信じられないようなレベルで対処しているのですが……)。
また上述もしましたがやや籠った響きの楽器であることは確かなので、その点の好き嫌いもあるかもしれませんね。

<音源紹介>
・ザラストロ(W.A.モーツァルト『魔笛』)
サヴァリッシュ指揮/シュライアー、ローテンベルガー、ベリー、E.モーザー、モル、ミリャコヴィッチ、ブロックマイヤー、アダム共演/バイエルン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1972年録音
>既に上で述べたとおり、彼の演じた数多の役柄の中からどれが印象に残っているかと訊かれたならばこの役です。メトでの映像も遺されており、そこでも抜群の存在感を誇ってはいますが全体の完成度としてはこのサヴァリッシュ盤と思います(というか、この音源こそ個人的には『魔笛』のベストの演奏と言って憚りません)。モルの声のなんと優しく幽玄なこと!そしてその歌の厳かさと慈愛の深さ!しっかりとした足取りで聴く者の心に寄り添ってくる彼のザラストロの入念な歌唱は、先述の通りの台本による役柄の白々しさや出番の少なさなどを補って余りあるものです。或る意味では最も危険なザラストロということもできるでしょう。彼と対立するモーザーもまた夜の女王のベスト。技術的な余裕はありつつも、若者を冒険に導く鷹揚さと怒りに声を震わせるエキセントリックさとを兼ね備えています。タミーノやパパゲーノについてはやれヴンダーリッヒがいいとかプライがいいとかといった好みはあるでしょうがシュライアーとベリーが特筆すべき名演を繰り広げていることをなんら否定するものではありませんし、ローテンベルガーもチャーミング(彼女はオペレッタやもっと軽い喜劇のイメージが強いですが、卓越したモーツァルト歌いですね)。サヴァリッシュの堅牢なタクトもお見事です。つまるところこの録音、この役柄の多い演目では奇跡的なほど穴がないのです。『魔笛』の演奏をどれかひとつと問われれば、迷いなくこの音盤を推すことができます。

・騎士長(W.A.モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』)
ショルティ指揮/ヴァイクル、バキエ、シャシュ、M.プライス、バロウズ、ポップ、スラメク共演/LSO&ロンドン歌劇合唱団/1978年録音
>この演目はバスやバリトンが4人も必要ですが、モルのような深い声で歌うとなれば騎士長一択ですね。晩餐の場面で凄まじい声を響かせるイメージがあまりにも強い役であり、その場面で彼以上に強烈な印象を与える歌手はフリックやサルミネンなど少なからずいるのですが、ジョヴァンニとの決闘で殺される最初の場面の一瞬で人間的な優しい人柄まで感じ取れるという点で、この役のベストは彼ではないかと思います(またここでのプライスの可憐なこと!)。もちろん終幕での登場の存在感が相対的に低くなることはありません。ヴァイクルの甘美な、しかしちょっと世の中を馬鹿にしていそうなジョヴァンニに引導を渡すという意味で、本当に地の底から語りかけてくるようなモルの声はあまりにも効果的です。コミカルなだけはなくシニカルでもあるバキエのレポレロすらも、彼の前では恐怖せざるを得ないことがよくわかります。指揮・共演とも優れていますが、シャシュだけはモーツァルトには違和感があるかもしれません。

・オスミン(W.A.モーツァルト『後宮からの逃走』)
ベーム指揮/オジェー、グリスト、シュライアー、ノイキルヒ共演/ドレスデン国立歌劇場管弦楽団&ライプツィヒ放送合唱団/1973年録音
>彼の人間くさくて陽気な側面を知りたければまずはこれでしょう。上述した2つの役を聴いているときには、粗野で暴力的且つ間の抜けた顔が誇張されたこの後宮の番人を歌っているところはとても想像できないのですが、聴いてみるとこれほど憎めない、ある種の愛らしささえも感じさせるオスミンは他にないように感じます。相変わらず大砲のような凄まじい低音を駆使しながら決して鈍重にならない彼の歌を聴いていると、私などは竜巻きのようなパワーとスピードであちこちを駆け回るルーニー・チューンズのタズマニアン・デビルを知らないうちに思い浮かべることもしばしばです(そう言えば彼にもなんとも言えない愛嬌がありますね!)。難所中の難所である勝鬨のアリアの最低音にも余裕があります。ベームの指揮のもと共演もこれだけ揃えば文句なし。

・ドン・バルトロ(W.A.モーツァルト『フィガロの結婚』)
ショルティ指揮/ヴァン=ダム、ポップ、ヤノヴィッツ、バキエ、フォン=シュターデ、ベルビエ、ロロー、セネシャル、バスタン、ペリエ共演/パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団/1980年録音
ショルティ指揮/レイミー、ポップ、アレン、テ=カナワ、フォン=シュターデ、ベルビエ、ティアー、ラングリッジ、ケニー、タデオ共演/LSO&ロンドン歌劇合唱団/1981年録音
>モーツァルトのコミカルなキャラクターをもう一つ。『フィガロ』は登場人物の多い演目で、主役というべきスザンナ、フィガロと伯爵夫妻が揃っていて欲しいのはもちろんのことながら、彼らを取り囲む脇役たちが個性的に妙技を披露してくれるとそれだけ面白くなります。バルトロももちろんそうなのですが、ザラストロやオックスを持ち役にしたモルのような大御所が実際の舞台で歌っており、それが映像に収録されているという点で、最初に挙げたDVDは本当にありがたいものです(共演もバスタンをアントニオに据えるほどの無敵艦隊)。昨今の歌手のように俳優のような演技ではなく、割とパターンのある動きをしているようにも見えるのですが、それが実に自然で活き活きとしたものに感じられるのは20世紀の名手の底力でしょうか。聴かせどころのアリアではネチネチとした早口が笑いを誘いますし(その辺りで飽き飽きした様子をにじませるベルビエも笑えます)、ややふらつきながらもあの太い声で終盤の2度の高音を決められるとグッとくるものがあります。2つ目に挙げたややメンバーの異なる録音の方が有名と思いますし、ライヴでのワクワクはないものの演奏としては整っており、モルも正確さを取るならばアリアなどこちらの方が優れているでしょう(それにしてもこの時のショルティのチームは毎回ケルビーノ、バルトロ、マルチェリーナにフォン=シュターデ、モル、ベルビエを据えているのだから恐ろしいものです)。

・オックス男爵(R.シュトラウス『薔薇の騎士』)
フォン=カラヤン指揮/トモヴァ=シントヴァ、バルツァ、ペリー、ホーニク、ツェドニク、リップ、コール共演/WPO&ヴィーン国立歌劇場合唱団/1982年録音
>自分としてはどうしてもモルと言えばモーツァルトと刷り込まれてしまっているのですが、モーツァルトを敬愛しオマージュしたシュトラウスの作品での活躍、とりわけこのオックス男爵での歌唱を忘れる訳にはいきません。この役は下品で高慢で図々しくて卑怯で、恐らくはこの物語に登場する誰一人として彼に対して好意的な眼差しを注いでいないのに、間違っても客席からは嫌われてはならず、どこかに古い時代の優雅さと愛すべき人くささを湛えながら、一抹の哀愁をさえ漂わせていて欲しいという、数あるオペラの役柄の中でも最高峰の難役だと思います。モルの演唱は、この不可能な問いへの一つの説得力のある回答でしょう。元帥夫人に自分の若々しい好色ぶりを誇る得意満面さ、財産に対するネチネチとしたこだわり、テノール歌手をうるさいと叩き出す小心な怒り、そのあまりにも堂々たる退場……歌う人によってはさらっと流してしまいそうな部分に詰められた魅力は枚挙にいとまがなく、聴けば聴くほどその味わいは増していくようです。最大の見せ場であるワルツは言うにや及ぶ!ここでのオックスの鼻歌は単に彼が上機嫌という以上に優美で繊細で、どんな人間でもこんな風に美しく愛を歌うことができるのだとシュトラウスが主張しているよう思う部分で、モルはその意図を見事に実現していると感じます。オスミン同様に難所として知られる超低音も余裕たっぷり。フォン=カラヤンは正直うるさすぎる演奏も多い中でこれはベストの1つ、トモヴァ=シントヴァの淑女ぶりやバルツァの溌剌とした美青年に加え、ペリーもホーニクもいいですが、ツェドニクの演ずるヴァルツァッキがうまい!キャラクターテナーの面目ここに極まれり、という名歌唱です。

・ヴァルトナー伯爵(R.シュトラウス『アラベラ』)
レンネルト指揮/カバリエ、ニムスゲルン、ミリャコヴィッチ、コロ、ドミンゲス、ガイファ、スコヴォッティ共演/ローマ放送交響楽団&合唱団/1973年録音
>オックスと比べるとかなり小さいですが、如何にも彼らしいこうした役での良サポートぶりを聴き取れる演奏です。自身のギャンブル狂いで破産寸前などうしようもない面をコミカルに表現しつつ、貴族であり軍人であったことに誇りを感じさせるような重厚な声を響かせるというバランス感覚の良さは彼ならではでしょう。知的な歌い口もあって、この老人がいざとなれば意外に機転の効くところだとか結構ちゃんと父親としての慈愛も持っているところなども浮いてしまわずに説得力が感じられ、奥行きのある人物を作り上げています。伊国のオケに聞いたことのない指揮者、カバリエはともかく後はあまりシュトラウスの印象のないメンバーで、初めて聴いたときには正直期待をしていなかったのですが極めて完成度の高い演奏で自分の先入観を恥じました(苦笑)

・ファン=ベット(A.ロルツィング『ロシア皇帝と船大工』)
フリッケ指揮/ブレンデル、ボニー、ザイフェルト、ファン=デル=ヴァルト、ローテリング、リドル、ヴルコップフ共演/ミュンヒェン放送交響楽団&バイエルン放送合唱団/1987年録音
>コミカル路線で行くと日本ではなかなか演奏されない楽しい演目も遺しています。キャラクターとしてはバルトロを拡張したような、自信過剰で声だけは大きい権威的な人物(且つヒロインの父親)と言う比較的単純なものなのですが、いかにもロルツィングらしいロマンティックな旋律も満載されており歌うところが多い分、声だけで聴かせる響きの魅力や飽きさせない藝が必要な役でしょう。モルのパフォーマンスはまさに理想的なもので、重厚でどっしりした声がちょうどいい具合にこけ脅し感を出していますし、とぼけた口跡は聴いていて思わず笑みがこぼれるものです。「とぼけた」といえば、登場アリアでのファゴットとのヴィルトゥオーゾ的なやりとりはルチアの狂乱のような高度なアンサンブルをしているにもかかわらず正しくとぼけた味わいを出していてとても長閑。曲中1番の聴きどころかもしれません笑。

・ダーラント(R.ヴァーグナー『彷徨えるオランダ人』)
フォン=カラヤン指揮/ヴァン=ダム、ヴェイソヴィッチ、ホフマン、T.モーザー共演/BPO&ヴィーン国立歌劇場唱団/1981〜3年録音
>独国を代表するバスですから僕自身の嗜好とはかかわりなくヴァーグナーも重要なレパートリーです。この俗物の船長を演じるには彼の声はやや高貴過ぎるような気もしながら視聴しはじめるのですが、いざ聴いてみると喜劇的な役柄を演じるときのような軽さを感じさせる素晴らしい歌唱で、その懐の深さに頭が下がります。ヴァン=ダムの暗く籠った声とも相性が良く、序盤に取引をする場面の重唱はベル・カント的な優美さもありつつ作品そのもののどんよりとした空気にも沿った名演でしょう。フォン=カラヤンの豪奢な指揮も聴きごたえがあります。

・ヘルマン1世(R.ヴァーグナー『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』)
ハイティンク指揮/ケーニヒ、ポップ、マイヤー、ヴァイクル、イェルザレム共演/バイエルン放送交響楽団&合唱団/1985年録音
>彼の堂々たる重厚な低音は、言わずもがな身分のある人物を演じるのにも適しています。ヴァーグナーの王様役というのはどちらかというとメロディアスに歌いあげるというよりも、祝詞のような音程のある語りという趣きの音楽が当てられていることが多いのですが、それでも単調にならずに聴き手を惹きつける力量は特筆すべきものでしょう。2幕フィナーレのような重層的なアンサンブルも多いので、何を歌っているかがはっきり伝わってくるだけの声量があるのも大きなプラスです。この時期共演の多かったポップとヴァイクルもそれぞれに脂ののった歌唱、ハイティンクはつまらないという人もいますが個人的には風通しが良くて好ましく思います。

・ハインリヒ・デア・フォーグラー(R.ヴァーグナー『ローエングリン』)
アバド指揮/イェルザレム、ステューダー、マイヤー、ヴェルカー、A.シュミット共演/WPO&ヴィーン国立歌劇場唱団/1991〜92年録音
>アバドの『ローエングリン』というとドミンゴが題名役を演じた映像の方がメジャーらしく、隠れがちですがこちらも名演です(個人的にはマイヤーは得意ではないのですが、ここでは優れたオルトルートを演じていると思います)。モルは品格と安定感のあるずっしりとした声で、問題のある登場人物の多いこの物語の国を支える主を作り上げています。軍令のシュミットも相当立派なのですが、彼が仕える領主として全く不足のない、信頼感とカリスマのあるハインリヒです。ここでも頻出する長丁場の演説も決して飽きさせず、うまみのある歌でしっかり聴かせています。

・ファイト・ポーグナー(R.ヴァーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』)
サヴァリッシュ指揮/ヴァイクル、ヘップナー、ステューダー、S.ローレンツ、ファン=デア=ヴァルト、カリッシュ共演/バイエルン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1993年録音
>低音の役柄が多い演目ながら、バスの中でもとりわけ低い声を持っている彼が繰り返し演じているのはやはりこの役です(とは言え、アリア集ではザックスも歌っていますが)。どうしてもザックスがカリスマ的な主人公になってしまうので、ポーグナーはともすると地味で影の薄い印象になってしまうことも多いのですが、彼の輝かしい声は他の親方たちの中にいても決して埋もれることはなく、ニュルンベルクでも一目置かれる重要人物であることがすぐにわかります。また(いかにもヴァーグナーらしい価値観の枠の中であるとは言え)娘にも深い愛情を抱いていることのわかる、とても優しい歌唱は感動的です。

・隠者(C.M.フォン=ヴェーバー『魔弾の射手』)
クーベリック指揮/コロ、ベーレンス、メーフェン、ドナート、ブレンデル、グルムバッハ共演/バイエルン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1979年録音
>この演目でバスと言うとカスパールが強烈なアリアで記憶に残りますが(ちなみにこちらもアリア集で歌っています)、ここではそちらは先輩のペーター・メーフェンが演じ(彼もまた高級感のある美声!ながら録音が極端に少ないのが勿体無いです)、彼は物語の終盤に少しだけ登場する隠者を歌っています。出番が僅かとは言えこの作品全体を大団円に導く重要な要役であり、安直なデウス・エクス・マーキナーに堕さないような説得力がほしいです。ここでのモルは登場第一声で勝負あり。声量があると言うよりは空間を満たすような奥行きのある巨大な声と、その楽器を濫用しない穏やかな語り口が合わさって、常人の知を超えた高徳の人物として圧倒的な存在感を示しています。これだけのオーラがあれば、若々しいパワーが漲るブレンデルの領主が彼の意見を受け容れるのも宜なるかなと言ったところでしょうか。

・カジモド(F.シュミット『ノートル=ダム』)
ペリック指揮/G.ジョーンズ、キング、ヴェルカー、ラウベンタール共演/ベルリン放送交響楽団、RIAS室内合唱団&聖ヘトヴィヒ大聖堂合唱団/1988年録音
>間奏曲が時たま演奏される以外はほとんど接する機会がなく、正直ちょっと散漫な部分もあるのですが、独ロマン派らしい甘美で重厚な音楽に酔える作品でもあります。『ノートル=ダム』ものの他のオペラ同様にカジモドの出番は意外と少ないものの、終幕での活躍は忘れがたいものです。ここでは普段の落ち着いたモルや気のいいモルではなく、よりドラマティックな歌唱。フロローとの対決の場面はその荒々しさに手に汗を握りますし、全てが終わった後の絶望的な独白は長くはないものの、悲痛で胸に迫ります。こういう人間味のある芝居をすると彼はピカイチですね。

・宗教裁判長(G.F.F.ヴェルディ『ドン・カルロ』)
マルティネス指揮/ギャウロフ、アラガル、フレーニ、トロヤノス、マズロク、レイノーゾ共演/ハンブルク州立歌劇場管弦楽団&合唱団/1980年録音
>本領の独ものに留まらない幅広い活躍を知ることができる録音もいくつか。伊ものの中でもモルの凄まじい声が最大限に活きるのは当たり役だと思っています。大変残念ながらスタジオ録音もなければ手に入りやすいライヴ音源もないのですが、バス・ファン必携です。同じように抗いがたい高僧であっても、ザラストロや隠者で聴くことができるような穏やかな聡明さではなく、狂信的であるとさえ言えそうな権威とヒエラルキーの意識が宿った非人間的な存在であることが明確に示された演唱で、思わずゾッとさせられます。「人ならざる何か」になってしまったことが感じられる宗教裁判長としてはネーリと双璧でしょう。だからこそ、藝としての円熟期に差し掛かったこのギャウロフの非常に人間味のあるフィリッポとの対決には凄みがあります。20世紀を代表する名バス2人の対決がこうして残っているのは、まさしく幸運でしょう。

・モンテローネ伯爵(G.F.F.ヴェルディ『リゴレット』)
ジュリーニ指揮/カプッチッリ、ドミンゴ、コトルバシュ、ギャウロフ、オブラスツォヴァ、シュヴァルツ共演/WPO&ヴィーン国立歌劇場合唱団/1979年録音
>これも「モルほどの人がこんな小さな役を!」と言う代物のひとつでしょうが、ここに彼を起用した慧眼と交渉力は賞賛に値するものでしょう。あまり話題にされることはありませんが、リゴレットの侮辱に対して我を忘れて呪いの言葉を叫ぶこの人物がいなければ、そもそもこの物語は始まらないのです。そしてその呪いの叫びはリゴレットの脳裏に深く刻みつけられるような強烈さがなければなりません。モルのノーブルな歌い口はこの貴族の自尊心を示すのにふさわしいものですし、その底しれない声での罵りにはまさに地獄から響いてきているような凄みが感じられます(騎士長を想起するのは僕だけではないでしょう)。ここでも共演しているギャウロフは、彼らしい微妙な色彩を加えながらも残虐な行いを辞さない野卑な響きがあって見事なコントラスト。他に共演で傑出しているのは繊細なコトルバシュで、彼女のベストかもしれません。ただ全体として見るとジュリーニの音楽が丁寧なんだけれども勢いに欠けるもので、特に主役のカプッチッリが足止めを食ってしまっているのが惜しいです。

・宗教裁判長(С.С.プロコフィエフ『炎の天使』)
N.ヤルヴィ指揮/セクンデ、S.ローレンツ、ツェドニク、ラング、サロマー共演/イェーテボリ交響楽団、イェスタ・オーリン合唱団&イェーテボリ・プロ・ムジカ室内合唱団/1991年録音
>知っている範囲では唯一の露ものの録音です(とは言え、全体的に独っぽいメンバーで土臭さよりは純音楽的なシンフォニックさを感じさせるものではあります)。『ドン・カルロ』の宗教裁判長ほどの“邪悪さ”はないにしても、主人公を破滅させる絶対的なこの宗教権威もまたおぞましく、“善”の衣を纏っているからこそ始末におえない腐臭を感じさせる役柄だと思います。その意味でここでモルが演じていることには2つの側面から非常に強い説得力を与えているようです:1つは繰返しになりますが地の底から響いてくるような彼の深く暗い声によって抗いがたい力を感じさせること、もう1つは彼が多くの役でも見せる穏やかで格調高い歌がここでも聴けることによって“善”の衣を纏った恐怖の存在であるということです。共演ではここでも脇役ですがツェドニクが抜群。セクンデの悪声がエキセントリックなレナータに貢献している一方、ローレンツはちょっと穏当すぎるかも。
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Ushi (Bos taurus)

"平安と喜びがあなたにありますように"
(これはバジリオではなく、アロンソですけどね)

去年は散々な年で自分の生活が侵食される恐ろしさを知った時間でしたが、家に長いこといた分いろいろと気づきもあったし、それまでのマイナスな習慣が清算されたところあったかなと思っています。状況はどうもますます悪くなっているように見えますが、だからこそちょっと心持ちも変わって、新しいことを始めてみようとも思っているところです。

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去年の記事でも書いていた通りここ数年あんまり創作意欲が湧いていなかったのですが、ちょっと大きな作品を出す機会があったこともあって紙に触っているうちに、やっぱり楽しいなあという気持ちがまた生まれてきました。しかも今年の干支は昔から好きな動物のウシですから、これまで実現できていなかった蹄を表現した手の込んだものを作ろうと思った次第です。

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のときもそうですが副蹄は何かしら表現したいと考えつつ、イノシシとウシではメインの蹄の形がだいぶ違います。このずっしり感を出したかった。

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「これをやりたい」がうまくいっても別のところで引っかかってしまうのは良くある話。今回は頭の処理に悩みました。パーツはあるんだけど欲しいところに欲しい長さで伸びない!結局角に使うつもりだったパーツと耳に使うつもりだったパーツを入れ替えたらすっとまとまりました。

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いい感じに出来上がったんだけど、作り込めば作り込むほど美味そうな感じになってしまうのは何だんだろうw

また、このコロナで乱暴な言葉の投げ合いに疲れてしまってtwitterの個人アカウントを閉じたのですが、創作折り紙を発表するため改めて開設しました。基本的に作品発表にしぼった発信の予定。
粗製濫造にはしたくないのでたぶん低浮上になりますが、よろしければ気長におつきあいくださいませ。
@basiwolihaberi

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開幕7周年!

今年は久々にちゃんと立上げ日に更新です笑。
最初の頃の記事などを見返すとまだ7年しか経っていないのかと思ったり、もう7年かと思ったり。
30,000アクセスから随分と間が空きましたが、40,000アクセスもつい先週達成しまして、読んでいただいている方々には頭が下がるばかりです。

「オペラなひと♪千夜一夜」について言えばもともと記事を書いていたところから場所を一度移しているのでこのblogそのものよりも歴史が長いのですが、ちょっと思い立って最初の記事を書いたのがいつだったかなあと見返すとなんと11年前!それも9/25ということでこのblogの誕生日と1日違いだったという……笑。
11年かかってようやく130夜手前というところですから、1,000夜までは遥か遠く……これからも精進していきたいと思います。

これからも、どうぞよしなに。
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オペラなひと♪千夜一夜 ~第百廿六夜/綺羅星の姫君〜

1ヶ月に1度ぐらいは更新したいのですが、なかなかままなりませんね……。
さておき今宵は久々に伊国の薫りのする歌手をご紹介。

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Leonora(Il Trovatore)

アントニエッタ・ステッラ
(Antonietta Stella)
1929〜
Soprano
Italy

20世紀中葉を代表するスピントの名花。経歴を調べるとプッチーニもよく歌ったようですが「ヴェルディのひと」という印象が強く、それは外形的には、ディスコグラフィーに顕れていると言えるでしょう。彼女の代表盤と言えばまずはセラフィン盤の『イル=トロヴァトーレ』、それにサンティーニ盤『ドン・カルロ』にガヴァッツェーニ盤『仮面舞踏会』とヴェルディ中期の傑作が並びます。面白いのが、併せてよく知られている音盤がプッチーニではなくジョルダーノの『アンドレア・シェニエ』であるところ。ここには彼女の持ち味を間接的に見出せるかもしれないと思うのです。

実際に彼女の歌を聴くと感じるのは、曲がらない信念を持っていそうな意志の強さ、芯の強さです。これは彼女の楽器によるところが大きいと思います。決して固い声やきつい声ではなく伊国らしいふくよかな響きですし、変な重ったるさとも無縁の清澄な声だと思うのですが、兎に角馬力があります。他方その歌には強さとともに、育ちの良い相貌や美しい所作までもが想像できそうな王族・貴族の風情が漂っています。こうした彼女の特徴はヴェルディの描くドラマティックな時代劇の姫君にしっくり来るもののように感じておりまして、それが例えば2度にわたってエリザベッタ(『ドン・カルロ』)のスタジオ録音を遺す結果につながった理由かもしれないなどと妄想してしまう次第です(彼女のプッチーニをまともに聴くことができていないので、この推測は本当に妄想レベルの、フェアではないものですが)。

同世代のゲンジェルやトゥッチに較べればかなり商業録音に恵まれてはいますが、彼女もまたやや先輩のカラスとテバルディの活躍と活動時期を同じくしていることで、割りを食っているように思います。ステッラの長所が最もよく発揮されている録音ですら、彼女たちと比べて魅力に欠けるというような批判がなされてしまうのは、明確な個性を持ったスターとして非常に残念なことです。「黄金時代」の多様性の一つの重要な証左として、彼女の名演の数々は大きな意味を持つと思うのですが……。

<演唱の魅力>
ご多聞に漏れず僕がステッラという人を知ったのは、名盤の誉高いセラフィンの『イル=トロヴァトーレ』でした。恥ずかしながら白状しますとこの時には「素晴らしく美しい声のソプラノ」以上の印象がなかったのですが、本当にオペラに触れはじめたばかりだったこともあって、それこそ繰り返し繰り返しこの演奏を聴き、耳になじませたのを覚えています。そんなこんなで私の中でのレオノーラのイメージはすっかりステッラなのですが、いろいろと他の歌手の歌唱を聴いた今改めてこの音源に改めて当たってみて痛感するのは、如何に彼女の声が特殊なものだったかということです。彼女の楽器の明るく柔らかみのある響きはどう聴いても伊もの向きなのですが、他方で金属的で厚みのあるオーケストラをも分断する強靭な輝きは、敢えて誤解を押して言うのであれば、ヴァーグナーやR.シュトラウスを得意とする独系の歌手の持っている力強さを想起させます。今回改めて聴き直していた時には思わずビルギット・ニルソンの名前が脳裏によぎる瞬間もあって、ひょっとするとこの人は何かしら違う巡り合わせであればブリュンヒルデ(R.ヴァーグナー『ニーベルングの指環』)なども歌ったかもしれないなどと考えたりもしたくらいです。

一方的な声の強さだけではなく、言葉の感覚の鋭敏さ、声芝居の巧みさも彼女の大きな特質でしょう。セラフィンとの『椿姫』(G.F.F.ヴェルディ)はカラスとの因縁を避けては通れない音盤でなかなか純粋に評価されづらいところがありますが、ここでのゴッビ演ずるジェルモンとのやりとりなど、どうしてどうして緊張感と哀しみに包まれた得難い感興のある瞬間です。そのニュアンスの豊かさは、より彼女に向いた役であるエリザベッタ(『ドン・カルロ』)の長大なアリアでも聴き取ることができるでしょう。また、『仮面舞踏会』ではそうした言葉のをちゃんと聞かせながら、テンポが速くて細かい厄介な動きをしっかりはめるという辣腕ぶり。そのアンサンブル能力の非凡さも味わえます。

それにしてもここで述べてきた声の強さやニュアンスの豊かさ以上に、ステッラの個性を際立たせているのは、高雅な気品です。前段で「時代劇の姫君」と形容しましたが、その王侯貴族の令嬢然とした空気は彼女の藝風の根幹を成しているように思います。決して大時代的な古くさい歌い回しではないのですが、同時に決して現代劇風のメタ的な視点やある種の冷酷なドライさも似つかわしくなく、例えば読替え演出の舞台に登場するステッラはとても想像できないのです(笑)。とはいえそれは単に型にハマったお嬢さんということではなくて、背景は書割でも先の展開が見える固定観念の世界の「理想の女性像」でも、その世界の主人公として生きている存在感を宿しています。この点こそが歴代の名花たちの中でもとりわけ彼女の特異性が顕れている部分ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

<アキレス腱>
上述の通り濃やかなニュアンスをつけることができる人ではあるのですが、あまりにも美しく、強い声だからでしょうか、力押しに終始してしまっているような時がないではありません。そうした音源に出会うと、ステッラならもっと歌えたはずだと思うのに……と残念な気持ちになります。またこれは好き好きだと思いますが、常に均質に豊かな歌声というわけではなくて、速いパッセージなどで語りのようなやや乾いた響きの声が混ざる時があるので、気になる人は気になるかもしれません。
コロラテューラについては一糸乱れぬ正確さを売りにした人ではないのでお好みでない方もいるでしょう(特に下降音型はだれがち)。が、これだけの質量のある声としてはかなり達者だと僕個人は思います。

<音源紹介>
・レオノーラ(G.F.F.ヴェルディ『イル=トロヴァトーレ』)
セラフィン指揮/ベルゴンツィ、バスティアニーニ、コッソット、ヴィンコ共演/ミラノ・スカラ座管弦楽団&合唱団/1962年録音
クレヴァ指揮/ベルゴンツィ、バスティアニーニ、シミオナート、ウィルダーマン共演/メトロポリタン歌劇場管弦楽団&合唱団/1960年録音
>かなりメンバーは共通していますが、方向性は全く異なるいずれも超名盤。特徴を簡単に述べるなら音楽として磨き上げられ、完成された演奏である前者と、舞台としての生々しさがまざまざと記録された後者において、ステッラについてもその双方のベクトルがはっきりと顕れています。自分にとって刷り込みになっていることは否めないにしても、やはりこのセラフィン盤での彼女ほど美しいレオノーラは思い当たりません。楚々とした麗人を思わせる端正さと美しさを兼ね備えつつ、声の強靭さは随一で、鍛えた刃物のような美しさがあります。ベル・カント作品の総決算的な面もある本作、華やかなコロラテューラも立派なものです。しかもカットされがちな4幕のカバレッタまで入れてくれているのは嬉しいところ。これに対して後者はヴェルディ演奏黄金時代のライヴの真髄を知ることができる強烈な演奏です。多少瑕が出ようが何だろうが、目の前の聴衆といかに白熱した舞台が作れるかに心血を注ぎ切った、異様なまでの集中度にはくらくらさせられます。ステッラはアリアもいいですがこういう音盤はやはりアンサンブルのうまさが光るところで、1幕フィナーレの熱気や4幕でのバスティアニーニとの丁々発止のやり取りは、ライヴ録音に求める魅力の全てが詰まっているようです。いずれも最高のトロヴァトーレ、是非座右に。

・エリザベッタ・ディ=ヴァロワ(G.F.F.ヴェルディ『ドン・カルロ』)
サンティーニ指揮/クリストフ、ラボー、コッソット、バスティアニーニ、ヴィンコ、マッダレーナ、デ=パルマ共演/ミラノ・スカラ座管弦楽団/1961年録音
>こちらもまた最大の当たり役。エリザベッタを2回もスタジオで録音している歌手は寡聞にしてステッラしか知りませんし、それもカラスやテバルディが活躍している最中のことということを考えると、彼女たちとは異なる個性がはっきりと認識されていたのかなと思います。以前の自分のメモを見ると重厚な低音陣に恵まれた旧盤やライヴ録音の方が好ましいと感じていたようですが、改めて聴いてみるとカルロのラボーとの声の相性の良さ、言葉さばきの巧みさなど彼女の良さはこちらの方が出ているように思いました。伊語5幕版(ここではやや変則的)の1幕の重唱は、歌手の力量と魅力がないと持たない場面で正直なところ退屈な思いをすることも少なくないのですが、ここではラボーともども伊ものに向いた煌びやかで透き通った美声と情感豊かな歌唱で本盤の大きな聴き処になっています。別れに際した小さなロマンスも哀切極まる佳演ながら、やはり大詰めのアリアが極め付けの名演でしょう。

・アメーリア(G.F.F.ヴェルディ『仮面舞踏会』)
ガヴァッツェーニ指揮/ポッジ、バスティアニーニ共演/ミラノ・スカラ座管弦楽団&合唱団/1960年録音
>ステッラのヴェルディとしてもう一つ忘れることができないのがアメーリアです。特に「イタリア歌劇団」公演を生でご覧になった世代の方々にとっては、彼女がベルゴンツィやザナージと演じた超のつく名演がありましたから、その印象はより強いかもしれません(残念ながら私はまだあの映像を入手できていないのですが)。ここで紹介しているスタジオ録音は、彼女の声を取り出して考えるならばベストでしょう。その美しさと強靭さについて今回の記事では何度となく繰り返して触れてきていますが、それらが高次で融合された非常にスケールの大きな歌唱を楽しむことができます。しかも馬力一辺倒には決してならず、例えば2幕終盤や3幕の不穏で動きの細かいアンサンブルなど正確無比なリズム感とフットワークの軽さをも示す会心の出来です。同様に旨みの強い巨大な声を持っているバスティアニーニもお見事で、これでリッカルドがベルゴンツィだったら!という思いを強くします(ポッジは明るい澄んだ声は魅力があるのですが、どうも高い倍音が伸びきらないというかやや詰まって聴こえてしまうのです。。。)。

・ルイザ・ミラー(G.F.F.ヴェルディ『ルイザ・ミラー』)
サンツォーニョ指揮/ディ=ステファノ、マックニール、アリエ、カンピ、ドミンゲス共演/パレルモ・マッシモ劇場管弦楽団&合唱団/1963年録音
>ステッラのヴェルディと言えば上述3役が絶対に外せない王道であるのに対し、裏名盤と言いますか、あまり知られてはいないけれども是非オススメしたいのがこのルイザ。そもそもこの役かなり要求の厳しい難役で、序盤はベル・カント作品のヒロインのような転がしや軽さが求められるのに対し、2幕のアリア以降はうんとドラマティックで深刻な歌を歌わねばならず、多くの名ソプラノが挑んでいながら全曲通して満足できることはほとんどないです(大体が登場の場面で軽さが出ないか、逆に後半でパワーが不足してしまうか)。正直ここでの彼女も登場のカヴァティーナの細かいパッセージにはうまく決まっていない部分もあるのですが、個人的には知る限りで最高のルイザだと思います。冒頭では彼女の声の暖かい輝きから、うきうきとした幸せな心持ちがひしひしと伝わってくるのに対し、偽りの手紙を書かされる場面からはその声の強さを全面に押し出して、臓腑をえぐるような悲痛な歌唱(しかし決して絶叫調にはならない)を繰り広げる手腕は圧巻です。共演ではディ=ステファノは勢いの目覚ましい名唱、アリエもいつもどっしり構えた歌が持ち味ですがいい意味でテンション高め、カンピの憎々しい怪演と短い時間ながらドミンゲスの登場も嬉しいところ(ところでこの音源、どの情報を見ても伯爵がカンピ/ヴルムがアリエとされていますが、明らかに逆です)。マックニールは1幕の熱唱は良かったんですが3幕がちょっと荒っぽすぎで惜しい……。

・ヴィオレッタ・ヴァレリー(G.F.F.ヴェルディ『椿姫』)
セラフィン指揮/ディ=ステファノ、ゴッビ共演/ミラノ・スカラ座管弦楽団&合唱団/1955年録音
>上述したとおりカラスにまつわるエピソードばかりが語られてしまう音盤ながら、ステッラらしい良さもしっかり出ており無視できない演奏だと思います。確かにここではややコロラテューラがもたつきがちだったり、慣例的なEsを入れなかったりというところで1幕、特に本作のハイライトというべきあのアリアではいささか地味な印象になっているのは否めないのですが、むしろ迷いや憂いが繊細に表現されている2幕からの完成度の高さは比類ありません。訥々とソット・ヴォーチェで優しく“諭す”ゴッビのジェルモンに対して、最初は毅然として振る舞いながらも徐々に迷いと諦めとに支配されていく重唱は、全曲中の白眉。また3幕の直情的なディ=ステファノとの重唱も聴きごたえ十分、特に後半の「こんなに若くして死ぬなんて!」というドラマティックなやりとりが秀逸です。

・マッダレーナ・ディ=コワニー(U.ジョルダーノ『アンドレア・シェニエ』)
サンティーニ指揮/コレッリ、セレーニ、ディ=スタジオ、マラグー、モンタルソロ、モデスティ、デ=パルマ共演/ローマ歌劇場管弦楽団&合唱団/1963年録音
>万全のキャストによる、燃えた鉄のような熱気に包まれた名盤……なのですが主役3人に大看板を並べたガヴァッツェーニ盤の割りを食ってかあまり言及されないように思います(もちろんあちらも掛け値ない極上の声の饗宴を味わえる演奏であることは言を俟ちませんが)。テバルディのマッダレーナが波乱の人生を歩みながらもどこか腹をの据わった奥ゆかしさを感じさせる淑女であったのに対し、ステッラはよりはっきりとヒロイン、不運に見舞われた育ちのいいお嬢様という風情で、絶妙なバランスで気品と癇の強さが共存しています。そう、この役は革命で落ちぶれてしまうとは言っても、ヴェリズモやプッチーニの時代の作品には珍しい貴族令嬢で、そのように考えると彼女がスタジオ録音としてこの役を遺したのはとても合点が行くように思うのです(余談ですがプッチーニの姫様役と言えばご存知トゥーランドットがおりまして、声質を考えてもステッラが歌うのだとしたらこの役だという気がするのですが、全曲はどうも歌ってなさそう)。コレッリの熱唱やセレーニの苦みばしった歌とも相性が良く、モノクロ映画を観ているような感興があります。

・リンダ(G.ドニゼッティ『シャモニーのリンダ』)
セラフィン指揮/ヴァレッティ、タッデイ、カペッキ、バルビエーリ、モデスティ、デ=パルマ共演/ナポリ・サン・カルロ劇場管弦楽団&合唱団/1956年録音
>全曲録音がほとんどない本作にとっては貴重な存在である一方で、彼女にとっては異色の録音だと言わざるを得ないでしょう。知る限り彼女のドニゼッティはこれしかないのですが、ステッラの個性を考えるならばそれこそ女王三部作ぐらいドラマティックな作品を歌ってそうなものなのに、敢えて可憐な田舎娘のリンダに起用されているのですから。彼女の録音としては最も初期のものなので、あるいはまだその持ち味を模索しているときだったのかもしれません。ではここでの歌唱が大味で退屈なものかというと、これが文句なく素晴らしい。ルイザでも感じられたように、登場アリアから甘やかで明るい声の響きにうっとりさせられてしまいます。もちろん役に対して重い声ではあるし、機動力でももっと優れた人はいるでしょうが、彼女の声だからこそ引き立つ歌のうまみがあるように感じます。そうした甘美さが更によく出ているのがヴァレッティ演ずるカルロとの重唱、最高にロマンティックです。他方で彼女らしいシリアスなパワーを聴き取ることができるところもあって、例えばボアフレリー侯爵がパリのリンダを訪ねる場面は通常ならば彼ら2人の行き違った感情がコミカルに歌われるものだと思うのですが、名ブッフォのカペッキが徹頭徹尾ふざけて笑い歌っているのに対して、ステッラはかなり深刻に悩んだり不快感をあらわにしたりしていて、侯爵の非道さとリンダの哀れさがグロテスクなまでに強調された一種異様な迫力がある怪演になっています。そして狂乱になると、タッデイやバルビエーリとの絡みはほとんどヴェルディのような切迫感で進んでいきますし、続くカバレッタはゆっくりと、しかし明らかに正気ではないぎこちなさを伴っていて、聴いていて寒気を覚えるほど。間違いなくこの録音最大の聞きどころです。全体にこの作品には重い指揮とキャストながら、その方針でしっかりと筋が通っていて独特な個性を持った名盤になっているように思います。
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