Don Basilio, o il finto Signor

ドン・バジリオ、または偽りの殿様

『あまちゃん』と宮澤賢治

そろそろほとぼりも冷めて「じぇじぇじぇ!」の氾濫も収まってきたところなので、ちょっと書いてみます。

昨年放送されていたNHK朝ドラ『あまちゃん』は、宮藤官九郎の独特のセンスのある世界が盛大に展開された朝ドラらしからぬ作品であったが故、好き嫌いが大きく分かれるものだったように思います。僕は非常にこれ好きで、毎朝楽しみで観ていました(とは言え東京編の地下アイドル時代のあたりは観ていない部分も多いのですが^^;)。クドカンさんの筆は全編冴え渡っていて、作品としても作品の中の仕掛けとしても凄いなあと思う面は枚挙に暇がないのですが、僕としてはやはりこの作品と賢治との関係が非常に気になっています。ところが、ネットを見てみてもあまりそこを深く言及している人はいない模様(多分僕の探し方が悪いんですが^^;)。なので、これについて僕が考えていることを徒然なるままに。

(1)『あまちゃん』と賢治の無関係性
上で関係性と言っているのに、いきなりのっけから「無関係性」の話で何じゃらほいと言いますか、言ってること違うじゃないかと思われるかもしれませんが、暫しご堪忍を。そもそもの部分で勘違いをされている方がかなりいらっしゃるようですので。。。

「『あまちゃん』の舞台は岩手県だから、同じ県の偉人もカメオ出演させちゃえ!」というような発想で関係している、というほど単純な話ではないと思います。ひとつには、後述しますが賢治を絡めている手法があまり直接的でないこと。そしてもうひとつ重要なのが、『あまちゃん』の舞台のモデルとなった久慈と賢治が中心に活動した花巻や盛岡がかなり離れていると言うことです。地図でご確認いただければと思いますが、久慈花巻間は直線距離で言えば東京から水戸ぐらいの距離感があります。また、震災後の交通の遮断による影響もありますが、花巻から久慈まで例えば電車で行こうとすると4時間以上かかります!水口の科白にもあるとおり、岩手は広いのです!ちょっとこれだけの距離感のものを、作品同士はあまり関係ないけど同じ県内だからという理由だけで単純に繋げるのは、やや唐突な印象を否めません。
これで賢治が久慈で長期滞在した記録があったり、逆にアキやユイが花巻で長期ライヴをやる話があったりすればまだなんとなくわかる訳ですが、いずれもありません。

(2)音楽から示唆される賢治
『あまちゃん』が賢治と関係すると言われるのは、その音楽からです。
むしろ、全編通して、明確に賢治を意識していることを指示しているのは、BGMしかありません。不勉強で申し訳ないのですが、脚本と音楽がドラマに於いてどのぐらい関わりがあり、どのように仕事をするのかわかっていません^^;が、中身と照らし合わせて行く限り、少なくとも今回の場合はがっぷりと一緒に仕事していないとこうはならないような気がしています(今回は言及しませんが『いつでも夢を』と夏のエピソードなどもそれを感じられる例)。

マグロ漁で世界中をめぐっている忠兵衛が最初に登場するエピソードで初登場するのが、賢治が作詞作曲したことで知られている『星めぐりの歌』です。忠兵衛がアキに世界中のさまざまな風物を見て回るのは、北三陸を出たことがない夏にここが一番だと教えるためだと語る場面で初めて流され、その後このテーマは重要な場面で繰り返し登場しています。

音楽として賢治に関わりそうなのはもうひとつ、これも繰り返し登場する大事なテーマですが、ゴダイゴの『銀河鉄道999』。北鉄と関わる場面で何度か登場する重要なテーマです。

『星めぐりの歌』は、賢治ファンが聴けばすぐ「あ!あれだ!」とわかるような代物ではあります。が、一般的な知名度がそこまであるかと言うと恐らくそうではないでしょう。“岩手と言ったら賢治”ということを押し出すにしては、随分控えめな印象です。『999』なんかはもっと単純に言えなくて、賢治に関係すると簡単に大見栄切って言うと怒られそうです^^;これは賢治の『銀河鉄道の夜』にインスピレーションを得た松本零士の同名の漫画のマンガのテーマであり、賢治の作品そのものにちなんだものではないからです。ここでも“岩手と言ったら賢治”にしては押しの弱い主張です。
これはどちらもこの弱い押しから何となく岩手っぽい賢治っぽい雰囲気が醸されればいいや~という次元で一部の人向けに発せられたスパイス程度のもの、中華風だからごま油使ってみましたみたいな次元のものなのでしょうか。

個人的にはそれにしちゃどちらも重たく扱われてないかい?と思うのです。

(3)『双子の星』と『銀河鉄道の夜』
『星めぐりの歌』は賢治にとっては思い入れのある作品だったようです。単独の作品であるのみならず、賢治の有名な童話『双子の星』と『銀河鉄道の夜』というふたつの作品で登場しています。更に、『双子の星』のエピソードにも『銀河鉄道の夜』の中で言及があります。これらは非常に緊密な関係のある作品です。

賢治には、大変仲の良い妹トシがいたことは、ご存じの方も多いのではないでしょうか。賢治は彼女を大変可愛がっていましたが、彼が26歳の時に病死してしまいます。彼女の存在や彼女の死は作家にとって大きなものであり、『永訣の朝』や『ひかりの素足』など多くの作品にその影響を見ることもできます。『双子の星』と『銀河鉄道の夜』もその例に漏れません。『双子の星』の主役である天の野原で笛を奏でる双子の星チュンセ童子とポウセ童子、『銀河鉄道の夜』の主役として空を旅する軽便鉄道に乗るジョバンニと最後には別れてしまう友カンパネルラは、いずれも賢治とトシがモデルとなっているとされています。この2人の主役というのが、『あまちゃん』との関わりの大きなミソです。

『あまちゃん』の主人公はアキということになっていますが、実際には群像劇とも言うべき作品で、たくさんの主役を見出すことができると思います。少なく見積もっても夏、春子、ひろ美、そしてユイは主人公と見なすことができるでしょう。

アキとユイ。『あまちゃん』の世界をひっかきまわしていく2人の主役は、『双子の星』と『銀河鉄道の夜』での2人の主役と重ねてみることができるのではないでしょうか。

『あまちゃん』のひとつの軸になるのが、アイドルを目指す2人の奮闘譚です。アイドルは北三陸市のような地方にとっては、華やかな存在。地元を賑わすご当地アイドルは、まさに地元の2人のスターです。「スター=星」即ち「歌や踊りを披露する2人のスター」は「笛を吹く双子の星」の姿にそのまま繋がっていきます。更に、「2人で東京でアイドルになる!」と言って出発するも結局は東京にたどり着くことができないユイという設定も、「どこまでもどこまでも一緒に行こう」と言いながら旅を続けることなくジョバンニの前を去るカンパネルラと重なって見えてきます。
この2人の主役を、クドカンはもっと捻った形で変奏していきます。「2人でアイドルを目指し、夢を叶えたアキと挫折したユイ」というテーマとまずダブってくるのは岩手から芸能界を目指した2人、アキの母春子とひろ美です。歌と言う才能を持ちながら開花できなかった春子と、あまりの音痴ぶりに春子の歌と運で以て成功を掴んだひろ美。成功を掴んだものと掴めなかったものと言う両者の関係性は、アキとユイの関係に繋がります。この2人はいずれもアキたちとは異なり、本来的にはスターとして必要な条件を欠いており、欠いているからこそ2人はセットの主役だと言えます。もっと言うのであれば、その春子の両親である夏と忠兵衛にも、アキとユイの姿を見ることができます。北三陸を出たことがないユイのためにあちこち渡り歩いて、ここが一番だと教えてあげると言うアキのことばは、物語の序盤で夏のために世界を渡り歩くと言った忠兵衛のことばから繋がってくるものです。そして、この忠兵衛の語りの場面で初めて『星めぐりの歌』がかかっています。世界をめぐる忠兵衛・アキの姿と星めぐりが重なってきます。これらが無意味になされているとは思えません。
「3代前からマーメイド」とひろ美が歌ったとおり、夏・春子・アキにはそれぞれセットとなる忠兵衛・ひろ美・ユイがおり、彼らは3代の“双子の星”なのです。

アキとユイが東京を目指すのに用いようとした手段は、バスを試したこともありましたが結局は北鉄でした。その北鉄に乗って行ったアキと乗って行けなかったユイがジョバンニとカンパネルラであることについては既に言及しましたが、そう考えると北鉄が銀河鉄道であると言うことも見えてきます。本編から離れますが『999』のテーマについては賢治との関係だけではなくいろいろな要素が絡んでいて、楽曲そのものが1979年の作品であり春子の青春時代と現代を繋ぐものであると言うこと、歌詞と復興のイメージのリンク(北鉄運転再開の際に流れる)など考えられることはたくさんあります(恥ずかしながらマンガを読んでいないのですが、その内容とも無関係ではなさそう)。北鉄とともに『999』がかかるのは、単に鉄道をモチーフにした楽曲であることやその曲調からではなく、物語上の必然なのです。
やや穿ち過ぎかもしれませんがそうして見て行くと、北鉄周りには銀河鉄道めいたものもちょこちょこ存在しています。菅原のジオラマと黒曜石でできた地図、小田の琥珀採掘場とプリオシン海岸、ウニを捕る海女たちと鳥を捕る人、震災でユイと大吉が乗った車輛の止まったトンネルと石炭袋などなど。

(4)まとめ
以上のように考えて行くと、やはりクドカンはかなり意識して『双子の星』と『銀河鉄道の夜』の主題を織り込んでいるようです。それもおおっぴらにはならないように意識して。2人の主役が密接に関係する『双子の星』と『銀河鉄道の夜』を前面に出すことなく両作に関わりのある『星めぐりの歌』で匂わせたり、『銀河鉄道999』という別作家の作品をクッションとして間に挟んだり、というのはいずれもかなり手の込んだことです。花巻さんの科白を借りるなら「わかるやつだけわかればいい」ということになるのでしょうが、それにしても何故ここまでして北三陸こと久慈とは直接の関わりのない賢治を本作に絡めたのか(「わかるやつだけわかればいい」というのがまた“花巻”さんだというのも何となく示唆的です)。

クドカンはインタビューで、本作の最後1ヶ月は“岩手讃歌”だというような趣旨の発言をしているそうですが、シーズン通して観てみても本作はやはり“岩手讃歌”、“地元讃歌”だと言えると思います。しかしこの物語の枠で語られているのは、結局は広い岩手県のほんの一部、久慈の復興エピソードです。普通にやっても充分面白いドラマになり得るとは思いますが、もっとコンパクトな印象になったのではないかと思うのです。ここからもっと拡げて、この物語が岩手の物語であるということを主張したいと考えたときに、隠し味として賢治の童話を組み込んだのではないかなぁ、というのが僕自身の解釈です。結果としてこの作品の持つ汎用性は上がったような気がしますし、キャラクターにもエピソードにも広がりができています。

今回は僕の興味の対象である賢治という観点のみから『あまちゃん』というドラマを見てみた訳ですが、クドカンは恐らくこうした仕掛けをもっとこの作品に用意しているように思います。脚本家の本気が垣間見える本作は、単なる流行りのドラマで片付けるには勿体ない作品だと言えるでしょう。表面的な小ネタ部分だけではなく(もちろんそれもこの作品の魅力ではありますが笑)、根幹の部分で凝りに凝った作品なのですから。
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イーハトーヴ交響曲

Eテレで放送され話題となっていたのですが、当日は旅行中で観られなかったので今日音源を聴いてみました。ネット評を見る限り音源でというよりは映像で楽しむべきものであるようなので、飽くまで音を聴いた感想と思っていただければ。また、初音ミクという媒体をこうしたライヴの演奏に組み込むことと言うのは非常に高度な技術が必要なことということで、それ自体は想像に難くないことですが、私自身はそこについては具体的な知識が皆無なので、そこの部分はここでは触れません。ほとんどまっさらの状態で聴いてみた感想だと考えていただければ。

全体を通して何度か聴いてみて、正直申し上げて感動には程遠かったです。
賢治の世界を表現すべく、優秀な人材と最新鋭の技術を投じた壮大なプロジェクトを挙行したけれども、看板倒れになってしまったな、というのが率直な感想です。

賢治の話となると一にも二にもまずは壮大な幻想世界のイメージがあるようで、音楽に限らずさまざまな表現媒体で彼を本歌どるとそうした作品を志向する傾向があります。個人的にはそのことの是非は何処かで問わねばならないような気がしています。確かに幻想の中で遊ぶ部分というのは賢治の中で非常に大きいですが、作品の背景にあるのは当時としてかなり高度な科学の知識であったり、或いは非常に強烈な宗教思想だったりという部分があります。どうもこうした部分には拘らず非常に安直に幻想的雰囲気を醸すことに終始する作品が多いように思うのです。話が逸れましたが何が言いたいかと言えば、音楽で以て賢治を題材に幻想的な雰囲気を醸し出す作品は既にたくさん存在するし、この作品もその域を出ない印象だったということです。手法としては、話題となっている初音ミクなどびっくりするようなものも用いているけれども、できた結果としてはなんだか普通の作品。特に「雨にもまけず」などは賢治をベースとした作品として新規性がないと思う以上に、あまりにもありきたりな現代音楽の合唱で、合唱コンクールに行けば似たような曲はいくらでも聴けるでしょう。

聴きとれる範囲での各作品やことばの扱いもどうなんだろうという感じ。飽くまで私個人の読み方に合わないと言うことなのだと思うのですが…。
例えば『風の又三郎』など比較的明るい作品だと思うのですが、不安感を煽るような音楽になっています。逆にもっと凄味の欲しい『注文の多い料理店』は皮肉めいた雰囲気は悪くないにしても背筋が寒くなるような恐ろしさが感じられない。全編どこかしらそういう賢治の作品からの印象との不一致があって、なんだか素直に楽しめないのです。間違いなくしっくり来るのは原体剣舞連の打楽器と星めぐりの歌ですが、剣舞連は詩の扱いがなんだかなぁと思うし星めぐりの歌はそもそも賢治が作曲してますからね(^^;
ことばの扱いというところでいくと、元来の賢治の作品から感じられるリズム感が活きていないと思います。“どっどどどどうど”にしても“dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah”にしてもなんだか間延びしてしまっていて痒くなります。また、子供たちが「カンパネルラー!」「ジョバンニー!」と叫ぶところもなんだか全く切迫感がなくて、正直ずっこけました。「さわやか3組」みたいなノリで明るく楽しくわらわらと言われても(苦笑)これはアニメ映画での田中真弓の「カンパネルラぁぁッ!!!」が脳裏に焼き付く凄演だけに余計に稚拙に響きました。

それから取り沙汰される初音ミクですが、試みとしては面白いしインタビューなんか見ると作曲者の意図もわからなくはないですが、ちょっと自己主張し過ぎで賢治の世界から浮いてしまっている感じ。「イーハトーヴ交響曲」と銘打ってるのにいきなり「わたしは初音ミク~♪」はないんじゃないの^^;作曲者が“彼女”を起用したのはvocaloidという存在の面白さやら特性やらからだというのは納得するけど、これじゃただキャラソン作っただけですよ。「注文の多い料理店」の読み替えというのも理窟を聞けばふーんと思うけど、初音ミクは賢治の創作物ではないですし、前知識なくあの歌詞がいきなり出てきたら意味不明ですよ。

と言う訳で私自身にとってはアニメ映画「グスコーブドリの伝記」、NHK「80年目の賢治」に続きガッカリでした。媒体が異なる訳ですから、全てを賢治の原作どおりにする必要はなく、意味のある改変はあってしかるべきだとは思うのですが、なかなか難しいですね。他に音楽で言えば久石の作品もありましたがあれもいまいちでしたし。じゃあ自分に何が作れるかって言ったら手が止まってるんですけどね(苦笑)
宮沢賢治 | コメント:0 | トラックバック:0 |

グスコーブドリ考

そろそろほとぼりが冷めたころだろう、というかネタバレをしてもいい時期だろうと思うので、簡単にこの夏公開された映画『グスコーブドリの伝記』について。

先に断わっておくと、私自身この作品をどう評価していいかどうか、悩んでいる部分が非常にあります。
ただ、確実に言えることは、少なくともこの映画が“宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』”ではありえないということだと思います。

映画全体を通してみて感じるのは、この作品を作ったひとたちは少なくとも賢治の作品をよく読み込んでいる、或いはよく知っている人だということです。賢治ファンなら思わず反応するようなフレーズや科白があちこちにちりばめられていますし、仕掛けとしても組み込まれています。
私が気付いて覚えている範囲だと、
1)序盤のグスコーナドリの科白中「とんびの染物屋が~~」は童話『林の底』
2)先生が学校の授業で朗読している詩は所謂『雨ニモマケズ』
3)途中でブドリが見る夢(というより迷い込む幻想世界?)の世界は『グスコーブドリの伝記』の原型と言われる童話『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』の世界。
4)ブドリの夢の世界のひとつで流れている詩は『青森挽歌』
5)ブドリの夢の世界の裁判の場面で鞭を鳴らす人物は童話『どんぐりと山猫』の馬車別当。加えて、この裁判を仕切っている人物は猫(ただし、この映画の登場人物はすべて猫である)。
あたりでしょうか。こうした部分は賢治への或る種のオマージュと捉えることができるかなと。

ただ、このオマージュが果たしてうまく行っているかと言われると、ちょっと困ってしまいます。
例えば上に上げたもののうち、1)は非常に軽微なもので、あればクスリだけどなくても別にどっちでもいいかなと言う感じ。2)は賢治の非常に重要な思想であり、原作の大テーマだと言って良いと思う自己犠牲を示している部分があるので、有効な改変だと言って良いでしょう。問題は3)と4)です。
3)については、『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』を知っていると、非常に興味深く見ることができるのは確かです。ネネムの伝記はブドリの伝記の原型と言われており、最後を除き基本的な話の流れは一緒ですが、その実両者はかなり異なっています。ネネムは化け物世界を舞台として書かれ、序盤で人さらい(化け物さらい?)に連れて行かれた妹を後半にサーカスで発見する場面があります。映画をご覧になった方はピンとくると思いますが、ブドリの夢の中の街の住人がすべて奇怪な姿で描かれているのは、明らかにネネムの影響です。加えて、映画のブドリは夢の中のサーカスで妹ネリを見つけますし、別の夢で裁判にかけられているのもそうでしょう(ネネムは化け物世界の最高裁判長になります)。今回の映画のひとつのツボは、ブドリの夢と言う形を取ることで、映画『グスコーブドリの伝記』の中に前身作であるネネムの伝記を重ね合わせていることと言えるでしょう。これは両者を知っている人にとっては非常に興味深い構成でしょう。ほぼ同じプロットながら世界観の全く違う物語を、夢で糊付けして重ね合わせてみることができるというのは、趣向としては面白い。ただ、これがネネムの伝記を知らない人、更に言えばブドリの伝記すら読んだことがなくて、初見だというような人に伝わるかと言うと、かなり厳しいと思います。ネネムの夢、幻想と言うことはわかったとしても、それでなんでブドリの世界の猫の姿の住人達とは違う、気味の悪い姿をした人たちの世界に入って来るのかちっともわからないと言われても、文句は言えないでしょう。そういう意味でこの仕掛けは、面白いことは面白いけれども、かなり高次元な内輪ネタに過ぎないとも言えるように思います。
4)についてはさらに厄介だと言えます。『青森挽歌』の具体的に言えば「ギルちゃんが~~」の件のあたりが繰り返される中、ブドリが化け物の街を彷徨う場面です。そもそもこの映画の制作側は、ブドリと賢治をかなり意識して重ね合わせている感があります。そのためにブドリがネリと出会わないという重要な原作からの改編もなされている訳ですが、それについては後述します。『青森挽歌』は、亡くなった妹トシに賢治が捧げた挽歌のひとつであるわけで、そういう前知識があれば、化け物の街の中でブドリが妹のネリを探す場面でこれを引用している意味が分かります。ただ、これを普通に映画を楽しみに来た人に求めるのは、正直酷でしょう。相当賢治について知っていなければ、ここでのこの詩の意味はわからない。
5)についても同様です。裁判の主題自体はネネムのもの。その主題に合わせて山猫の馬車別当が登場しています。ここでは『どんぐりと山猫』の馬車別当のコミカルさはだいぶ薄れ、むしろ気味の悪さ・恐ろしさに力点を置いた描き方をしています。

ここまで見ていくと、要するにこの映画は、賢治をよく読み込んでいる制作側が、賢治に畏敬の念を込めて、さまざまな仕掛けを放り込んだものの、少しやり過ぎでわかりづらくなってしまった、賢治作品への愛ゆえの失敗と言う風に見ることもできますが、なかなかどうしてことはそう単純にはいかないようです。
というのも、この映画作品は、原作の芯ともいうべき重要なポイントをいろいろと変更してしまっており、結果としてこれを“賢治の『グスコーブドリの伝記』”というには抵抗があるレベルにしてしまっているのも、また事実だからです。

まずはブドリの人物像ですが、原作でのブドリは実直で素直ではありますが、自分で物事を考え、行動する才能ある人物であり、その結果として周囲から信頼もされる、というようなキャラクターづけがなされていますが、映画の中での彼の科白はほとんど「はい」であり、確かに実直で信頼はされる人物には映りますが、自分で考えて行動するという要素の面では随分と後退しているように思えます。加えて、原作に較べると彼の活躍が少ない。原作を読むとブドリの有能さはクーボー大博士の授業のところでもよく顕れていますが、そこからさき研究所でのペンネンナーム技師(明らかにペンネンネンネンネン・ネネムと関わりのある名前ですね)の火山局での活躍ぶりがやっぱり目立ちます。火山局にいるのは、技師とブドリの2人だけであり、ブドリがその有能さと努力で結果をいろいろ出していくように原作では見えるのですが、映画ではモブとしてたくさん先輩技師が出てくるし、どちらかというと経験値の高いペンネン技師や先輩たちの方が前に出て、ブドリはその組織の歯車の1個のように見えます。原作と映画を較べれば、当然映画の方が仕事内容的にも現実味がある訳ですが、これではブドリのキャラクターが弱くなってしまう。更に言ってしまえば、原作ではブドリは最終的にクーボー大博士やペンネン技師を説得して自分がカルボナード島に突っ込んでいくわけですが、その大事な場面でも、彼は2人を説得できず、何故かコトリの力でカルボナードに向かったかのように演出されています。これだとブドリの自己犠牲という主題が全然生きません(尤も、最後の場面がスペクタクルにならなかったのは良かったと思います。小田和正の歌だけは、好き嫌い別にして余計な感じがしましたが)。

更に、ブドリの重要な場面がカットになっているのもいただけません。
ひとつはブドリが小村でリンチに遭う場面、もうひとつは妹ネリとの再会の場面です。
恐らく理窟としては、前述のとおりこの映画ではブドリを賢治と重ね合わせているので、賢治がトシと死別したことを、ブドリがネリと結局再会できないということでリンクさせたいというところがあり、結果、ネリとの再会のあしがかりとなる小村でリンチされるという一コマもカットされたということなのでしょう。このリンチの場面の前提としてある、彼が火山を使って空から肥料を降らせて豊作となったという、彼の功績も如何にも賢治らしい壮大なものではありますが、ちょっと現実味がないという部分もあるのかもしれません。
しかし、これをカットしてしまうとブドリの業績はサンムトリの場面ぐらいしかなくなってしまい、ブドリが優秀な人物であり、彼の業績が農村の人たちの生活に直結するという、大事な要素が欠けてしまいます。また、ネリとの再会も、これは現実の世界では叶わない妹トシとの再会を作品世界に仮託したと考えると、ここも賢治の意図を尊重するのであればカットすることのできない場面だと思います。

前述もしましたが、何より原作の主題は自己犠牲なのです。これはどう足掻いたって変わりません。
才能に溢れ、世間からも認められ、離れてしまった妹とも再会し、恩のある人物には恩を返した、未来のある若者が、そのすべてをかなぐり捨てて、人々の幸せのため、“ほんたうのさいわひ”のために命を捨てる。
これが良くも悪くも原作『グスコーブドリの伝記』の核になっている部分だし、賢治作品の多くの重要な主題なのです。だから、賢治の作品、特にこの作品は好き嫌いがはっきり分かれて然るべきで、拒絶反応を起こす人も絶対にいる、ただそれと同じぐらいこれが素晴らしいと思う人たちもいる、と言う種類の作品なのです。

今回の映画ではその賢治の作品として大事な部分を大幅に殺ぎ落としてしまっていると思います。
それ以外にもいろいろと改変はあります。テグス工場の場面をブドリの夢にしてしまったり、コトリのキャラクターを大きく拡張したり、このあたりは原作と大きく異なる部分ではありますが、前述のそれに較べれば大した問題ではありません(個人的には不必要で意図のわからない改変に思えますが)。
こうなってしまうと、話の展開が原作通りかどうかと言う問題以前に“宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』”とは全く異なった、別の作品として考えるのが妥当なのだろうと思います。
ただ一方で、先に述べたようにやや過剰なまでの賢治作品へのリスペクトも感じられる内容でもあります。

以上のように考えたときに、非常に中途半端なものに終わってしまった感が否めないです。賢治へのオマージュとするのか、それとも賢治とは全く別の世界を生み出すのか、どちらかにバットを振り切って呉れてさえいれば、まだ評価できるところを、どっちつかずのまま提供されてしまったように感じます。
賢治作品をよく知っている人が観てももやもやが残るし、かといって賢治を全く知らない人が見て楽しめるかと言うと、おそらくそれもないでしょう。

良く作りこんであると思いますし、映像も大変美しい場面や印象的な場面もある。
見るべきところは少なくないが、腑に落ちない部分も沢山ある。
駄作とは言わないが、決して傑作とも言えず…となると成功してはいないから、やっぱり失敗作なのかしら。
未だに考えあぐねています。
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Basilio大学士の旅宿(その3)

 ところがどうだ名高い楢ノ木大学士が
 釘付けにされたように立ちどまった。
 その眼は空しく大きく開き
 その膝は堅くなってやがてふるえ出し
 煙草もいつか泥に落ちた。
 青ぞらの下、向うの泥の浜の上に
 その足跡の持ち主の
 途方もない途方もない…
 (『楢ノ木大学士の野宿』より)

 【旅宿第五日】

旅館ということでいつもよりかなり多めの朝ごはんをゆったりと食べ、も一度温泉に入ってからバスで出発。さあ、最終日。
…と言ってもこの日は完全に行き当たりばったりに、そういえば行ってないやというところをめぐったのですが笑。

花巻駅の近くのベンチには、かえるくんたちのブロンズが。
何とも言えず絶妙な表情なので撮っちゃった笑。

 あるとき、三十疋のあまがえるが、一諸に面白く仕事をやって居りました。
 (『カイロ団長』より)

で、今日の目的地は高村光太郎の手をもとにした賢治の詩碑。
これが駅から3㎞って書いてあるんだけど、遠い遠い…途中で薬局のおばちゃんはじめ地元の人とかと絡みながら言ったというのもあるんだけど…それにしても遠かった(^^;

 雨ニモマケズ 
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ
 慾ハナク
 決シテ瞋ラズ
 イツモシヅカニワラッテヰル
 (通称『雨ニモ負ケズ』より)
こうしてあちこち回ってからここにやってくると、なんというか達成感。
僕自身は賢治の詩については苦手だけれども、こうして有名なフレーズに触れると、旅に円環性が出てくるような気がしてくる。
しかし、、、光太郎さんいろいろ間違えすぎじゃね?誤植がww

この碑が立っているところが、三日目に行った羅須地人協会の建物がもともとあった場所なのだそう。
そりゃあ、ほんまもんの「下の畑」を観に行きたいと思う訳です笑。

 そしてどれも、低い幅のせまい土手でくぎられ、人は馬を使ってそれを
 掘り起こしたりかき回したりしてはたらいていました。
(『グスコーブドリの伝記』より)

思った以上に小さな土地です。
ここで賢治は理想の農村を目指して活動し、やがて挫折していくことになる…賢治の人生の中でも大きな位置を占める土地に立つことができ、感慨も一入でした。
ちなみにこの下の畑ですが、結構協会からきょりがありますww

花巻のランドマーク、マルカンデパートの食堂でちょっと腹ごしらえ。
名物14段ソフトクリーム。懐かしい、昔の、ちょっと重たいソフトクリームで、私はとても好きでした^^

賢治の墓所にもご挨拶に伺いました。
こうしてここまで賢治の世界にどっぷりと漬かるとは…自分でも夢にも思いませんでした。
そして、近くにあった『風の又三郎』の群像を観に。花巻市文化会館のお庭、というか公園に立っています。

 三郎はまるであわてて、何かに足をひっぱられるようにして淵ふちから
 とびあがって、一目散にみんなのところに走って来て、がたがた
 ふるえながら、
「いま叫んだのはおまえらだちかい。」とききました。
「そでない、そでない。」みんないっしょに叫びました。
 (『風の又三郎』より)

この花巻市文化会館は、賢治の勤めていた花巻農学校の跡地なのだそうです。
当時の俤を知ることはできませんが、碑なども立っています。

花巻最後の食事は、ちょっとこじゃれた洋食屋ポパイ。
ここでは岩手名物の白金豚をいただきました。この旅行、魚料理が多かったので、ちょっと久々の肉料理。味はここも上々でした♪

 税務署長がまた見掛けの太ったざっくばらんらしい男でいかにも正直らしく
 みんなが怒るかも知れないなんといふことは気にもとめずどんどん云ひたい
 ことを云ひました。
 (『税務署長の冒険』より)
駅への道の途上で税務署を見かけたので、ちょっとこのマイナーな作品を思い出したりしました笑。ちょっと毛色の違う作品なので、未読の方にはおススメ。

そんなこんなで私の珍道中も、今回はひとまず終わった訳です。

イーハトーブにはゆっくりとした時間が流れています。
せこせことあちこち予定通りに見たいとか、電車の時間をばっちり調べてとか、そういう旅とは無縁の世界があるように思います。
足を運ぶ際には、どかんと時間を取って、ゆったりと過ごしたい。
そういう場所でした。

今回は尋ねられていない場所がたくさんあります。
それこそ盛岡近辺にはまったく行っていないし、賢治の愛した山にもほとんど入っていません。
次に行くときには、そのあたりを回ってみたいと思います。

この長々とした旅行記を読んでくださった皆さんに、感謝を込めて。

 「帰れ、帰れ、もう来るな。」
 「先生、困ります。あんまりです。」
 とうとう貝の火兄弟商会の
 赤鼻の支配人は帰って行き
 大学士は葉巻を横にくわえ
 雲母紙を張った天井を
 斜めに見ながらにやっと笑う。


宮沢賢治 | コメント:0 | トラックバック:0 |

Basilio大学士の旅宿(その2)

 わが親愛な楢ノ木大学士は
 例の長い外套を着て
 夕陽をせ中に一杯浴びて
 すっかりくたびれたらしく
 度々空気に噛みつくような
 大きな欠伸をやりながら
 平らな熊出街道を
 すたすた歩いて行ったのだ。
 (『楢ノ木大学士の野宿』より)

 【旅宿第三日】

一緒の宿に居た3歳ぐらいの男の子が、すっごくかわいい子どもだったんだけれども、朝食とかで同じ部屋にいたり玄関で会ったりしたおねえさんばかりにひたすらハイテンションで話しかけていて、某春日部の英雄を思いだしました(笑)
私が洗面所で髭をあたっていたらそんな彼が全力で近寄ってきたので、何かと思ったら、
「○○くんは、○○くんは、さっきもいったんだけど、またお、お、おしっこにいきたくなったんです!」
!!!!!
ええええええええええええええ俺に言わないで俺に言わないでいま口の周りまっちろけだしとかってばたばたしていたら後ろからお父さん現る。
「これこれ君は誰に何を言っているの?(汗」
私の腹筋は、朝から早々に崩壊したのでした(笑)

前の日がハードだったんで、この日は予定少なめ。
しかも朝出遅れティアヌスだったんで、まずは初日に行きそびれたポラーノの広場とイーハトーヴ館を拾うことに。

ポラーノの広場と呼ばれているのは、賢治が設計した花壇のある広場。賢治の多彩な才能には唸らされます。
実は花巻には何か所か賢治設計の花壇があるようですが、この日時計のある花壇はその中でも最も有名なもの。
このときはご覧のとおりどの花も咲いていてとても見事でした。
そう言えば、花巻ではたくさんのつめくさを見ましたが、これは水仙やらコブシやらとは違って自生でしょうね。肝腎のポラーノの広場のそばでは見ませんでしたが、露が当たって白く光っていました。

 「ポラーノの広場? はてな、聞いたことがあるようだなあ。
 何だったろうねえ、ポラーノの広場。」
 (『ポラーノの広場』より)
 けだし音楽を図形に直すことは自由であるし、おれはそこへ花で
 Beethoven の Fantasy を描くこともできる。さう考へた。
 (『花壇工作』より)

もう1個花壇があったんだけど、斜面がきつくて遠目で見て辞めちゃったw

そのあとはイーハトーブ館へ。
ここはある種のアーカイヴ的な施設。常設ではなさそうな展示も行ってました。
入り口には「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」笑。
賢治が使ったものかどうかはわかりませんが、同じころのレコードもありました。
賢治は大変なレコード・マニアで、当時の岩手でそのころの最前線の音楽だったR.シュトラウスの新譜を持っていたとか。。。
ここで結構稀覯本を売っていた(税率3%のやつとか)のでドカンと購入♪
本当はもっと買いたかったんだけど、厳選して、ボランティアガイドの勉強になりそうな奴だけ。しかし積読がたまった。。。
ついでに買った『銀河鉄道の夜』のDVDが2番目に高かったって言うね。もはやついでじゃない(^^;

予定少なめと言いながらこのあと電車でちょっと距離のある羅須地人協会@花巻農業高校へ。
お昼がまだだったので入ったのが花巻空港近くの遠藤という蕎麦屋さん。
ここのお蕎麦がまた大変美味しかった!
薄味の出汁に潰した梅と薬味でいただいて、蕎麦を食べた後の出汁にそばつゆと別の薬味を入れて汁物みたいな感じで飲むという代物。
花巻空港駅からまっすぐです。あの辺に行く方は是非ぜひ^^

花巻農業高校に行く途中で花巻空港を通ります。ってか真上を普通に飛行機が飛ぶ道を通るって言うww
途中でヒバリと3mぐらいの距離で遭遇しました!写真が撮りたかったんだけど、柵の向こうでかなり難しくて断念…そういえばイーハトーブにはヒバリもたくさんいましたよ~

さて、羅須地人協会@花巻農業高校です。
羅須地人協会に関する詳しい説明はここでは省きますが、さっくり言ってしまえば、賢治が理想とした農村での生活を実現し広めていくことを目的とした集い、と言ったところでしょうか。この建物自体は元々賢治の実家にあった離れで、ここを発信基地に活動が進められました。
いろいろな事情から現在では花巻農業高校同窓会が管理しているため、この建物自体も、現在では学校の敷地内にあります。
たまたま行った日には、建物の中では地元の有志?の方が賢治の映画を撮っていました。
非常に有名な仮病エピソードの場面のようでした。いずれにせよ、悪いんであんまりじっくりは見られませんでしたが(^^;
賢治の使ったマント、通称又三郎のマントもここに。

 どっどど、どどうど、どどうど、どどう
 (『風の又三郎』より)


そして再び花巻へ。
駅前のホテルの横にあったのは軽便鉄道の碑。
『銀河鉄道の夜』の汽車を巨大な機関車だと思っている人も結構いるようですが、本来は軽便鉄道なので、そんなに大きなイメージではないはずなんですよね。
モデルはここを通っていた汽車だったんでしょうか…。

 ほんとうにジョバンニは、夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈のならんだ
 車室に、窓から外を見ながら座っていたのです。
 (『銀河鉄道の夜』より)


ちょっと通りを進んで林風舎へ。
賢治のご親戚の方がやってらっしゃる喫茶店&雑貨屋さんです。
シックな佇まいがとても素敵♪展示はしていませんでしたが、所謂雨ニモ負ケズ手帳などもここで管理しているのだとか。ここも美味しかったです。

列車のダイヤの都合とかで思ったより早くこの日の予定が片付いちゃったんで、今回訪問する予定のなかった賢治の生家の場所も探すことに(ファンなんだかファンじゃないんだかww)

しかし、ここで予想外のハプニング。
今回の旅程を書き込んだ地図を列車に落としたorzこれはちょっとがっくしきました…尤も、一番必要だったのは2日目だったし、駅前の観光案内用の地図を貰ってどうにか対処することに。

暫く行くと宮沢商会という事務所が。
なんとこの会社、賢治の母方のご親戚の方がご自分の土地でやってらっしゃるとのことで、ここには賢治が産湯をつかった井戸があるそうです。
そんな素敵な寄り道をしながら賢治の生家へ。
何度も改築されたため当時の面影がないというばかりでなく、ここは賢治の弟の清六さんのご家族が現在もお住まいで、見学はお断りということで、写真は控えました。

駅に戻ると、ちょうどよく見たかったからくり時計が動き出しました^^
一見してモチーフが『銀河鉄道の夜』。
結構ちゃんとしてるので、花巻に行ったら観てみてね♪

この日に入った居酒屋よねしろは、蕎麦のやぶ屋の隣りですが、これがまた非常に美味しかった!
やっぱり地方に来たら土地のものが食べられる店に入らないとだめですね。

 【旅宿第四日】

この日はこれまで泊まっていた宿を撤退し、別の宿に行くということもあってバタバタして、再び出遅れティアヌスでした。
釜石線はとっくに出てしまっていたのですが、あんまり悠長する時間もなかったので、諦めてタクシーを拾い、本日一番の目的地へ。


 夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名を
 つけて、二日か三日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに
 行った処がありました。
 (『イギリス海岸』より)
 川上の方を見ると、すすきのいっぱいに生えている崖の下に、白い岩が、
 まるで運動場のように平らに川に沿って出ているのでした。
(『銀河鉄道の夜』より)
有名なイギリス海岸へ。
賢治は教師をしていた時にここの露頭で日本では初めての発見となるオオバタグルミの化石や、ウシの仲間の大量の足跡化石を発見しています。このときのエピソードがそのまま使われているのが『イギリス海岸』。『銀河鉄道の夜』に出てくるプリオシン海岸のエピソードはこの影響です。
…が、この露頭が見られるのは渇水期のみということで、普通に河原でピクニックになってしまったw

けど、探してみれば露頭も結構ありました。いくつか小石を収集。
化石ではないものの割れたクルミがたくさんありました。
これ、結構あったんだけど何が食べてるんだろう…と思っていたら、つれが思いもかけぬ瞬間を目撃!なんとカラスがクルミを空中から叩き落として割って食べてるではありませんか!いまはこういうカラス、普通なんですかね?結構感動したんですが(笑)。

イギリス海岸のバス停に行くと…白鳥の停車場がありますww
観光案内みたいなのにも出ていて結構有名ですが、地元のおじさんが町興しで造られたもの。写真撮ったりしていたら、ご本人が現れていろいろとお話ししてくださり、また、資料もいただきました(本当にありがとうございます!)

 …二人は丁度白鳥停車場の、大きな時計の前に来てとまりました。
  さわやかな秋の時計の盤面には、青く灼かれたはがねの二本の針が、
 くっきり十一時を指しました。みんなは、一ぺんに下りて、車室の中は
 がらんとなってしまいました。
 〔二十分停車〕と時計の下に書いてありました。
 (『銀河鉄道の夜』より)

なお、これも凝り方に愛が感じられますww


そのおじさまに教えていただいたのがバス停の向かいの八幡さん。
『銀河鉄道の夜』にも登場する『双子の星』のモデルはこのお宮さんなのではないかとのこと。確かに可愛いお宮さんが二つあります♪

  天の川の西の岸にすぎなの胞子ほどの小さな二つの星が見えます。あれは
 チュンセ童子とポウセ童子という双子のお星さまの住んでいる小さな水精の
 お宮です。
 (『双子の星』より)

お昼をいただいたかみさんというお食事処は、お料理ももちろんなんだけど、ご飯がとても美味でした!夜また来たいところでしたが、この日の宿は食事が出るので、泣く泣く昼のお酌で我慢しましたww

最終日くらいはいい思いをしようと佳松園という温泉旅館へ。
ここがもう、食事もお風呂もサービスも抜群に良かった!雰囲気も抜群だったし、たまにはこういうところに泊まるのもいいもんですね笑。
さて、実はここの裏手には実は名所がありまして。

 「何処さ行ぐのす。」さうだ、釜淵まで行くといふのを知らないものも
 あるんだな。〔釜淵まで、一寸ちょっと三十分ばかり。〕
(『台川』より)
この作品の舞台となった釜淵の滝です。
これも私は小さいころから大好きだった作品なので、思わず感興に浸ってしまいまして、あちこち撮りまくってしまいました笑。ああ、ここを賢治と生徒たちが昇って行ったのかと思うと、多少なりとも観光地的になっていようとも、こみあげてくるものがあります。

遊んでたらお風呂遅くなってしまって、遅刻気味で夕食。。。という情けない事態に(苦笑)もったいないのでもちろんもう一度お湯をいただきましたが。

(続く)

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