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Don Basilio, o il finto Signor

ドン・バジリオ、または偽りの殿様

オペラなひと♪千夜一夜 ~第百三十五夜/誰がそなたを救うのか、待ち受ける不幸な運命から

烏国の名歌手をもう1人、ご紹介したいと思います。

AnatolyKotcherga.jpg
Shaklovity

アナトーリ・コチェルガ
(アナトリー・コチェルガ)

(Anatoli Kotcherga, Анатолій Іванович Кочерга)
1947~
Bass
Ukraine

前回のグレギーナと較べると些か地味な存在かもしれません。ヴェルディやプッチーニをはじめとした伊ものを主に歌っていた彼女に対し、コチェルガは露ものを中心に据えた活躍が目立ちます。音源や映像をあたってみても、僅かに騎士長(W.A.モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』)や宗教裁判長(G.F.F.ヴェルディ『ドン・カルロ』)、それにピストラ(同『ファルスタッフ』)があることを除くと露ものに重心があることが一目瞭然です。

そうした中で恐らく最も有名なのは、ムソルグスキーを愛したアバドの指揮によるボリス(М.П.ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』)とシャクロヴィートゥイ(同『ホヴァーンシナ』)ではないでしょうか。このコンビはまた、オペラ以外に「死の歌と踊り」などの歌曲も遺しています。これらの経験を受けてかコチェルガ単独でもキャリア全体にわたってこの作曲家の作品を歌う機会が多いようで、『ボリス』については上記のボリス以外に、ピーメンとヴァルラームがそれぞれ映像で世紀に発売されていますし、『ホヴァーンシナ』についてもドシフェイとイヴァン・ホヴァンスキーを演じています。まさにスペシャリスト呼ぶのがふさわしい経歴を積んでいると言えるでしょう。

ご承知のとおり『ボリス』も『ホヴァーンシナ』も権力者に決して肯定的なまなざしを注いでおらず、また単純な主役でもありません。いずれの作品も群像劇であり、そのスポットライトはむしろ翻弄される人々にあたっています(特にアバドがこだわった原典に近い形ではその傾向が強くなります)。調べられた範囲ではコチェルガはこの2年の出来事について公に発信をしていないように思いますが、これらの作品を歌い込んでいた彼が現在の情勢をどう捉えているのだろうかと、最近はつい気になってしまいます。

<演唱の魅力>
ここで取り上げている人としては本当に久々ですが、僕はコチェルガを実演で観ています。2009年のスカラ座来日の『ドン・カルロ』で、この引越公演は毀誉褒貶いろいろあったようにも記憶しているのですけれども、大好きなこの演目を初めてナマで観た機会ということもあって、僕にとっては思い入れが強いです。この中で彼が演じていたのは宗教裁判長。よく覚えているのはその巨体で、すらっと背が高く立派な体格のパーペに対してもうんと大きく見えて、異様な存在感を放っていました。またバスとしては高めで明るい色の声ながら、ズシリと最低音が響いていたことも記憶に残っています。

彼がよく舞台を踏んでいるリセウ大劇場が収録に積極的なこともあり、幸いにして多くの公演を映像で楽しむことができます。恰幅のある、威風堂々とした立ち姿はシャクロヴィートゥイやクトゥーゾフ(С.С.プロコフィエフ『戦争と平和』)のような大河ドラマの重要人物にふさわしい貫録を感じさせます。僕の観劇した宗教裁判長でのパフォーマンスは、まさにこのイメージです。一方で多くの映像にあたっていると、この印象は彼の老獪な藝のあくまで一側面でしかないことにも気づきます。ヴァルラームであるとかボリス・イズマイロフ(Д.Д.ショスタコーヴィッチ『ムツェンスク群のマクベス夫人』を観ると、大柄な体躯の印象は一変し、自堕落でだらしのない肥満漢に見えてきます。特にボリス・イズマイロフでの醜悪さ、汚らしさはすさまじく(褒めてます!!)、歴史ものでのコチェルガの姿を刷り込まれていた身としてはちょっとショッキングでした笑。僕自身演劇の素養がないので、どうしてこれほどまでに印象を変えられるのかは推測の範囲でしか述べられませんが、他人をよく観察し、そして再現しているのだろうなということは思います。彼にもまたよくする仕草はあると思うのですけれども、ほんのわずかなところで、シャクロヴィートゥイならば尊大で高圧的に、クトゥーゾフならば誇り高く、ボリス・イズマイロフならば下品で粗野にそれぞれ映る。その小さな差を逃さないところが、どんな役柄・演出であっても舞台上で説得力を出すことに繋がっているのだろうなと。

こうした側面はまた、オペラという藝術の特性上、歌唱にも聴きとることができます。コチェルガの声楽面での持ち味は、とりわけ嘆く歌、懊悩をさらけ出す歌で発揮されるというのが私見です。ここで活きてくるのが、僕が実演で感じたもう一つの印象「バスとしては高めで明るい色の声」という点だと思っています。高めの倍音の多い声で、吠えるようにエモーショナルに歌われることによって、胸を引き裂かれるような悲しみや苦しみが、克明に立ち現れるように感じる瞬間は少なくありません。権力を手に入れても心の平安は手に入れられないボリス、名誉も娘も失ったコチュベイ、動乱の中で祖国と人々の行く末を案ずるシャクロヴィートゥイ、都を手放す決断を迫られたクトゥーゾフ……いずれもより重量感のある暗い響きのバスによって歌われることが多い役ですが、彼が歌うと差し迫った苦悩が浮き上がり、人間らしく感じられます。一般にイメージされるようなバスの声を持っていることが即ち“良いバス歌手”の条件ではなく、自らの個性をどのように持ち味へと昇華させていくかが重要なのだということを、コチェルガの歌は示しているように僕には思われるのです。

<アキレス腱>
彼の声は美しいと僕は思うのですが、上述したような独特の音色を好まない方が一定数いてもおかしくはないのでしょう。バリトンっぽいという評を読んだこともありますが、それを持ち味にして人間味を増した描き方を実現しているというのが、繰返しになりますが私見です。とはいえyoutubeで視聴できるかなり若い頃の動画のいくつかでは、低い方の倍音がほとんど感じられずに面食らうものがあるのも確かではあります(ただ、これは録音技術に起因する問題ではないかという気もします。実際実演でも最低音をしっかり聴かせていましたから、低い音が鳴らない訳ではありません)。
むしろややテンポにルーズになることがある点の方が、気になる人がいてもおかしくないだろうなと感じます。但しこの点についても、アバドのファルスタッフで起用されているぐらいで本来的にはリズム感は鋭い人ですし、演技も含めた舞台上でのパフォーマンスとして、敢えておおらかにしているようにも思えるのですが。

<音源紹介>
・ボリス・ゴドゥノフ(М.П.ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』)
アバド指揮/レイミー、ラングリッジ、ラリン、リポヴシェク、レイフェルクス、ニコルスキー、シャギドゥリン、フェディン、ヴァレンテ、ニキテアヌー、ザレンバ共演/ブラティスラヴァ・スロヴァキア・フィルハーモニック合唱団、ベルリン放送合唱団&テルツ少年合唱団/1993年録音
>このあとご紹介するとおり、コチェルガは今世紀に入ってから映像で数々の名演を遺していますが、彼の仕事を代表する記録が何かと問われれば今なおこのボリスでしょう。アクの強い伝統的なスラヴのスタイルとも、フォン=カラヤンの重厚で堅牢な西欧スタイルとも異なる、地縁のしがらみから逃れた清冽なボリスをアバドは実現していますが、これはコチェルガがいてこその成功と言えるようにも思います。40代の彼の声は若々しく巨大であり、十分な芝居気を感じさせる歌唱であるにもかかわらず、シャリャピン以来の芝居気の強い演唱とは一線を画した静謐な印象で、人によっては食い足りなさを覚えるかもしれません。戴冠も野心に満ちた迫力を聴かせるのではなく淡々としていますし、死の場面では苦悶の声をあげて壮絶な最期を遂げるのではなく、むしろ救いを求める祈りを切々と唱えて、火の消えるように絶命します。言い方を変えるのであれば、敢えてスターの演じる見せ場の多い大役として歌うのではなく、時代に翻弄された1人の人間としてのリアルさを求めたアプローチをしているということでしょう。あまりにも自信満々に戴冠に臨むのは陰謀の渦中の人物としては怪しすぎますし、派手派手しい死に様というのもいかにも舞台めいてしまう。もちろんそういうものとしてボリスは親しまれてきてもいるわけですが、アバドのスタンス自体がそうではなくて、群像劇、主役のいないオペラとしてこの作品を上演すること(そしてそれこそがムソルグスキーの真意と捉えているようです)を目指しています。コチェルガの歌唱はまさにこの方針に合致した、非常に知的で繊細なものですし、この演奏以降の現代のボリス上演にも大きな影響を与えていると思います。

・フョードル・シャクロヴィートゥイ(М.П.ムソルグスキー『ホヴァンシナ』)
アバド指揮/ギャウロフ、ブルチュラーゼ、マルーシン、アトラントフ、セムチュク、ツェドニク共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団、スロヴァキア・フィルハーモニー合唱団、ヴィーン少年合唱団/1989年録音
>コチェルガのもう1つの代表盤。こちらで彼を知っている人も多いでしょう。出番こそ多くないながら作品の中核をなすアリアを与えられているこの役に、ギャウロフやアトラントフなどこの時期のスター歌手に混じって、若いながらも起用されていることからもアバドの信頼を感じさせます(これはブルチュラーぜにも言えるでしょう)。どうしてもそのアリアに注目したくなりますが、ここでの彼のポイントはむしろ開幕してすぐのやりとりかもしれません。代書屋(ツェドニク、なんという引き出しの多い歌手でしょう!)にむりくり政治的な文言を書かせる高圧的な態度の一方で、彼のシャクロヴィートゥイはこの時点でははっきりと銃兵隊を恐れています。彼らの歌が大きくなる中で、脅しの相手であったはずの代書屋の仕事場に逃げ込んで様子を伺うさまは紋切り型の恐ろしい敵という印象には程遠く、いつ何時自身が危機に陥ってもおかしくないという緊張感と、身の危険から逃れるためにどんな手段でもとるという必死さから来る皮肉なコミカルさとをまとっています。けだし、生々しい人物造形です。こういう表情を冒頭に見せているからこそ、作品を通じて見せるこの人物のマキャヴェリスト的な悪役ぶりから、アリアでの真摯な嘆きが浮き上がってしまうことなくつながってきます。ボリスと同じく、コチェルガがムソルグスキーの演奏史で果たした役割の大きさを感じさせる公演です。

・ヴァルラーム(М.П.ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』)
ヴァイグレ指揮/サルミネン、ハーフヴァーソン、ラングリッジ、リンドスコイ、シャギドゥリン、アサワ、アルネ、トツィスカ共演/バルセロナ・リセウ大劇場管弦楽団&合唱団/2004年録音
>1869年原典版に基づくためボリス個人に大きくスポットがあたっているのですが、ラングリッジやシャギドゥリンなどアバドのボリスでも繰返し起用されていた歌手や大ヴェテランだったトツィスカも登場しており、重層的なドラマを感じとることのできる公演です。アバドでのボリスだったコチェルガはここではスター歌手のサルミネンに主役の座を譲り、ヴァルラームを歌っています。この版では旅籠の場面にしか登場しないのですが、存在感は強烈そのもの。偽ディミトリーのみならず相方のミサイールすら手を焼いている様子でいるのは演出としては珍しいと思いますが、舞台姿でも歌い口でも豪快で警吏にも暫くのらりくらりとした態度で交わし続ける狸ぶりとも相まってリアリティを感じます。乱暴で破壊的なのですがどこかカリスマがあるのです。こうした人物造形は手配状をつっかえつっかえ読み上げる、この作品の中でもサスペンスの感じられる場面で非常に効果を上げています。これだけ舞台を支配できるヴァルラームはなかなかいないでしょう。これだけ歌うコチェルガに引けを取らないハーフヴァーソン、そして彼ら個性の強いバス2人がいてもなお堂々たる主役を張れるサルミネンは圧巻です。また、演出も相まってラングリッジの癖の強いシュイスキーも見逃せません。

・ミハイル・クトゥーゾフ将軍(С.С.プロコフィエフ『戦争と平和』)
ベルティーニ指揮/ガン、グリャコーヴァ、ブルベイカー、ザレンバ、マルギータ、オブラスツォヴァ、キット、ゲレロ、プルージュニコフ共演/パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団/2000年録音
>もはやこの作品をそのまま取り上げることは難しいですし(2023年にユロフスキ指揮、チャルニコフ演出で上演したそうなのでぜひ観てみたい)、今となってはこの役をコチェルガが演じていること自体にもご紹介を躊躇う気持ちを感じざるを得ないのですが、それでもなお彼の記事を書く上で見過ごすことのできない公演なのです。原作とは異なりクトゥーゾフの登場は後半のみですが、全編観終わってコチェルガの印象がとりわけ強く感じられるほど、ここでの彼の演唱はあまりにめざましく、ベスト・パフォーマンスの一つではないかと思います。ヴァルラームにも独特のカリスマが感じられたことは上述しましたが、こちらの方がより分かりやすく威厳とオーラを発していて、登場から前線の兵士たちから歓迎されるのもよくわかります。オペラではここに至るまで殆ど科白でも出てこないので、この時点で説得力を持たせられる存在感を持っているのは稀有なことです。このことは当然、オペラの最後、終戦を前に現れる場面でも大きな意味を持ちます。そして最大の見せ場である第10場がことのほか素晴らしい……まず軍議でのやりとりはプロコフィエフらしい神経質なアンサンブルですが、将軍たちを演じている歌手たちの実力が高いこともあって、歴史ものの映画のように会話として自然でありつつ音楽的です。続くアリアではいつもながら秀逸な嘆き、悲嘆の表現とともに、中間部では決然と不屈の精神を歌い上げており聴きごたえ満点、コチェルガの長所が余すところなく発揮されています。今の情勢もあって、むしろキーウやオデッサへの歌のように聴こえてしまうのは筋の悪い深読みとわかりつつ……。

・ボリス・チモフェーヴィチ・イズマイロフ(Д.Д.ショスタコーヴィッチ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』)
アニシモフ指揮/セクンデ、ヴェントリス、ヴァス、クラーク、スルグラーゼ、コティライネン、ミハイロフ、ネステレンコ共演/リセウ大歌劇場管弦楽団&合唱団/2002年録音
>上述のとおりコチェルガの大怪演が楽しめるのがこちらの映像です。そもそもこの作品そのものに好感度の高い人物が存在しませんが、それにしても舞台に登場した瞬間に醜悪な気配を全身から発していて、ただならぬ怪物が現れたような印象すら与えます。この物語では立場だけを見れば裕福な支配階級にいるカテリーナが追い詰められて転落していくという点が非常に重要なので、欲深く父権的なボリスが、強力で化け物じみた人物に描かれることはとても効果的です。抗いがたい力への反抗の結果、人の道を外していくことを象徴的に表すことができるからです。ここでのコチェルガはその観点で、これ以上はちょっと考えられません。立ち姿や演技ももちろんですし、破壊力すら感じる声の圧力は聴いていて打ちのめされそうな気持ちになります。卑猥な欲望を歌うアリアは悪魔めいた諧謔に満ちている一方で、亡霊として登場する場面では騎士長(W.A.モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』)を思い出さずにはいられない凄みがあり、死してなおカテリーナを苦しめていることがひしひしと伝わります。愉しい気持ちにはとてもなれない作品ですが、是非一度ご覧ください。

・ヴァシーリー・コチュベイ(П.И.チャイコフスキー『マゼッパ』)
N.ヤルヴィ指揮/レイフェルクス、ゴルチャコーヴァ、ラリン、ジャチコーヴァ共演/イェーテボリ交響楽団&イェーテボリ歌劇場合唱団/1993年録音
>同時期のゲルギエフ盤と双璧をなす名盤ですが、両者の性格は大きく異なります。露的な濃さのあるゲルギエフに対し、ヤルヴィの音楽は真摯に楽譜に当たったクリアな響きで、ローカルな歴史絵巻という背景を蒸留して抜いたような、それでいて熱気は維持した演奏になっていると思います。こうした文脈の中で聴くと、コチェルガの歌の繊細な人物造形が際立ちます。コチュベイの聴かせどころというと、嘆きや諦念を歌う2幕冒頭の牢獄の場や処刑の前の禱りなどですからそれこそ彼の持ち味が発揮される部分が多く、個人的には彼の録音でもベストではないかと思います。そんな中で特に取り上げたいのは1幕フィナーレです。メインとなる旋律をコチュベイがリードするかたちになっており、fで力強く歌うこともできるかと思うのですが、むしろ彼はmpぐらいの強さでやわらかに、慎重に歌いはじめています。これによりこの人物が単純に復讐を叫んでいるのではなく、悲劇的な状況になってしまったことへの戸惑いや悲しみ、自分たちの企てへの不安といった複雑な感情をはらんだ言葉であることが示されているように感じられますし、コチュベイの思いとは裏腹に、その言葉が周囲を巻き込んで群衆の怒りの荒波を生み出していくというリアルでドラマティックな筋書きが見えてきます。また、音楽的な効果も大きくなっているようです(場面は全く異なりますが、バジリオ(G.ロッシーニ『セビリャの理髪師』)のアリアを髣髴とさせます)。コチェルガの藝が光る部分と言えるのではないでしょうか。

・老ジプシー(С.В.ラフマニノフ『アレコ』)
N.ヤルヴィ指揮/レイフェルクス、グレギーナ、レヴィンスキー、フォン=オッター共演/イェーテボリ交響楽団&イェーテボリ歌劇場合唱団/1996年録音
>彼の声であればアレコももちろん歌えると思いますが(実際若い頃アリアを歌った映像がyoutubeに転がっています)、この録音では老ジプシー。アレコよりも高齢の人物ということで、重心の低い、プロフォンドに近い声で歌われることがいいと思うのですが、やはりコチェルガのような高めの響きのある楽器で歌われると、嘆き節が真に迫って来ます。「ゼムフィーラ“を”失う」ことを悲しむアレコに対して、老ジプシーは「ゼムフィーラ“も”失う」人物であり、さらに深い悲しみを抱えているからこそ、老年の諦観はあってもしっかりと嘆きの伝わるバスであることが重要なのだということがよくわかります(特に終盤、アレコを追放するくだり)。対するアレコのレイフェルクスが、コチェルガと近いトーンの音色ながらより動的で、ヴェルディやドニゼッティを思わせるより屈折したパワーを感じさせる歌を歌っていることで両者のコントラストがつけられているのも嬉しいです。ヤルヴィが音楽作り全体として、すっきりとした演奏に仕上げているのは『マゼッパ』と同様。

・宗教裁判長(G.F.F.ヴェルディ『ドン・カルロ』)
ガッティ指揮/F.フルラネット、ニール、チェドリンス、イェニス、ザージック共演/ミラノ・スカラ座管弦楽団&合唱団/2008年録音
>僕が実演を観たのと同じプロダクション、コチェルガとイェニスは同じキャストなのでいろいろと思い出も含めて観てしまう映像です。改めて視聴すると彼の声はフルラネットとほぼ同等のバランス、響いてくる音域、音色の明るさ、馬力のいずれにおいても近く、実力も拮抗していることがわかります。この役はフィリッポと異なる個性を出すために、明らかに低く暗い響きのプロフォンドをあてがうことが多いことを考えると意外と珍しいパターンです。また以前の記事で書いた通りここでのフルラネットは離の境地に至った荒々しい歌唱ですが、だからと言ってコチェルガが端正で厳格な歌唱で応じているかというとそんなことはなく、彼らしい人間臭さのある歌唱になっています。例えばロドリーゴの引き渡しを要求するところは懐柔をしながら立場の違いを感じさせる高慢さがありますし、逆にフィリッポに意見具申を始める場面で登場する最低音はいたずらに化け物じみた響きを強調せずあっさりとしています(もちろんこれは彼自身の声の個性も踏まえた上での対応と思います)。何が言いたいかと申しますと、いずれも個性的な役柄だからこそ取られうる紋切り型の対決にはなっておらず、もっと政治的な、人間と人間の対立がはっきり表現されているように思うのです。ある意味でこの場面でイメージされる派手さは薄まってしまっていると思われる方はいらっしゃるかもしれませんが、その分を補って余りある味わいの濃いドラマを感じられる名演です。
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オペラなひと | コメント:0 | トラックバック:0 |

オペラなひと♪千夜一夜 ~第百三十四夜/再び歌う日を夢み〜

2022年はさまざまなことがありましたが、やはり戦争を意識せずにはいられない年でした。僕自身がいまオペラに親しんでいるのは、『イーゴリ公』と『ルスランとリュドミラ』に入れ込んだ時期があるからなので、現在のロシアの姿には大きなショックを受けています。折からのコロナ禍も含めて、オペラに限らず藝術や文化に親しむことができるのは、平和であってこそということを痛感しているところです。

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Lady Macbeth

マリア・グレギーナ
(Maria Guleghina, Марія Агасівна Гулегіна)
1959〜
Soprano
Ukraine

今日は、マリア・グレギーナをご紹介します。

ソプラノとして国際的な名声を得てきた彼女はオデッサの生まれ。此度の戦争を受けて以下のようなメッセージを発信しています。

「とても辛いことですが私はコンサートで歌うことができないでしょう、たとえそれが私の最愛の、全身全霊を捧げてきた聴衆のみなさんのためであったとしても――祖国ウクライナでの戦争が終わるまでは。昨日、彼らは私の生まれた町オデッサを爆撃しました。声は人の魂であり、痛みを感じるもので、このような心の痛みの中で歌うことは不可能なのです。」
※拙訳のため至らぬ部分はご容赦ください

壊れてしまった世界がかつての姿に戻ることはあり得ないでしょう。
しかし、新しいかたちの平和が築かれ、彼女が再び舞台に立つことができる日が訪れることは、信じていたい。祈りのような思いとともに、打鍵しています。

<演唱の魅力>
平和への願いから書きはじめたのですが、実は彼女がこうしたセンチメンタルなコメントを発表したことに、そのときの僕は驚きを覚えました。というのも彼女といえば巨大な声を縦横無尽に駆使してドラマティックな表現の限界に挑む藝風の持ち主というイメージであり、伴って演じる役もアビガイッレ(G.F.F.ヴェルディ『ナブッコ』)であったりマクベス夫人(同『マクベス』)であったりといった好戦的な野心家、女戦士が似合うと刷り込まれてしまっていたのです。端的に言えばパワフルに戦いにいく歌とのギャップがあるように思われたのですね。

今から振り返ると苦笑せざるを得ません。あまりにも当然の前提として演じる役の言葉尻と歌手本人の思想や信条は必ずしも一致しないということがありますが、それ以上にあのようなメッセージを発さずにはいられない情感の豊かさこそが、彼女の持ち味を生み出しているものであり、選んできた役柄へと繋がっていると思うからです。ドラマティック・ソプラノのレパートリーというと女傑めいた荒々しい歌いぶりや威勢の良さがつい目につきますが、むしろ大事なのは彼女たちの持つ人一倍強い情けの深さ、想いがふるまいや言葉に溢れ出てしまうような直情性です。例えば自分の愛や感情にあまりにも素直に突き進むトスカ(G.プッチーニ『トスカ』)は、その典型としてイメージしやすいと思います。グレギーナは、やはり印象的な名演を遺しています。

この点は最初に挙げた2役でも変わりません。父とイズマエーレと、そしておそらくはフェネーナをも果てしなく深く愛し、尊敬した瞬間がなければ、アビガイッレが2幕の冒頭で計り知れないほど絶望し、怒り狂って復讐に赴くことはないでしょう。また夫への愛の有無は意見が分かれるとしても、マクベス夫人が王権への欲望に率直で、禍々しい行動を辞さない人物であることは疑いようもありませんし、その発狂も、築き上げた栄華の後ろぐらさと脆さからくる不安と罪の意識に苛まれたものと読み解くことはできるでしょう。いずれの役も実に自分の感情に素直ではないですか。ここで改めてグレギーナのコメントに目を向けると、勇ましく抗戦を掲げるようなものでこそないものの、自分の生まれた場所、育った町が受けた暴力を我がものとして受けとめた痛みを真摯に、直截に紡いだものであり、彼女の得意とする役たちと共鳴していることが感じ取れるはずです。

しかも彼女は、その人柄の個性に見合った役柄を歌うのに十分な声、ヴァーグナーを歌わないソプラノとしては最重量の楽器を持っています。また藝風としても堅実に端正に歌を磨き上げていくというよりは、感情のたかまりに乗って行くタイプで、ベル・カントやヴェルディ初期の演目であれば、高音を付加したりカバレッタにヴァリアントを加えたりといった表現に攻めていくような体当たりの歌を持ち味としています。ひとつ象徴的なのは、露ものをレパートリーとするソプラノたちが最も重視するタチヤーナ(П.И.チャイコフスキー『イェヴゲニー・オネーギン』)をあまり歌っておらず、全曲の記録すら手に入れやすい状態ではないのに対し、リーザ(同『スペードの女王』)は音源も映像も遺しており、いずれもこの作品の代表的な演奏として知られていることです。タチヤーナはネトレプコはもちろんゴルチャコーヴァですら歌っていることを考えると、グレギーナが積極的でないことの異例さが際立ちますが、彼女の声とキャラクターに対してあまりに儚く、可憐で内向的なこの役を演じることは、自身にとっても役柄にとってもプラスにならないと考えているのではないかと推察します。

但し注意が必要なのは、グレギーナが繊細さを欠いた歌手では決してないということです。例えばノルマ(V.ベッリーニ『ノルマ』)のアリアを聴くと、荒事一辺倒ではないことがよくわかると思います。冒頭のpppppの細さと強さは比肩できるとしてカバリエぐらいしか思いつかず、声の重さを考えると技術と集中力の高さを考えると驚異的です。演技の面ではやはり当たり役のアビガイッレでの複雑な役作りが印象に残ります。3幕の前半、錯乱したナブッコとの重唱はアビガイッレの一次的な勝利宣言と理解することもできる部分ですし、実際そのように演じられることも多いのですが、グレギーナはヌッチとともにそれ以上の意味をこの場面に籠めています(このコンビの『ナブッコ』は2つありますがいずれの演出でも基本の路線は変わらないので、ある時点での彼らの統一された見解と理解してよさそうです)。アビガイッレは一見高らかに勝利を歌い、ナブッコを蔑むのですが、その表情にははっきりと葛藤が見えるのです。愛している、尊敬しているにもかかわらず父は自分を娘として扱ってくれない、しかも雷に打たれて錯乱し、強かった姿は見る影もない。そうした悲哀に押しつぶされながら、かろうじて勝利を嘯いて見せている、強がって見せているということがグレギーナの演唱からははっきりと伝わってきます(同時に、慈悲を乞い、態度を軟化させているようでありながらも、アビガイッレを娘として愛することは一貫して拒絶するヌッチの冷たさもお見事です)。このあたりの非常に知的なアプローチに目を向けずに、豪快さばかり取り沙汰して毀誉褒貶するのはフェアではないでしょう。

<アキレス腱>
これだけ激賞して来て難ではあるのですが、僕自身かなりの間捉え損ねていた人だと思います。最も大きな理由は、おそらく彼女の藝風である体当たりさに起因するであろう好不調の波です。もともと重心が低めの声ということもあって、高音を歌いにいきはするもののあたっていないことも多いですし、同様の理由でベル・カント風の作品では明らかに転がしがグダグダになっていることもしばしばありまして、低調なタイミングだととても印象が悪くなってしまう。この辺りはかなり以前ですがスコットの回でした話と近い部分はあるでしょう(声そのもののタイプは全く違いますが)。できれば絶好調の歌唱から入ると、不調の時であっても彼女なりの良さが感じられる部分が見えてくるように思います。

<音源紹介>
・アビガイッレ(G.F.F.ヴェルディ『ナブッコ』)
オーレン指揮/ヌッチ、コロンバーラ、サルトリ、スルグラーゼ共演/アレーナ・ディ・ヴェローナ管弦楽団&合唱団/2007年録音
>1990年代から2000年代を代表するアビガイッレ歌いはグレギーナでしょう。ヴィーンでの映像とサントリー・ホールでのCDもそれぞれ見るべきところは多いのですが、このヴェローナでの映像を一番に推したいです。なんと言っても喉の調子が最高!新しい世代ではあるものの、その声質やレパートリーもあって喉が万全の状態と感じられる記録は残念ながら多くないのですが、この演奏には彼女の全ての記録の中でも最良の瞬間が収められているように思います。2幕冒頭のアリアはこの映像の白眉であるとともに、映像で観られるこの場面としてもベストでしょう(オーレンの音楽づくりがまた素晴らしいです)。また、細やかさは流石にヴィーンが勝る気はするものの、それでも野外劇場での公演とは思えない繊細で複雑な演技もお見事です。グレギーナとしてもよく役を飲み込んでいるし、共演陣、とりわけヌッチの役作りが卓越していることもあって、アビガイッレが単なるエキセントリックな烈女にならず、愛するものに愛されない哀しみから野望に燃えているというリアルな人物として立ち現れています。こうした意味で登場してすぐの3重唱も見逃せませんし、やはり3幕のナブッコとの対峙が印象に残ります。日本語字幕こそありませんが、ヴェルディアンならば絶対に外せない1枚です。

・マクベス夫人(G.F.F.ヴェルディ『マクベス』)
ムーティ指揮/ブルゾン、グレギーナ、コロンバーラ、サルトリ共演/ミラノ・スカラ座管弦楽団&合唱団/1997年録音
カンパネッラ指揮/C.アルバレス、スカンディウッツィ、ベルティ、J.パラシオス共演/リセウ劇場交響楽団&合唱団/2004年録音
>ひょっとすると一番有名かもしれないMETでの映像はまだ観られておりませんで、いつか追記をすることになるかもしれません笑。1つ目に挙げたスカラ座の演奏はかなり若い頃の映像ですが、音盤化されていないことが信じられない超名演。若きグレギーナは、壮年のムーティの足早な音楽に乗ってキレッキレの歌唱を披露しています。まだ楽器そのものが重くなっていないこともあって転がしの達者さが光りますし、声が澄んで聴こえる分、高音がエキセントリックに響きます。円熟を感じさせるブルゾンの老年のマクベスに対して、若く、サディスティックで美しい夫人です。そう、ヴェルディの意図には反するかもしれませんが、これほど美しいマクベス夫人は僕は他には知りませんし、そうである意味のある舞台だと思いました。2つ目の映像も美しさは感じさせるのですが(これは女性性を際立たせている演出によるところもありそう)、マクベスとの関係が大きく違って興味深いです。立派な声と力強い歌にもかかわらずアルバレスははっきりと気弱な歳下のマクベスで、ここでのグレギーナは老練さのある姐さん女房という風情。こちらもまた恐ろしくあるのですが、若いからこそ燃やす野望ではなくて、年齢を累ねてから巡ってきたチャンスを貪欲に捉えようとしているように感じます。1997年と較べると随分重くなった声でのコロラトゥーラや高音は容易ではなさそうですけれども、無理をするのではなく歌い回しで聴かせるうまさがあるのもそうした印象を強くしていると言えるかもしれません(カンパネッラが歌手に合わせる棒だということもあるでしょう)。いずれの映像もバンクォー、マクダフ、マルコムの3人は美声且つスタイリッシュで花を添えています。

・オダベッラ(G.F.F.ヴェルディ『アッティラ』)
スタインバーグ指揮/レイミー、C.グェルフィ、ファリーナ共演/パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団/2001年録音
>いかにも彼女向きの役なのですが残念ながらきちんとした商業録音はなく、自分が入手した海賊盤は音がブッツブツに切れているものです……が、この演奏は本作の録音の中でもトップクラスの名演だと思います。アビガイッレやマクベス夫人並みの難役にもかかわらず、演奏頻度が高くないこともあって満足できる演唱に出逢う機会の少ないオダベッラですが、ここでのグレギーナはまさに理想的。しっかりとした質量のある声は必ずしも美声という響きではないものの、稠密かつパワフルなもので、父を殺された復讐を自らの手で下さねば満足できないこの異常なヒロインのキャラクターに合致しています。重さもあってやはりコロラトゥーラでは動きがぼやけてしまうところもあるのですが、それでもよく動きますし、高音やヴァリアンテを積極的に加えていくところなど、実に好戦的なこの役らしいです。共演もいいですがとりわけ第一人者のレイミーがやはりライヴらしい攻めの歌唱が見事、スタインバーグの音楽もホットでこの体温の高い作品にはぴったりです。

・ノルマ(V.ベッリーニ『ノルマ』)
リッツィ=ブリノーリ指揮/リチトラ、アルドリッチ、ヴィノグラドフ共演/マイアミ・ビーチ・ニュー・ワールド交響楽団&合唱団/2004年録音
>全体を通してすごく完成度の高い演奏かというとまあまあかなあとも思うのですが、それでも敢えてご紹介するのは、彼女の歌唱に今どき聴くことの少なくなったカラス流のドラマティックさがあり、なおかつ上述もした通り精巧なガラス細工のような繊細さに特筆すべきものが感じられるからです。とりわけ、有名な“浄らかな女神”は一聴の価値があると思います。冒頭は絹糸のような細さとしなやかさがありながら、なおかつグレギーナ一流の強さのある響きを維持したpppppで圧巻。彼女の歌が蛮勇的猛々しさを売り物としていると思っていらっしゃる方にこそ聴いていただきたいです。

・フローリア・トスカ(G.プッチーニ『トスカ』)
ムーティ指揮/リチトラ、ヌッチ、マリオッティ、パローディ、ガヴァッツィ共演/ミラノ・スカラ座歌劇場管弦楽団&合唱団/2000年録音
>オペラを初めて観ると言う人にオススメするなら『トスカ』が一番良いと思っているのですが、中でもこの映像は優れていると思います。自らの感情・戀情によって悲劇に突き進んで行くこの過剰なヒロインは、時として嘘くさく浮いて感じられることもあるのですが、上述したようなグレギーナの情けの深さにはばっちりとハマっています。しかもヌッチのスカルピアが有能な警察官僚の表向きと内面の欲情と変態性を共存させた怪演なので、2人の絡む場面の演劇的に大変面白い!2幕の半ばにある探り合いが極めて緊張感の高いやりとりに仕上がっています。リチトラは演技はもう一つすが、カラッとした、しかし十分な重さのある響きの声がとても気持ちいいです。この主役たちとムーティの豊麗な音楽がきっちり張り合っているのがこのディスクの最大の美点でしょうね。

・リーザ(П.И.チャイコフスキー『スペードの女王』)
ゲルギエフ指揮/グレゴリヤン、ゲルガロフ、レイフェルクス、フィラトヴァ、ボロディナ、アレクサーシキン共演/サンクトペテルブルク・マリインスキー・オペラ管弦楽団&合唱団/1992年録音
>早くから伊ものをレパートリーの中心としていたためか、烏国の歌手にしては露ものの録音が意外と多くないのですが、この役は音源と映像を遺しています。いずれも同じプロダクションでハイレベルなのですが、ここでは折角なので映像の方を挙げました。悲劇の気配、暗鬱とした不吉なムードこそが必要な作品ですから、仄暗い響きのグレギーナの声は最適だと思います。また、彼女の声が持つ馬力の強さが、深窓の令嬢として生活しているからこそ、その中から抜け出して「生きる」「愛する」ことを獲得しようとする執着というか怨念のようなもの表出するのにも一役買っているようです。彼女の抑圧された均衡状態を崩すきっかけとしてグレゴリヤンの輝かしいけれどもどこかに不安定な、落ち着きのなさを感じさせる声は説得力があります。彼女たちの行く末には、最初から破綻しかないということが感じられるのです。

・ゼムフィーラ(С.В.ラフマニノフ『アレコ』)
N.ヤルヴィ指揮/レイフェルクス、コチェルガ、レヴィンスキー、フォン=オッター共演/イェーテボリ交響楽団&イェーテボリ歌劇場合唱団/1996年録音
>グレギーナは上述の通りあまり露ものは歌っていないにもかかわらず、ラフマニノフのオペラ全集には起用されています。視聴してさもありなんという気持ちになるのは私だけではないでしょう。ラフマニノフのオペラは全体に低音男性への入れ込み方に較べて戀人たちの描き方が類型的な印象があるのですけれども、ここで彼女のような魅力も実力もある歌手が出てくるとバランスが取れるのです。救いのない陰惨な物語の要求に十分応える暗いエネルギーに満ちた声がしっくりきますし、いい意味での荒々しさがあってこのロマの女性に野性味を与えています。見せ場の子守唄はヤルヴィの猛然としたテンポも追い風となって壮絶な印象。レイフェルクスやコチェルガといった実力者が演ずる共演も◎です。

・フランチェスカ・ダ=リミニ(С.В.ラフマニノフ『フランチェスカ・ダ=リミニ』)
N.ヤルヴィ指揮/レイフェルクス、ラリン、アレクサーシキン、レヴィンスキー共演/イェーテボリ交響楽団&イェーテボリ歌劇場合唱団/1996年録音
>オペラらしくない構成であることもあって『アレコ』以上に演奏機会は少ないながら聴けば聴くほどラフマニノフの暗澹たる豊穣さに惹かれる作品です。第2部に据えられたバスの独白が壮絶すぎるので、第3部の逢瀬の場面でテンションが落ちてしまうこともあるのですがグレギーナとラリンはたっぷりとした美声が輝かしく、フランチェスカとパオロの法悦の一刻に圧倒されます。どうしても後半のパワフルな印象が強くなりますが、情熱に絆されるまでの心の動きの丁寧な描き方、精妙で強靭なpppなど情感においても技術においても幅の広い藝が楽しめ、短いながらもグレギーナの知的さと多才さを感じさせる演奏だと思います。
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オペラなひと♪千夜一夜 ~第百三十三夜/たたきあげの名歌手〜

今年はルートヴィヒのために随分と時間を費やしました。あれだけ長くかけるとつい共演の多い人にも自然と耳が向いてしまうもので、ちょっと書こうかなと考えていた候補たちを一旦置いて、今回はルートヴィヒと縁浅からぬ人のご紹介をすることにします。

WalterBerry.jpg
Frank

ヴァルター・ベリー(ワルター・ベリー)
(Walter Berry)
1929〜2000
Bass Baritone
Austria

愛嬌満点の喜劇的な人物からドスの効いた悪魔のような敵役、堂々たる政治家に子どものことで思い悩む父親など低音パートに与えられた多彩な役柄を網羅し、そのいずれでも忘れがたい歌唱を遺している稀代の名優です。ルートヴィヒとはモーツァルトやヴァーグナー、リヒャルト・シュトラウス、プフィッツナーなど独ものを中心に、珍しいところではロッシーニやバルトークにいたるまで数多くの演目で共演しています。一時的に夫婦であったことを指摘する向きもありますが、実際耳を傾けると何より仄暗さのある音色同士の相性が良く、個人的な関係を無理に取り沙汰するところではないような気がします。離婚後も少なからず一緒に舞台に乗っていますし、むしろ仕事における名コンビであったという方が適切なのでしょう。

彼もまたバス&バリトン黄金の年である1929年に生まれていますが、ハイバリ系のプライやヴェヒター、カプッチッリとも、どうひっくり返ってもバリトンとはなり得ないしっかりしたバスのギャウロフとも異なるバス・バリトンという声質で、同期たちとは全く違うキャリアを歩んでいます。音域の広さは驚嘆すべきで、パパゲーノ(W.A.モーツァルト『魔笛』)を当たり役とする一方で、オックス男爵(R.シュトラウス『薔薇の騎士』)までものにしていた歌手は彼ぐらいではないでしょうか。また、僕自身はあまり聴き込めてはいないのですが現代オペラもたびたび歌っていたようで、作品唯一の録音となっている音源に登場していることも間々あります。このあたりはヴィーンで叩きあげられてきたという経歴によるところもあるのかもしれません。

昔から大好きな歌手ですが、僕は恐らく彼の本領が示された録音よりも、今では珍しい独語翻訳されたものに親しんでいるので、生粋のファンの方からすれば「え?そこなの?」と思われるところは大いにありそうです。そういう意味でかなり偏った評になることを危惧はしつつ、折角なのでそうした演目でも聴きとれる彼の器用さをお伝えできればと考えています(もちろん、これまで同様に後日の加筆は増えると思いますが!笑)。

<演唱の魅力>
パパゲーノという役は、『魔笛』の作曲を依頼したシカネーダーという劇場支配人のためにモーツァルトが当て書きしたもので、有名で聴きどころにも恵まれているものの、譜面そのものは必ずしも難しいものではないのだそうです。さりとて出番がたくさんありますから十人並みの歌い手で安価な満足が得られるようなものではもちろんなく、この役の弱さが公演全体の足を引っ張ってしまうという事態は充分に考えられます。歌や声のよしあしももちろんですが、単に立派な“楽器”が必要ということではなく、むしろしんねりむっつりとした側面もあるこの演目において、愛すべき不真面目な道化であることが感じられるような、軽薄さと人間くささが重要です。ヘルマン・プライはこの点で、まさに文句のつけようのない天真爛漫な歌唱を遺していますが、彼と比肩しうる同時代の名パパゲーノとして、今回の主役ヴァルター・ベリーも忘れるこはできないでしょう。

とはいえ如何にも明るく華やかな声を持ったリリック・バリトンのプライに対し、バス・バリトンのベリーでは一声で響きの印象がまるで違います。彼の声は若いころからはっきりと低く、暗く、力強い音色ですから、ことによると笑いとは縁遠い厳格な表情の歌唱に終始しそうな気配すらあります。実際、のちほど詳しく述べますが、クリングゾル(R.ヴァーグナー『パルジファル』)やジョヴァンニ・モローネ(H.プフィッツナー『パレストリーナ』)、ザッカリア(G.ヴェルディ『ナブッコ』)での彼の歌唱は、むしろその声のドラマティックさや暗い色彩に重きを置いたものです。実力の高さを考えれば、それら生真面目なレパートリーだけでも卓越した歌手として記憶されただろうとは思います。しかし、それでもベリーを語る上では、先述のパパゲーノやレポレロ(W.A.モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』)、ファルケとフランク(J.シュトラウス2世『蝙蝠』)、オックス男爵(R.シュトラウス『薔薇の騎士』)、ケツァール(B.スメタナ『売られた花嫁』)といった愉快な紳士たちを隅に置くことはできません。

こうした演目での彼の奮闘ぶりを視聴して感じるのは、歌と話し言葉の高次の融合です。もちろん「それがオペラというもの」ですし、ブッフォをレパートリーにする歌手にとっては前提条件であることは言をまちません。けれども、近い活躍で記憶に残る名歌手たち−−レナート・カペッキやガブリエル・バキエ、そしてここでも取り上げたいとずっと思っているジュゼッペ・タッデイ−−と比較しても、ベリーの卓越ぶりには目覚ましいものがあります。モーツァルトやオペレッタなどではレチタティーヴォや科白と歌がはっきりと区別されるわけですが、そうした演目でも両者の間の往還が自在で、語りから気取りなくすっと歌に入ってしまいますし、逆に朗々とした歌の最中にふっと語りを感じさせるのです。

妙な言い方ですが「声を使い切らないこと」の巧さがひょっとすると1つポイントなのかもしれません。上述した通り彼の声は本来かなり重厚で立派なのですけれども、フルパワーで響きを聴かせている場面は意外にも限られているように思います(たっぷり歌われたものとしては若い頃のザッカリアやエスカミーリョが挙げられるでしょう)。むしろ鳴りを適度にコントロールすることで、微妙なニュアンスや人間らしい語りをさし挟む余地を生み出して、彼らしい柔軟で表情豊かな歌唱を実現しているのかなと。陽気で屈託のない笑顔とは裏腹に、繊細で精妙な藝です。

所詮は素人の妄想に過ぎないのですが、音源以上に映像での舞台人としての彼のパフォーマンスを観ていると、こうした考えは強くなります。印象としては「演技のうまいオペラ歌手」ではなくて、「異常に歌のうまい役者」です。科白回しに閉じる話ではなく所作も含めて芝居としての自然さをベースにしながら、必要とされるところで歌うというスタイルに見えるのです。歌と言葉が高い次元で融合されていることも、歌い上げることに流されることがないのも、芝居がベースになっていると考えるとつながってくるように思われるのですがいかがでしょうか。

<アキレス腱>
上記のようなパフォーマンスをする人ですから、特にライヴですと歌っている中で普通に笑ったり泣いたりといった感情表現が介在します。僕としてはその自然さに毎度感心しきりなのですが、当然ながらそもそも楽譜や台本に書かれているものではありませんから、音楽の流れが途切れてしまうとか過剰だという印象を持つ方もいらっしゃるかもしれません。
また音域が広いがために、かなり音が高い役も逆にバスとしても低い音が含まれる役も演じているため、そうしたキメの音のカタストロフに欠ける録音があるのも事実でしょう(それでもしっかり鳴りはしているのがすごいのですが)。

<音源紹介>
・パパゲーノ(W.A.モーツァルト『魔笛』)
サヴァリッシュ指揮/シュライアー、ローテンベルガー、E.モーザー、モル、ミリャコヴィッチ、ブロックマイヤー、アダム共演/バイエルン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1972年録音
>既に何度かご紹介していますが、個人的には全体のバランスでは最高の『魔笛』だと思っています。今にして思えば了見の狭い話でお恥ずかしいのですが、「パパゲーノはやっぱりプライ」という考えが強かった自分に、鮮やかな対案を示してくれたのがここでのベリーでした。プライの生きることの喜びに溢れた子どものような歌唱に対して、ある意味で彼はもっと泥臭い鳥刺し像です。貴族的な洗練からはほど遠く、下町のおじさんのような快活さや率直さを感じます。言ってしまえば上品さからは距離のある演唱ではあるのですが、彼がこの二面的な作品において“崇高な宗教劇”ではなく、庶民の楽しみであるジングシュピールの人物を代表していることを考えれば、さもありなんといったところでしょう。個人的には寅さんを思い出すのですが、あの映画を愛した観衆を考えるとそう遠くはないかもしれません。

・レポレロ(W.A.モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』)
クレンペラー指揮/ギャウロフ、クラス、C.ルートヴィヒ、ゲッダ、フレーニ、モンタルソロ、ワトソン共演/ニュー・フィルハーモニア交響楽団&合唱団/1966年録音
>クレンペラーの重心の低い音とドラマティックな世界は今風でこそありませんが、この作品の持つコントラストをはっきりと感じさせる超名盤であることは現代でも変わらないでしょう。ギャウロフのDGにベリーのレポレロというと響きを考えるといかにも重いぞ強いぞという演奏を想像してしまいますけれども、馬力を活かしながら鈍重には決してならない暴れっぷりが痛快ですらあります。彼のレポレロは一言で言うなら「強か」で、ちょっと確信犯的な側面も透けて見えるようです。確かに破壊力抜群のDGに振り回されてはいつつも、おこぼれをもらう時にはもらい、女は口説き、都合が悪くなったらあっという間に逃げていくのが非常にうまい。きちんとDGのネガになっていると思います。特にDGに変装してエルヴィーラを口説くところは傑作で、「ギャウロフの声真似をするベリー」と言う他では決して聴くことのできないものを楽しめます。

・フィガロ(W.A.モーツァルト『フィガロの結婚』)
スウィットナー指揮/ギューデン、プライ、ローテンベルガー、マティス、オレンドルフ、ブルマイスター、シュライアー共演/シュターツカペレ・ドレスデン&ドレスデン国立歌劇場合唱団/1964年録音
>今時流行らない翻訳演奏だという理由だけでスルーするのはあまりにももったいない名盤。ベリーの声の音色もあって聴き慣れた歌唱と較べるとやや暗い印象こそありますが、自在に操れる母語であることによって増している生命力の前では大した問題ではありません(彼は伊語もうまいんですけどね笑)。とりわけ早口でまくし立てるところなどは、陽気な皮肉を交えて一席ぶつフィガロの姿が目に浮かぶようです。彼の自由さは、プライがコミカルに演ずる保守的な伯爵とは好対照で、2人でこの作品の対立軸をしっかりと示しています。

・音楽教師(R.シュトラウス『ナクソス島のアリアドネ』)
ベーム指揮/ヤノヴィッツ、キング、グルベローヴァ、バルツァ、ツェドニク、クンツ、マクダニエル、エクヴィルツ、ウンガー、ユングヴィルト共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1976年録音
>こんなメンバーの演奏が存在することだけでも驚きですが、これが実演なのがまたすごい。残念ながら映像がないとは言っても、この演目を知る上で欠かせない名演でしょう。出番も僅かですしまとまった歌もありませんが、作品のフレームワークとして重要な第1幕の狂言回しとして重要な音楽教師は、歌手によって解釈が分かれるところだと思います。ベリーのこの役はとにかくよく笑うと言う印象。自らの藝術的理想に固執するあまり神経質になっている作曲家やしっちゃかめっちゃかな芸人一座、職業上のライバルである舞踏教師に、藝術を解さない執事長などというとんでもない面々に囲まれていても、笑うことで交渉し、取り繕い、舞台の世界で長年生きてきたプロという感じがします。オーバーなバルツァやよく喋るツェドニクといった悩みの種があったとしても、彼の音楽教師ならば生き抜いてくれるに違いありません。

・オックス男爵(R.シュトラウス『薔薇の騎士』)
バーンスタイン指揮/C. ルートヴィヒ、G.ジョーンズ、ポップ、グートシュタイン、ドミンゴ共演/WPO&ヴィーン国立歌劇場合唱団/1971年録音
>あの2幕の最低音を引き合いに出すまでもなく全体に低い音が多いですから、ベリーにとっては厳しくもあったのではないかと推測するのですが、当たり役のひとつと言っていいでしょう。優美で優雅な貴族性と図々しくて遠慮のない野卑さとが不思議な同居を繰り広げる彼の持ち味、面白さが一番引き出されているのはこの役なのかもしれません。ここでの彼の歌を聴いていると、オックスはいやらしくて下品な田舎者ではあっても、単なるものを知らない愚か者ではなくて、むしろある程度高い身分に生来あって、そのしきたりや所作が完全に肉体化されていて、なおかつその中でのゲームの勝ち方を知っている賢しさがあるからこそ質が悪いのだと言うことに気付かされると思います。他方で聴き手としてはそんな狡さも承知しつつ、うきうきで歌うワルツにはついほだされてしまうのも確かです。心底は憎めない魅力をきちんと放つことができるのも、ベリーの芝居人としての老獪さ、手腕の確かさなのでしょう。

・ファルケ博士(J.シュトラウス2世『蝙蝠』)
グルシュバウワー指揮/ヴァイクル、ポップ、グルベローヴァ、ファスベンダー、クンツ、ホプファヴィーザー共演/WPO&ヴィーン少年合唱団/1980年録音
>ベリーはこの役もお得意でしたから、音源でもヴェヒターやクメントといった名アイゼンシュタインとの快演を遺していて、それらも捨て難いのですけれども、やはりこの映像の魅力にはあらがいがたいものがあります。華やかなお祭りの雰囲気が欠かせない演目ですから、これだけスター揃い踏みとなればそれだけで盛り上がりますが、この映像をそれ以上に陽気で清々しい笑いで楽しませている功労者はベリーではないでしょうか。ファルケは黒幕だからこそいろいろな演じられ方をされますし、ちょっと陰険で苦味のある面白さを引き出すこともできるのですが、彼はおそらく敢えてこの役の狡賢い復讐者としての色調を抑えて、とぼけた愛嬌を与えています。その屈託のない人の良さそうな笑みを見ていると、そりゃあ悪戯のカモにされるだろうなという感じですし、要所要所で絶妙におマヌケで隙があるのです。それは例えば1幕のアイゼンシュタインとの重唱で決め所を持っていかれて悔しがっているところであったり、2幕でイヴァンの喋りを理解できずに腹を立てたりといったところにはっきりと見て取れるでしょう。この詰めの甘さがあってこそ、ファルケに親愛の情を持てる気がするのは、おそらく僕だけではないのではないかと思います。

・フランク(J.シュトラウス2世『蝙蝠』)
シルマー指揮/プライ、マッティラ、コヴァルスキー、リーンバッハー、ヘルム、ホプファヴィーザー共演/WPO&ヴィーン少年合唱団/1994年録音
>僕自身は長いことフランクという役は『蝙蝠』でも重要で大きな役だと思い込んでいたのですが、実際には歌のパートはブリントについで短いのだそうで驚いた覚えがあります。今回記事を書くために改めてこの映像を観て、その思い込みの源が他でもないここでのベリーの快演だったことに気づくことができました。ファルケで見せていた可愛らしさからは打って変わって、小心で偉そうなんだけれども滑稽で憎めない小役人といった風情です(どちらもシェンク演出なのでその差が更に目立つように思います)。1幕の終わりアイゼンシュタインの逮捕のために現れたところから人の好さそうな雰囲気を取り繕っていつつ、内心は早く晩餐会に行きたくて仕方がないという演技が最高です。科白のないところでも「おい、もう流石にいい加減にしろよー!」とか「あちゃー、見てらんないや!」といったことが伝わってきます。続く2幕では同い年のプライとの円熟の掛け合いがお見事!実際どうだったのかはわかりませんが、ファルケのヘルムも同年代なこともあり、おじさん達3人の同窓会というような気の置けなさや和やかさがあって、ほのぼのしてきます(プライもベリーも声そのものは流石にかなり衰えを感じるのですが、それを補って余りある愉快さです)。そして3幕でのゴキゲンな酔っぱらいぶりこそ、彼の藝の一つの頂点と言えるかもしれません。単に見事な喉を披露するでも科白捌きや表情づくりのうまさを見せるではなく、オペレッタとなかでそれらが見事に調和しています。口笛の達者さにもびっくりです!(笑)コヴァルスキーやマッティラ、リーンバッハーもよいので、NHKはこれを真剣に販売して欲しいのですが……。

・ドン・ピツァロ(L.v.ベートーヴェン『フィデリオ』)
フォン=カラヤン指揮/C.ルートヴィヒ、ヴィッカーズ、クレッペル、ヤノヴィッツ、クメント、ヴェヒター、パスカリス、パンチェフ共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1962年録音
>続いては独墺ものでもシリアスな方面へ。何でも演じられる幅広さがあるが故か、こういう“真っ黒な悪役”はかえってあまり取り上げていないようです(今回あげたものの中だとあとはクリングゾルぐらいでしょうか)。それでもいざ演じると完全にハマってしまうのが名優の名優たるところで、普段の人懐っこさはどこへやらギラギラとした邪悪さを放っています。レオノーレたちへの態度ももちろんですが、ロッコに対しても苛烈で他の歌手たちと比較してもとりわけサディスティックな色彩の強い歌唱だと思います。この演奏ではルートヴィヒとヴィッカーズの2人がライヴらしい切れ味抜群の歌を聴かせているので、ともすると主役以外が霞んでしまいかねなかったと思うのですが、彼のピツァロのエッジが立っていることで、公演としてもバランスが取れているようです(そして同様のことはクレッペルやヤノヴィッツといった実力ある面々にも言えます)。フォン=カラヤンの重厚でパワフルな音楽もこの演目にはぴったりでしょう。

・フリードリッヒ・フォン=テルラムント(R.ヴァーグナー『ローエングリン』)
ベーム指揮/J.トーマス、ワトソン、C.ルートヴィヒ、タルヴェラ、ヴェヒター共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1965年録音
>テルラムントは気位が高い貴族であり少なからぬ実力もある武人にもかかわらず、無双の英雄ローエングリンやおぞましい魔力と計り知れない恨みを抱くオルトルートといった常人ではない面々に囲まれてしまったがために不本意ながら情けない役回りになってしまっている人物だと思います。意外とこのバランスというのは難しくて、カッコ良いイケメンになりすぎてしまうと常人らしい悲哀から遠くなってしまいますし、かといってあまりにも弱々しくて軟弱では物語のパワーバランスとして緊張感を欠くことになるでしょう。重厚で力強い声を持ちながらも人間臭い嘆きや惑いを得意としているベリーは、こうした意味で理想的な配役です。外面的には立派で堂々としているけれども、思惑が外れたばかりか妻である魔女の口車に乗せられて騎士道精神すら踏みはずすことへの葛藤はリアルですし、この公演ではとりわけキレッキレなルートヴィヒとのバランスもお見事。この悪役夫婦の理想的な歌唱の一つと思います。彼らだけが突出しているわけではなく、トーマスはじめその他の共演陣も秀逸ならベームの熱血の音楽も含めて本作屈指の名盤です。

・クリングゾル(R.ヴァーグナー『パルジファル』)
フォン=カラヤン指揮/ウール、ヘンゲン、C.ルートヴィヒ、ホッター、ヴェヒター共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1961年録音
>どうにも僕は『パルジファル』向きではないようで、何度聴いてもクリングゾルが一番面白い役に思えてしまうのですが、ここでもやはりベリーに魅力を感じます。数ある彼の歌唱の中でも最もドラマティックな部類ではないでしょうか。声の重さのみならず歌い口にもただならぬ迫力があって、およそこの世の善なるものの全てを恨んでいるのはもちろんのこと、嘲弄のまなざしを向けていることが明白であるようです。ファルケやパパゲーノでの無邪気な印象からは考えられないほどのどす黒いオーラを纏っており、クンドリを裏で操る堕落した魔法使いとしての凄みには事欠きません。全体に演奏は良いもののどう言うわけだかフォン=カラヤンはクンドリを2人1役としていて、ヘンゲンも決して悪くはないのですが、2幕後半のみに登場するルートヴィヒを聴くと全曲彼女にやって欲しかった感じがします。

・ジョヴァンニ・モローネ(H.プフィッツナー『パレストリーナ』)
ヘーガー指揮/ヴンダーリッヒ、フリック、シュトルツェ、クレッペル、ヴィーナー、ヴェルター、クライン、カーンズ、ウンガー、ユリナッチ、C.ルートヴィヒ、レッセル=メイダン、ケルツェ、ポップ、ヤノヴィッツ共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1964年録音
>骨太な現代オペラの名作。空転するトリエント公会議の様子を描写したスケルツォ的な立ち位置の第2幕は、戯画化された数多くの登場人物が目まぐるしく入れ替わるのを楽しむような場面です。ですから単に主人公であるパレストリーナがいないというのみならず、幕として主役らしい主役が不在なのですが、それでもモローネは重要でしょう。教皇補佐官として大真面目に演説をぶって会議を進行する一方で、野次や混乱に悩まされるこの役は、シリアスにも(例えばフェルディナント・フランツ)ほんのりコミカルにも(例えばヴァイクル)演じられると思うのですが、ベリーは絶妙な匙加減でどちらにも寄りすぎない、生身の人間らしさがあります。より具体的に言うならば上質な声による厳かなソロは実際感動的な一方で、ブドーヤの司教の茶々にいちいちイライラするところは滑稽でもあり、簡単に割り切れない多面性を持っているのです。この辺り、踏んでいる場数と演じている役の幅の広さが如実に出ているのかもしれません。第2幕での共演者ではアクの強いシュトルツェ、ウンガー、クラインの3人のテノールが傑出しています。

・ヴォツェック(A.ベルク『ヴォツェック』)
ブーレーズ指揮/I.シュトラウス、ウール、ヴァイケンマイアー、デンヒ、ヴァン=ヴルーマン共演/パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団/1966年録音
>包み隠さず申し上げればあまり理解の進んでいない作品ではあるのですが、それでもここで取り上げない訳にはいかないと思いました。題名役たるヴォツェック自身は出ずっぱりではあるものの、前半はむしろ大尉やマリーや医者といった人物たちに気圧されるかのように歌も語りも断片的なのですが、ベリーは敢えて籠ったもごもごとした喋りに終始することで、彼が受けている抑圧を描いているようです。但し、そこには少しずつ幻想に憑かれる様が的確に埋め込まれていて、凶行から自殺に至るまでの流れが非常に有機的に、自然につながっています。このあたり流石は芝居巧者らしく、正気を失っているおぞましさをまとっているのみならず、観ている/聴いている側も自分とヴォツェックが地続きであることに気づかされるような凄演です。

・ケツァール(B.スメタナ『売られた花嫁』)
クロンプホルツ指揮/ストラータス、コロ、ツェドニク共演/ミュンヘン放送管弦楽団&バイエルン放送合唱団/1988年録音
>チェコの作品は言葉の壁もあって昔から独語訳で演奏されてきたようで、ここから3作チェコものを続きます。こちらはそんな独語演奏の中でも指折りの名盤でしょう。ジングシュピール的な軽さと、民族音楽らしい愉悦に加えて、随所にはっきりとヴァーグナーの影響を匂わせるクロンプホルツの指揮が素晴らしいですし、リリック且つ輝かしい強さのあるストラータス、コロ、ツェドニクもお見事です。ベリーはこの時には既に還暦間近だったはずですが、一回り下の世代の彼らと並んでも全く遜色のない張りのある美声を響かせており、まずは声で圧倒されます。加えてそのフットワークの軽さ、特に登場の3重唱でマリーの両親をあの手この手で言いくるめようとする早口の機動力にはニヤリとさせられるでしょう。乾杯の歌は相当低い音が出てくるので、苦労している感じこそありますがそれでもしっかり響かせています。そしてやはり忘れてはならないのはコロとの重唱ですね。ヴァーグナー歌いとしての馬力もある彼らが歌うことによる充実感は忘れ難いものです。

・水の精(A.ドヴォルジャーク『ルサルカ』)
プロハスカ指揮/シュナイダー、クメント、レッセル=マイダン、シェイラー共演/オーストリア放送交響楽団&トーンキュンストラー合唱団/1954年録音
>ドヴォルジャークのオペラとしては最も有名な作品でしょう。どうもそもそも放送音源だったようで繰返しを中心にかなりカットが入っており、CD3枚しっかりある作品が2枚でもおまけがつけられるぐらいの長さに切り詰められてこそいるものの、独風のシンフォニックな響きに民謡調の鄙びた空気をうまく融合させた、悪くない演奏だと思います(同じ合唱団のはずですが次の『ジャコバン党員』よりも合唱の出来もだいぶ良いです)。ベリーは登場場面からあたたかみのある声と歌唱で、ルサルカたち水の妖精の父親としての情愛を感じさせます。そして、その深い感情があるからこそ、悲劇を予見してからの哀しみと悩みの深さがリアルです。荒々しさこそありませんが、本格的なバスが歌った時には抱いたことのないリゴレットの嘆きへの近さもあるような気がします。共演の歌唱陣は皆レベルが高いですが、とりわけクメントの張りのある声が出色です。

・ハラソフ伯爵(A.ドヴォルジャーク『ジャコバン党員』)
テンナー指揮/アグレッリ、アルトルド、クメント、ラートハウシャー、ヘッペ、ウール共演/ヴィーン放送管弦楽団&トーンキュンストラー合唱団/1952年録音
>こちらもベリーが20代とは思えない老成ぶりを聴かせる録音……と言うか改めて録音年を見ると水の精が25、ハラソフが23の時の歌なのですね!同い年のクメント、1つ上のウールもそうですが、ちょっと驚異的な安定感。結構盛大なカットや放送音源らしいナレーションの挿入、独語歌唱もあって、全体としては必ずしもこのドヴォルジャークの隠れた傑作の真価を伝えているとは言い難い演奏なのですが、双葉より芳しい栴檀を知ることができるのは嬉しいものです。伯爵は終幕にしか登場しないとはいえ、一度放逐した息子を赦すとともに、仇を追放するという父親としての悩みと貴族の対面、そして機械仕掛けの神としての役割まで与えられた難儀な役柄で、実際ベリーぐらい恵まれた声と表現力がなければ説得力がなくなってしまうでしょう。アリアも良いですがウールの演じるベンダとの短いやり取りも感動的です。初めて作品を知る人には、原典通り捷語で歌われたピンカス盤やアルブレヒト盤を推しますが、看過するには惜しいところもあると言えるでしょう。

・ジュリオ・チェーザレ(G.F.ヘンデル『エジプトのジュリオ・チェーザレ』)
ライトナー指揮/ポップ、コーン、C.ルートヴィヒ、ヴンダーリッヒ、ネッカー、プレーブストル共演/ミュンヒェン交響楽団&バイエルン放送合唱団/1965年録音
>大変失礼なことを承知で言うと、あまり期待をしないで聴いたらびっくりするほど良くて、自分の思い込みを恥じた演奏です。もちろん現代のバロックを聴く耳で接すると、かなり重厚長大路線なのは間違い無いですし、しかも独語なのですが、不思議なほど色調が明るいのです。古典歌曲集を聴いているかのような清々しさがあると言いますか。そうした印象となっている理由の一つとして、ベリーのソフトタッチでまろやかな発声と格調高い歌い回しがあるのは間違いないでしょう。彼ぐらい重たい声ではともすると鈍重になってしまいそうな細かな動きですら、軽やかなのです。もちろん本来この役が書かれたカストラートに近いカウンター・テナーやアルトと較べて遜色がないわけではないのですけれども、低いどっしりとした声で歌われるからこその英雄然とした雰囲気もそれはそれで魅力的で、一概に切り捨てられないと思います(それはコーンの歌うトロメーオにも言えるでしょう)。騙されたと思って一度聴いてみて欲しい秀演です。

・ダンディーニ(G.ロッシーニ『チェネレントラ』)
エレーデ指揮/C.ルートヴィヒ、クメント、デンヒ、ヴェルター、ルーズ、D. ヘルマン共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1959年録音
>モーツァルトのようなメンバーで演じられた、モーツァルトのような独語版演奏です。カットも激しいのでロッシーニを聴いた満足感には乏しいものの、個々人の演奏の完成度は高くて聴きどころには富んでいます(デンヒはちょっと浮いてますが)。ベリーはマニフィコも歌っているようですし、おそらくそちらも見事なのだろうと想像はしつつ、フィガロやレポレロでも感じられた、権力への斜に構えた視線、皮肉っぷりがここでも生きていて、庶民の強かさを備えているようです。登場のアリアは、もちろん今の耳で聴くとコロラトゥーラに厳しさはあるものの、彼ぐらいの重さでごろごろ歌うからこそ出る面白さもあります。ヒロイックで最重量級と思われるクメントの王子との声のバランスも心地よいです。また、ここでのデンヒはあまり趣味ではないのですが2幕の重唱はご両人の言葉捌きが巧みで愉快痛快(笑)。

・ザッカリア(G.ヴェルディ『ナブッコ』)
クロブチャール指揮/コロンボ、シャイラー、ヤヴァノヴィッチ、ツラビンガー共演/ヴィーン放送管弦楽団&ヴィーン国立歌劇場合唱団/1955年録音
>世にも珍しい独語版『ナブッコ』(なぜ伊人のコロンボをわざわざ連れてきたのに独語で歌わせているのかはさっぱりわかりません)。正直なところベリーにヴェルディのイメージはありませんが、堂々たる歌には惚れ惚れします。とてもではないですが20代の完成度ではないです笑。既述のとおり彼が惜しげもなくたっぷりと喉を披露している録音は意外と少ないので、見事な“楽器”を楽しむという側面で貴重ですし、この血の気の多い宗教指導者には存外かなりしっくりきます。共演はそこそこといったところですが、クロブチャールの音楽はかっちりとしつつ熱量もあって魅力的です。
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オペラなひと♪千夜一夜 ~第百三十二夜/僕はなにを聴いていたのか〜

年を明けてから一気に本職が忙しくなりました。なかなかゆっくり音楽を聴く時間も取れず困ったものです。しかもただでさえバタバタしているのに、手持ち音源リストの作成に手をつけ始めたがために、実に8ヶ月ぶりの更新になってしまいました。

なんで今更音源リストなどを作り始めたのかといえば、結局のところここでの記事を書くためです。いつも手持ち音源から主役となる歌手の音盤をかき集める作業から始めるのですが、このごろは量の面でも記憶力の面でも流石に限界になってきました。記事を書いてしまってから「あ!こんなの持ってた!」とか「これを載せていない!」と言ったことも少なからずあります。また、若い頃に触れた音源には自分の耳の未熟さで味わえていないものも多く、こんなに良いものがなぜわからなかったのかと恥ずかしい思いをすることもしばしばなのです。
せめて自分の手許にあるものぐらいはもう少し網羅的に頭に入れておきたいと思って始めはしたものの、ご推察に難くないと思いますがまあこれが大変で少なく見積もっても2年はかかりそうだなという気がしています。
そんなこんなで随分間が空いてしまったわけです。

ChristaLudwig.jpg
Ortrud

クリスタ・ルートヴィヒ(クリスタ・ルートヴィッヒ)
(Christa Ludwig)
1928〜2021
Mezzo Soprano
Germany

今夜クリスタ・ルートヴィヒを取り上げることにしたのは、そんな作業をしていたことと深く関わっています。というよりも、改めて捉え直したいという気持ちを持った、という方が近いかもしれません。

20世紀最大のメゾ・ソプラノの1人である彼女は、ご承知のとおり残念ながら昨年亡くなりました。コロナ禍中であったにもかかわらず小さからぬ話題になっていたようです。クラシックの歌手、それも海外の歌手の訃報が取り上げられることが決して多くはない日本ですらニュースになっていましたし、Twitterでも多くの追悼コメントが流れていました。当然ながら僕自身も記事を書こうとしたのですが、しばらく悩んだ末にその時は文字にすることができないと思ったのです。当時を振り返ると、彼女の本領と思える歌唱を見出せていないと感じたことが一番大きかったのではないかという気がします。そしてあの頃の僕はその状況を、僕自身がまだ彼女の膨大な録音にそれほど触れられていないこと、特に彼女の藝術の本丸であるはずのモーツァルトやR.シュトラウス、ヴァーグナーの開拓が進められていないことに依るものだろうと理解しました。いずれもう少し独ものを聴くことができれば変わるだろう、残念だし心残りではあるけれど今はまだその時ではない、十分ではない、と。

最初に述べたようにリスト作りに手をつけたのはその後しばらく経ってからです。進めながら気がついて驚くと同時にショックでもあったのが、自分がこれまでかなり多くの、幅広いルートヴィヒの歌唱に接していたことです。先に挙げたモーツァルト、シュトラウス、ヴァーグナーはもちろんのこと、ヴェルディ、ビゼー、サン=サーンス、フンパーディンク、オッフェンバックにバーンスタイン……もちろん彼女の録音全体から見れば氷山の一角に過ぎないものではありますが、一方で知らない/聴いていないとは言えないぐらいの量です。これだけ接しているにもかかわらずはっきりとした印象がないとは、いったい何事だろうと頭を抱えつつ、持っていた音源を片っ端からあたっていきました。じきにわかってきたことは2つあります。1つは特にオペラを聴き始めた頃の自分が書評に左右され過ぎて真っ直ぐに聴けていなかったこと、もう1つは僕自身が「これはいいはずだ」と思って聴き始めた演奏での彼女が、必ずしも僕にとってベストに聴こえていなかったということです。僕は何を聴いていたのかと、しばし驚くとともに係もしたのですが、同時に自分なりにはっきり死とした像を結び始めたルートヴィヒの魅力を、書きたい、書かなければという思いを強くしたのも事実で、新しい音源も確保しながら、ようやく今夜のご紹介にいたります。
うまく書けると、いいのですが。

<演唱の魅力>
この連載のタイトルがはっきりと物語るとおり、僕自身はオペラファンでしかなくてクラシック音楽や声楽には疎いのですが、母はむしろ声楽愛好家で、実家ではよくバッハの宗教音楽やシューベルトの歌曲もかかっていました。そんな環境でしたから、ルートヴィヒの名はオペラの人というよりも声楽の人として覚えていたように思います。彼女の歌は静謐な美しさと分かち難く結びつき、「派手ではないけれど、端正で、実直で、凛とした美しさのある歌い手」というイメージを、気がつけば押し付けていたのかもしれません。また、色々な方の感想を見る範囲の当て推量でしかありませんが、同じようなイメージが先行してしまっている人は、存外少なくもない気もします。

まず今回縦にしっかり聴いてみようと思ったのは、自分がごく初期に手を伸ばしてみたような演奏にもう一度当たることで、当時は気づかなかった彼女の魅力に気づくことができるのではないかと考えたからです。ところが意外なことにこれがあまりピンときません。言葉にしづらいのですが求心力に欠けると言うか、パンチが足りないと言うか……そもそも僕は低音が好きでオペラを聴いているので、渋い歌手に魅力を感じないわけでもありません。これはひょっとすると僕はルートヴィヒと相性が悪いのでは?と思い始めたところで、印象のガラッと変わる音源に出会いました。『キャンディード』の老婆役−−これを彼女の「当たり役」という人は、あまりいないでしょう。バーンスタインが英語で書いたオペレッタ(オペラという人も、ミュージカルという人もいる)のコメディ・リリーフ、しかも見せ場の歌は思いっきりタンゴなどという役を、ルートヴィヒが歌っているということ自体そもそも意外な印象を持つかもしれません。ところがどっこい、このタンゴが抜群に楽しい(笑)。この録音の時点では尊敬される老大家であった彼女が、悪ふざけとしか思えないような巻き舌英語で、嘘か本当かわからない怪しい身の上話を歌い上げるエキセントリックさに打たれた僕は、虚心に帰ってルートヴィヒで強く記憶に残っている役柄を探りました。それは独語によるカルメン(G.ビゼー『カルメン』)であり、デリラ(C.サン=サーンス『サムソンとデリラ』)であり魔女(E.フンパーディンク『ヘンゼルとグレーテル』)であって、僕が固定観念で「よいはずだ」と信じてかかっていた作品ではなかったのです。

それからはむしろ、ルートヴィヒはうんと身近になりました。僕にとっての彼女の魅力は淑やかさや実直さというよりも、若々しい力強さだとか勢い、切れ味に近いところなのだと今は思っています。狂乱といってもいいような激情に駆られた瞬間や、若さに満ち満ちた少年など、エネルギーの高い役柄、高い瞬間で聴かせる煌めきは、他の追随を許さないものです。そして、そうと定めてしまうと不思議なもので、記事を書くために新しく入手した音源でも外すことは減ったように思います。オルトルート(R.ヴァーグナー『ローエングリン』)、エボリ公女(G.F.F.ヴェルディ『ドン・カルロ』)、ケルビーノ(W.A.モーツァルト)……とりわけオルトルートは格別でした。一周回って結局ヴァーグナーなのかい、と思われるかもしれませが、ここでの復讐に駆られた魔女の異様な迫力に総毛立たない人がいるでしょうか。もし以前の私のように、ルートヴィヒが四角四面な歌い手だと思われている方だとしたら、些かギョッとするかもしれません。しかしだからと言って、「グロテスク」の一言に切り捨てることはできないでしょう。ルートヴィヒの持つカリスマこそが、彼女のオルトルートの魔法の源なのですから。

<アキレス腱>
メゾの歌手の多くがソプラノの役に憧れるものなのだそうで、ルートヴィヒもまた、ソプラノの諸役に挑戦しています。そうした役柄ではバッハを歌うときのような敬虔で実直な彼女が登場してくるように思うのですが、別の魅力になっているかというと……僕の感触としては成功しているとは、必ずしも言い難いように思います。華がない、というより欲しい音色で聴こえてこない、あるいは淡白すぎる印象という方が近いかもしれません。役柄が浮かび上がってこないのです。
やはり彼女は個性の強いメゾの役柄で聴きたいなあというのが、私見です。
うーん、でもレオノーレはすごく良かったのがわかったので、ひょっとすると単に向いている演目で聴いてないだけかもしれない……(2022.11.5追記)

<音源紹介>
・オルトルート(R.ヴァーグナー『ローエングリン』)
ベーム指揮/J. トーマス、ワトソン、ベリー、タルヴェラ、ヴェヒター共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1965年録音
>少なからず聴いていたはずなのに、「これだ!」という歌唱と出逢ったことで曲の理解がうんと進むという経験は、オペラ聴きならば誰しもあるのではないかと思います。今回の記事を書くにあたって仕入れたこの音盤での彼女のオルトルートは、僕にとってまさにそういった経験でした。ヴァーグナーの大家であるヴァルナイや大好きなゴールの歌唱にそそられなかったわけではないものの、脳髄に響くようルートヴィヒの魔女の前では霞んでしまいます。この音盤を聴いて2幕の短い独唱に衝撃を受けない人はいないでしょう。むせ返るようなヴァーグナーの毒に、ヴィーンの聴衆が音楽を中断するほどの拍手を送っているのももっともなことです。けれども本当にすごいのは一場面でのスリルにとどまらないことで、このあとエルザの大聖堂への入場に割っているところや、終幕ローエングリンに食ってかかるところではほとんど狂気と言ってもいいような壮絶さを見せています。この作品の裏の主役は虐げられてきたオルトルートだったのではないかと思わされるほどです。これだけ彼女が強烈だとほとんど独り舞台になってもおかしくないのですが、共演者全員高水準で絶妙なパワーバランスです。とりわけトーマスがきちんと表の主役たる力強いローエングリンを歌っているのが素晴らしい。そしてもちろん、この燃え盛るような音楽世界を作り出しているベームには賛辞を惜しみません。

・ヴェーヌス(R.ヴァーグナー『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』)
フォン=カラヤン指揮/バイラー、ブラウエンステイン、ヴェヒター、フリック、クメント、ヴェルター共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1963年録音
>ヴァーグナーからはじめましたので続けていきましょう。と言いつつ初めて聴いた時から今にいたるまで、この演奏全体はどうもパッとしないというのが正直な感想ではあります。それでも敢えてここで紹介せざるを得ないほどの気を、独りルートヴィヒだけが吐いています。開幕早々これだけ男に追い縋る役も他にはないと思いますけれども、不本意な別れを前にした悲しみと怒りに揺れる心を極めて人間的に表現しながら、女神としての威厳もまた決して失っていません。愛情を裏切られた恨みから祟りを齎しているような強烈さがあるのです。彼女はスタジオ録音でもこの役を遺しており十分立派な歌なのですが、ここまでの危機迫る迫力は有していません。オペラ歌手としての実力を、舞台でこそ最大限発揮するタイプの人だったのだろうと感じます。これだけのヴェーヌスを引き剥がしていくだけの覇気がバイラーに感じられないのが非常に残念です(こちらはむしろスタジオ録音でのコロの圧倒的な輝かしさが忘れられません)。それでもこの音盤のヴェーヌスベルクの場面は必聴だと思います。

・オクタヴィアン(R.シュトラウス『薔薇の騎士』)
フォン=カラヤン指揮/シュヴァルツコップフ、エーデルマン、シュティッヒ=ランダル、ヴェヒター、ゲッダ、ヴェリッチ、キューエン共演/フィルハーモニア管弦楽団&合唱団/1956年録音
>名盤として“履修”し、いっときその評価に疑問を抱き、今また改めてその魅力に酔っています。この後ご紹介する作品でもルートヴィヒは数々のズボン役を演じていますが、それらと較べてもやや女性的なテイストでこのオクタヴィアンを演じているように個人的には感じます。このバランスの妙が重要に思えていて、これによって冒頭の閨で迎えた朝やゾフィーと対面した場面、そして最も重要な場面である3幕の3重唱といった重要な音楽の陶然たる官能性がいっそう高められているようです。一転してマリアンデルとしてオックス男爵を手玉にとる3幕でのいたずらっ子らしいおふざけもまた微笑ましい……こうしたシュトラウスにこそ備わっている味わいを引き出しているという点で、彼女のオクタヴィアンは稀有なものだと思うのです。いうまでもなく共演も優れていますが、シュヴァルツコップフの濃密な言葉の扱い、エーデルマンが聴かせる絶妙な高貴と下品のブレンドがやはりお見事(実は一時期その魅力がよくわからなくなったのがこの2人なのですが、今はこれ以上のものはないように思えます)。フォン=カラヤンの卓越した手腕については言わずもがなのものでしょう。

・ケルビーノ(W.A.モーツァルト『フィガロの結婚』)
ベーム指揮/フィッシャー=ディースカウ、シュヴァルツコップフ、クンツ、ゼーフリート、シュテルン、S.ヴァーグナー、ディッキー、マイクト共演/WPO&ヴィーン国立歌劇場合唱団/1957年録音
>これを言うといろいろな人から怒られそうなのですが、ルートヴィヒになかなかピンとくることができなかった原因が、実はモーツァルトです。名盤の誉れ高いベームとのコジは残念ながら彼女のみならず音盤そのものが全く僕の感性に引っ掛からず、ギャウロフの圧倒的な活躍で大好きなクレンペラーのDGでもどうにもおしとやかすぎてエルヴィーラの尖ったキャラクターにハマっているように思えませんし、上手いとは言っても流石に第2の侍女で印象をガラッと変えるのは難しい……そんな僕にとって光明であったのがケルビーノでした。シュトラウスの作曲の経緯もあってオクタヴィアンと重なる部分が多い役ではあるのですが、明確に異なる人物像に仕上げています。もう少し歳下で、分別よりも感情が先に立つやんちゃ盛り、けれども誰からも愛される紅顔の美少年……バジリオの下世話な誹りのニュアンスを斥けて、まさしくCherbin d’amoreと思わず口をついて出てしまうような溌溂とした少年を、ルートヴィヒは作り上げています。わけても2幕のアリアが圧巻です。彼女以外がこう歌ったら、指揮者のテンポからちょっともたついていると感じてしまうでしょうが、胸いっぱいに膨らんでいる甘やかで弾んだ戀の想いがひしひしと伝わってきます。

・レオノーレ(L.v.ベートーヴェン『フィデリオ』)2022.11.5追記
フォン=カラヤン指揮/ヴィッカーズ、ベリー、クレッペル、ヤノヴィッツ、クメント、ヴェヒター、パスカリス、パンチェフ共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1962年録音
>アキレス腱のところで書いた通りルートヴィヒは少なからずソプラノのレパートリーにも挑んでいて、この役も複数の録音があるのですが、正直なところこれを聴くまでは「優秀なメゾの藝術的チャレンジ」以上の感想は持っていませんでした。が、ここでようやくその真価を知ることができたという感じです。1幕の名アリアでももちろん緊密で切迫感のある絶唱を聴くことができるのですが、2幕に入ってからのアンサンブルには圧倒されます。ロッコとの墓掘りの歌での痛切な悲しみとひた隠した怒りにハラハラしますし、ピツァロの横暴に激怒して正体を明かす場面の緊張感の高さも特筆すべきです。この演奏を聴いてここで息を呑まない人はいないでしょう。フィナーレでのフロレスタンとの重唱もただ喜ばしいという次元ではなく、自由を勝ち取ったという誇りに溢れた勝利宣言だということがよくわかります。フォン=カラヤンの輝かしく堅牢な音楽、ヴィッカーズをはじめとした独唱陣の隙のなさを含め、この作品指折りの名演と言えるでしょう。

・シッラ(H.プフィッツナー『パレストリーナ』)
ヘーガー指揮/ヴンダーリッヒ、フリック、ベリー、シュトルツェ、クレッペル、ヴィーナー、ヴェルター、クライン、カーンズ、ウンガー、ユリナッチ、レッセル=マイダン、ケルツェ、ポップ、ヤノヴィッツ共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1964年録音
>もう1人、少年を。うってかわってこのプフィッツナーの大作は色戀とはかけ離れた藝術をテーマとした作品で、オクタヴィアンやケルビーノの出る幕はありません。けれども堅苦しさ一辺倒ではなくて、活き活きとしたやりとりや風刺をはらんだ笑いの要素が織り込まれており、シッラもまたそうした存在として登場します。この少年は夢を抱き、新しい世界に焦がれているからこそ、戀に燃える少年たちとは違う思い上がり、若さゆえに満ちている無邪気で傲慢な自信を持っているのです。ここでのルートヴィヒの純真な声はまさにうってつけと思います。そう、ここでも彼女は全く異なる少年の声になっているのです。なんと凛々しく、またあどけない響きを備えていることでしょう!あたかも本当に思春期のようです。そしてシッラの活力こそが、老パレストリーナが1幕で痛感する衰えと3幕で与える赦しにつながっていきますから、決して長いとは言えない出番であっても彼女が歌うことに大きな意味があるのです。こうして少年3役に着目すると彼女の舞台人としての卓越に気付かされますね。

・魔女(E.フンパーディンク『ヘンゼルとグレーテル』)
アイヒホルン指揮/ドナート、モッフォ、フィッシャー=ディースカウ、ベルトルト、オジェー、ポップ共演/ミュンヘン放送管弦楽団&テルツ少年合唱団/1971年録音
>バーンスタインの老婆で聴きとれたような彼女のおちゃめさ、コメディ・センスを突き詰めるところまで突き詰めるとこの役になるでしょう。デイヴィス指揮の演奏でも大活躍なのですが、更にいい意味での悪ふざけが際立っているように思い、こちらを推しました。ここまでやるかという“イヒヒヒ”笑いやら極端なRの巻舌、味見でのムニャムニャなど笑えるところは枚挙にいとまがありません。この役での悪ふざけと言えばセルフ・パロディ的な怪演を繰り広げたシュライアーを思い出しますが、エキセントリック差ではやや譲ったとしても、女声で演じることによって生み出すことのできる自然さがルートヴィヒにとっては大きなプラスになります(そしてそれでも十分すぎるほどエキセントリックでもあります)。彼女のような優れたメゾが歌う低音でのドス、高音での切れ味はこの役が道化の要素を含みつつも悍ましい悪者であることも思い出させ、オルトルートにも通ずるものを持っていることを教えてくれるのです。豊麗な響き、さりとて重くならない音楽を作るアイヒホルンのセンスの良さは抜群ですし、共演もベストでしょう。

・カルメン(G.ビゼー『カルメン』)
シュタイン指揮/ショック、プライ、ムゼリー、レブロフ共演/BPO、ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団&シェーネベルク少年合唱団/1961年録音
>今となっては後付けになってしまうのですが、初めてルートヴィヒの歌唱を聴いて圧倒されたのはカルメンだったように思います。白状しますと視聴前には、彼女の独的な声質はあまりにも生真面目すぎて異質だろうなどと考えていたのですが、そんな予想は1幕を聴き終える頃にはあっさりと覆されていました。独語で歌われているにもかかわらず、南欧の明るさとロマのエキゾティシズムとがはっきりとあって、蠱惑的なファム・ファタルそのものだったのです。何度聴いてもそのみずみずしく若さに溢れた声と奔放な歌い口(しばしば挟まれる高音の刺激たるや!)には魅せられますし、言語の壁を越えたカルメンの名演であることは疑いようもありません。あんまり知らない人を含めてキャストのレベルも高いので、5重唱の愉しさは格別です。陽気なプライのエスカミーリョも聴きもの。

・デリラ(C.サン=サーンス『サムソンとデリラ』)
パタネ指揮/キング、ヴァイクル、マルタ、コーゲル共演/ミュンヘン放送管弦楽団&バイエルン放送合唱団/1973年録音
>今度は仏ものを続けましょう。主役3人だけ見るとヴァーグナーをやるつもりだったはずが何か手違いがあったのか?という気もすれば、いわゆる珍盤の部類ではないかなどと邪推もしてしまいますけれども、とんでもない!数ある本作の音源の中でも屈指の名盤だと思います。ルートヴィヒは上述のカルメンとは違って自由な歌い崩しなどを避けた抑えた歌唱ながら、そこには収まりきらない情念(それは例えば戀でもあり、復讐でもあり)が見え隠れします。同じように“運命の女”であったとしてもデリラの野心はうちに秘めたものであって、カルメンと一緒にはできないと訴えかけているようでもあります。ある意味でちょっと知能犯なデリラとも言えるかも知れません。尋常一様では無いキングの神々しさと生臭坊主らしい妖しさのあるヴァイクルが拮抗しているのも嬉しいところです(ここの三つ巴ができてこそのこの演目ですから)。

・母(J.オッフェンバック『ホフマン物語』)
小澤指揮/ドミンゴ、グルベローヴァ、エーダー、シュミット、バキエ、モリス、ディアス、セネシャル、シュタム共演/仏国立管弦楽団&仏放送合唱団/1986~1989年録音
>もう一つ仏ものをと考えて引いてきましたが、いやしかし彼女のレパートリーの広さと言いますか、大成したあとでも小さな役で仕事をしているのには頭が下がります。当然ですがアントニアの母は筋書きにおいても、この作品でも最も盛り上がる重唱を歌うという意味においても重要な役柄ですが、それにしてもルートヴィヒほどの大物が歌っている例は少ないでしょう。還暦前後だったはずですが声の力は健在で、アントニアに呼びかける場面の神々しさは群を抜いています。第一声だけで超常の存在、この世ならぬ人なのです。一緒に歌うグルベローヴァやモリスはこの頃が一番声に脂の乗っていた時期ではないかと思いますが、衰えによる聴き劣りなど一切感じさせません。

・エボリ公女(G.F.F.ヴェルディ『ドン・カルロ』)
クロブチャール指揮/ギャウロフ、ドミンゴ、G. ジョーンズ、パスカリス、ホッター、ツェドニク共演/WPO&ヴィーン国立歌劇場合唱団/1967年録音
>数は多くないもののヴェルディも歌っています。彼女の土俵と違う流儀の音楽ではあるのでヴェールの歌など技術的に苦労しているところもあるのですが、これまで見てきたような情熱的な麗人が似合う彼女にとってエボリは適性のある役だと思いますし、こうして聴くことができるのは喜ばしい限りです。当然ながら美貌のアリアも緊迫感の有る名唱ですけれども、2幕でカルロたちに啖呵を切る場面の嫉妬に狂う様が鬼気迫る表現で息を呑みます。「拒絶を受けて追う女」としては上述のヴェーヌスの影も見えるといっていいかも知れません。絶好調で豊かな声をたっぷり聴かせるドミンゴと重厚で武人的なパスカリスとのバランスもよく、前半のクライマックスと言えるでしょう。全体に演奏そのものは素晴らしいのですが、パスカリスやギャウロフの出番の肝心なところに欠損や乱れがあるのが非常に残念です。

・クイックリー夫人(G.F.F.ヴェルディ『ファルスタッフ』)
フォン=カラヤン指揮/タッデイ、パネライ、カバイヴァンスカ、ペリー、アライサ、シュミット、デ=パルマ、ツェドニク、ダヴィア共演/WPO&ウィーン国立歌劇場合唱団/1980年録音
>彼女のヴェルディというとこの役のイメージという方もいらっしゃるかもしれません。まとまったアリアがあるわけではないけれど強烈なキャラクターを示してほしいこの役では、彼女の異質性とコメディのうまさがプラスに働くのは間違いないでしょう。あの魔女の底意地の悪さを活かしつつ陽気さを際立たせた感じとも言える気はしますが、ファルスタッフの元に使いとして来る部分ではそこはかとない不気味さも漂わせています。そして、これは共演陣にも言えますがアンサンブルのうまさ!老巨匠の作り上げた複雑で緻密な重唱の旨味を存分に楽しめます。

・アンジェリーナ(G.ロッシーニ『チェネレントラ』)
エレーデ指揮/クメント、デンヒ、ベリー、ヴェルター、ルーズ、D. ヘルマン共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1959年録音
>これははっきりと申し上げて珍盤だろうなと思います。独語なのはもちろんとして、本来の作品の3分の1ほどバッサリカットされていますし、序曲が終わってすぐアリドーロが謎のアリア(出典をご存知の方がいらっしゃれば是非教えていただきたいです)を歌ったり、舞踏会の場面でバレエ音楽が挿入されたりと、通してみても『チェネレントラ』を聴いた感じはあまりしません。が、しかし、この演奏はそういった留保があったとしても歌と声が立派で聴く楽しみがあるのです。「立派」というと重たすぎるのでは?という懸念も出てこようかと思います。実際ルートヴィヒにしても聴くことのできるアンジェリーナとしては最も重い部類の声ではありますが、娘らしい明るさも兼ね備えていて、変に隈取りにならず愉悦も感じられます。秀逸なのはアリア・フィナーレで、それこそモーツァルトの作品を思わせる軽やかで小気味よいコロラテューラを披露しており、若い頃の彼女はこんな歌までうたえたのかと畏敬の念を新たにします。

・アダルジーザ(V.ベッリーニ『ノルマ』)
セラフィン指揮/カラス、コレッリ、ザッカリア共演/ミラノ・スカラ座管弦楽団&合唱団/1960年録音
>カラスがスタジオ録音で遺した2つの『ノルマ』は、残念ながらいずれも彼女のピークの記録ではないと言われ、また共演についても好ましく語られることは多くないようです。今回取り上げているこの録音でよく槍玉に上がってしまうのは誰あろうルートヴィヒで、実のところ僕自身も疑問に思って今した。しかしこの音源についても改めて聴き込んでみると、むしろいったい彼女のどこが悪いのだろうか?という気持ちが湧き上がっています。なるほど確かに独的な生硬さが全くないわけではないですが、むしろこくのあるやわらかな響きは、若いけれどもぎりぎりで分別を持ち込める淑やかさを感じさせます。何よりカラスやコレッリとの声の重なりが掛け値なしに美しいのです。特に2幕冒頭のデュエットは、カラスが悪声だとかルートヴィヒが伊ものっぽくないとかそんな御託を並べるだけ野暮でしょう。

・コルネーリア(G.F.ヘンデル『エジプトのジュリオ・チェーザレ』)
ライトナー指揮/ベリー、ポップ、コーン、ヴンダーリッヒ、ネッカー、プレーブストル共演/ミュンヒェン交響楽団&バイエルン放送合唱団/1965年録音
>20世紀中葉の演奏らしい重々しいヘンデルですが、優れた音楽者たちが本気で取り組んだ演奏であるからこその荘厳な魅力に溢れています。妙な話ですが変にオペラティックになりすぎず、歌曲のように聴けるところが大きいのかもしれません。コルネーリアは嘆く役ですから、華美な装飾のない抑制された旋律をどれだけ聴かせられるかにかかっているわけですが、ルートヴィヒは丹念な歌唱で深い哀しみを表現しており引き込まれます。東山魁夷の京都の風景を観るような静かな感動があるのです。だからこそポップのヴィヴィッドなクレオパトラとは好対照を成していると言えるでしょう。パートの異動にこそ時代を感じさせますが、男声陣の充実ぶりも特筆すべきものです。

・オッターヴィア(C.モンテヴェルディ『ポッペアの戴冠』)
ルーデル指揮/G.ジョーンズ、ヴィッカーズ、ギャウロフ、スティルウェル、マスターソン、タイヨン、セネシャル、ビュルル共演/パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団/1978年録音
>当然こちらも演奏スタイルとしては今や時代がかったものと言わざるを得ないものですけれども、やはり捨てがたい良さがあります(大河ドラマ的な題材ということもあってちょっと『ホヴァーンシナ』っぽいぐらい)。音は今ひとつながら映像が遺っているのもありがたいです。ヴィッカーズの躁鬱っぽいネローネ(セネシャルとのバカ騒ぎっぷりも笑えます)やジョーンズの悪女ぶりも楽しいのですが、公演としては暴君に虐げられる側の演唱が秀逸ではないでしょうか。ルートヴィヒは皇后としての品格もたっぷりですし、不幸を予見した悲哀に満ちた歌が胸を打ちます。なかんずく終幕にローマへの別れを告げる場面は、ディドー(H.ベルリオーズ『トロイ人』)を想起させるような、苦味のあるかっこよさです。ギャウロフのセネカ(巨大な美声!)ともども破滅のさまが魅力的で、真の主役はこちらなのでは?などとこの作品でも思ってしまいます。

・老婆(L.バーンスタイン『キャンディード』)
バーンスタイン指揮/ハドレー、アンダーソン、グリーン、オルマン、ゲッダ共演/LSO&ロンドン交響合唱団/1989年録音
>いまだにこの自作自演盤は代表的な録音・映像でしょう。上述の通り僕にとってはルートヴィヒ開眼になった大事な1枚です笑。ここまでのご紹介で彼女がまた卓越したコメディエンヌであったことは十分に伝わっている気はしますが、それでもこの演奏でのあまりにもあっけらかんとした陽気さには驚かれると思います。僕自身も全曲の映像を持ってはいないのですが、全曲の映像を入手しました!バーンスタインやゲッダともども既に“レジェンド”だった彼女への共演、聴衆のリスペクトを感じるとともに、心から楽しそうなパフォーマンスに思わず笑みがこぼれます。youtubeにも転がっているタンゴの部分は傑作。ここだけでもご覧になってください。大ヴェテランがノリノリで歌い、踊り、カスタネットまで叩いているのがなんとも微笑ましいです。実際会場でも、隣に座っているアンダーソンが思わずファンの顔になっていますし、バーンスタインも実に楽しそう。
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オペラなひと♪千夜一夜 ~第百三十一夜/地上の重さから逃れて〜

あまり意図したわけではないのですが、ギオー、ヴァン=ダムと仏ものの大御所が続いております。そろそろちょっと毛色の違う人に行こうかとも思っていたのですが、奇しくも訃報を知りましてこの路線を続けることになりました。

CharlesBurles.jpg
Tonio(La fille du régiment)

シャルル・ビュルル
(Charles Burles)
1936〜2021
Tenor
France

シャルル・ビュルルの名はどれだけ知られているのでしょうか(ラジオ番組で紹介されるのを聞くとどちらかと言えば「シャルル・ブール」といった音に自分は聞こえるのですが、ここでは表記としてまだ見ることの多い「ビュルル」で通します)。正直なところ、「泣く子も黙る」というほどの知名度を誇っているとは言い難いかと思います。ご存じとすればよっぽどオペレッタに精通している方か、パリ・オペラ座の公演を念入りに集めている方、或いはあのロンバールの素晴らしい『ラクメ』(C.P.L.ドリーブ)に感動された方ならば、ご記憶にあるかもしれません。

経歴としては10歳ほど先輩のミシェル・セネシャルと近いと言えそうですが、後々述べますけれどもセネシャル翁の個性を更に尖らせたようなところがあるように思います。比較的若い時期は主役として活躍しつつ、オペラ座では長い間にさまざまな傍役、更には端役まで歌っていますから、むしろ個性的な傍役として公演に花を添えているイメージの方が強いかもしれない。

かく言う僕も『ラクメ』のジェラルドに圧倒されてはいたものの、真剣に音源を集めはじめたのは、せいぜいこの1、2年がいいところでしょう。(後日プラッソンの同作のCDで脇役のアジを演じているのに気づいて心底びっくりしました)。しかし、聴けば聴くほど改めてその実力の高さに舌を巻きます。特にライヴ録音がすごい。むしろこれだけ卓越した歌い手が、どうしてスタジオでは大きな役を残していないのだろうと思わず首を傾げたくなるような、聴く人を魅了して止まない力を持っているテノールだと言うことがわかってきます。泣く子を黙らせるのは知名度ではなく、実力なのです。

この8月ごろ、Malibranから彼が主演した『ロンジュモーの御者』(A.アダン)を入手して、あの愉悦に溢れた高音を繰返し堪能していたのですが、どうもそのころに亡くなられたようです。日本では訃報も出なければ大きな話題にもなりませんでしたからオンタイムではわからなかったのですが、なんというか不思議な縁を感じまして、少しでも多くの方に彼のリラックスした超高音を少しでも知っていただくことができたらと思っています。

<演唱の魅力>
これまでも仏ものを得意とする歌手たちをご紹介するとき、彼らの声をあらわすキーワードとして優美さや明るさ、洒脱さ、洗練を挙げてきました。ビュルルは、こうした特徴が最もよく現れている歌い手の1人だと言えるでしょう。ゲッダやセネシャル、ヴァンゾ、アラーニャといった並みいるリリカルなテノールたちの中においてさえも、耳が蕩けるような陶酔感を与えてくれると言う点で、彼は別格です。あの高音域の響きの香の煙のような気だるげな甘美さと、夢のような典雅さと言ったら!当て推量ながら現在歌っているベル・カント歌いたちのような鋭利で身の詰まった胸声とは違い、頭声と言っていい発声だと思います。今どき流行らないスタイルなのかもしれませんが、そんな頭でっかちなことを言ってビュルルの声、ビュルルの歌の快楽をなおざりにするのはあまりにももったいありません。

僕が「優美」とか「洗練」とか「スタイリッシュ」と言うときには、あまり聴衆へのパフォーマンスに傾かない人が多いように思うのですが、ビュルルについては様子が違います。歌唱その物だけを取り出してみると、楽譜に書かれていない超高音を随所に挟み込んでもいれば、お得意の高音をしっかりと引き伸ばしていていて、言ってしまえばかなり「攻めている」のです。下手をすれば「テノール馬鹿」の烙印を押されてしまいそうですが(もちろんそうした歌の楽しみもありますけれども)、不思議と嫌味な感じを受けたり、過剰な自己顕示欲に辟易させられたりはしません。押し付けがましいスポーティなスリルを生む装置として超高音が付加されるのではなくて、むしろその優美な歌の中であるべき場所に適切に組み込まれていると言う方がしっくりきます。だから聴いている側にとっては妙なストレスがないと言いますか、自然な流れの中で感情のピークに超高音の愉悦に酔うことができるのです。

真面目な役柄を淡々と歌ったとしても、例えばベル・カントや仏もののように声質にあった演目であれば十分に活躍できる極上の歌をうたえたことは想像に難くありませんが、Malibranが出している名演集(毎度ながらなんと意欲的な仕事!)に接すれば確信に変わります。正確な年代まではわからないのですが、まさか20世紀の中庸に『清教徒』(V.ベッリーニ)の悪名高いハイFを舞台で歌ったテノールがいるとは!それもどうにかこうにか苦労して出しましたという代物ではなく、自信に溢れた声を響かせているのですから驚きを隠せません。また仏もののシリアスな演目としては繰返しになりますが、スタジオで遺しているジェラルドが外せないでしょう。爽やかで秋晴れのような澄んだ明るい響きには、地上の重さを感じないと言いますか、生々しい現実とどこか乖離したようなところがあって、この夢見がちで生活感のない人物と見事に合致しています。

とは言えそのあまりにも明るく、軽い、現実味の薄い声と抜群のコメディ・センスが、ビュルルを喜劇の人として聴衆に印象づけているのもまた事実でしょう。プラッソンはオッフェンバックの3つの演目で彼を起用していますが、いずれも主役ではなく表情豊かな脇役に据えているのは、その尖った個性が最も光る場を計算した見識と言えると思います。ビュルル自身もまた、自分に求められていることがわかっているようです。上述のとおり彼はどうすれば自然さを維持できるかを弁えている歌手なのですが、プリュトン=アリステ(J.オッフェンバック『地獄のオルフェ』)では敢えてはっきりと流れをぶった斬る高音で歌うことでエキセントリックな効果を上げています。こうしたビュルルの美質が結集するのは、高音の強さをコミカルな人物の造形にそのまま繋げられるような役です。残念ながらどちらも手に入れづらいライヴですが、トニオ(G.ドニゼッティ『連隊の娘』)とシャプルー(A.アダン『ロンジュモーの御者』)を聴けば、彼の最良の時を知ることができるでしょう。

<アキレス腱>
これも上述しましたが頭声に近いと思われる高音域は、現代のロッシーニ・テナーたちの力強い胸声による超高音に馴染んだ耳にはちょっと異質と言いますか、古くささを感じるものかもしれません(それでも意外なぐらいしっかり声量はあるのですが)。ゲッダも『真珠採り』(G.ビゼー)のアリアなどで近いことをやっていますし、往年のフェルッチョ・タリアヴィーニのソット・ヴォーチェも近い世界のように思いますから、このあたりに違和感を持つ向きだと辛いでしょう。
あるいはヒロイックで荒事っぽい力感をテノールに求める方の好みにも合わないだろうと推測しますが、そうした御仁にとってはおそらくは彼のレパートリーは興味の範疇外でしょうからこの点はそこまで心配いらないかもしれません。

<音源紹介>
・トニオ(G.ドニゼッティ『連隊の娘』)
エチュアン指揮/メスプレ、フォンダリー、フレモー、ル=ブリ共演/パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団/1979年録音
>この演目はCDでもDVDでも名盤と呼ばれる音源が少なからず存在しますが、僕個人はこの録音を随一に推したいです。序曲に歪みもあって音質がいいとはとても言えないものの、ドニゼッティらしい旋律の愉悦と仏ものらしい洒脱さ、そしてライヴの熱気が一体となった快演です。トニオは高音を得意とするテノールの憧れとも言える一方で、見せ場のアリアで連発されるハイCに加えて原典版は仏語なので、ただベル・カントを歌えるというだけではこなせない難役ですが、これら全てが強みであり、しかもコメディアンとしての才能のあるビュルルにとっては、自身の魅力をこれ以上なくアピールできる役と言えるわけです。その地に足がついていないつっころばしぶりは特に1幕前半で発揮されています。例えばマリーの歌う連隊の歌の合いの手の部分などは力量のある歌手がやればやるほど勇ましくなってトニオがスベってる感じが出なくなってしまうのですが、彼は声こそしっかり鳴りつつどこか頼りなげで世間知らずの坊やらしく、スュルピスたちに一喝されてしゅんとなるのも違和感がありません。当然ながらアリアも文句なし!ハイC8連発(多くの場合最後もあげるので9ですね)を終始スリリングな響きで魅了する名テノールはたくさんいますが、見せ場としての緊張感を保ちながらもこれだけリラックスした音で鳴らすことができる人は他に思いつきません。まさに、天にも昇る心地という感じです。2幕ではメスプレやフォンダリートのわちゃわちゃしたアンサンブルも楽しいですが、終盤のカヴァティーナの真摯な歌い口が1番の聴きどころでしょう。シリアスもしっかり行けるところがこうした部分で活きてきます。共演のメスプレ、フォンダリー、ル=ブリともに彼らの最上の歌唱、特にメスプレはすごいです。残念ながら手に入れるのがなかなか難しいのですがblog更新日現在でyoutubeで聴くことができますので、未聴の方にはぜひ一度触れて欲しいです。

・ジェラルド(C.P.L.ドリーブ『ラクメ』)
ロンバール指揮/メスプレ、ソワイエ、ミレ共演/パリ・オペラ・コミック管弦楽団&合唱団/1970年録音
>ビュルルの藝に触れることができるスタジオ録音として最も手に入れやすいものあり、決して多いとは言えない本作の全曲録音の中でも随一のものだと思っています。ジェラルドという男はある意味では最もテノールらしい、戀に没頭するがあまり破滅に突き進んでいく、あらすじだけ読むと共感を呼ぶというよりは苛立ちすら感じさせるような人物なのですが、これだけ耽美な歌声を聴かせられるとぐうの音も出ません。その淡くて儚い、蠱惑的な甘さを持った歌い口は、現実のラクメや彼女を取り巻く状況が全く見えておらず、彼女の棲む森が桃源郷か何かだと思い込んでいる彼をリアルに描写するばかりでなく、聴き手もその幸せに巻き込んでしまうような危うさもまとっています。残念ながら主役としての録音が多くない彼ですが、この役ばかりは当時の他の歌手に換えることはできなかったのでしょう。ここでもメスプレは絶好調でこれ以上ない名唱、ソワイエも苦々しい役を軽やかな美声と歌い口でくるんだ得難いサポート、ロンバールの華やかな音楽も夢想的なこの作品を引き立てます。

・シャプルー(A.アダン『ロンジュモーの御者』)
ブラロー指揮/サニアル、J.ドゥセ、ブリュン共演/マルセイユ歌劇場管弦楽団&合唱団/録音年不明
>彼の録音としては最も最近流通するようになったものだと思います。同時期に出たスピアーズ主演のDVDもバカらしくて楽しいのですが、力強い暗めの音色がこの中身のない軽やかな音楽といまひとつ相性が良くないのと、ちょっとその他のメンバー含めて「おバカをやってる」感じが拭えないので個人的にはこちらの方が好みです(スピアーズ自体は現役のテノールとしては最高だと思うのですが)。こちらは音しかない上に必ずしも音質良好とは言いかねるという大きなハンディキャップがあるにもかかわらず、「この人たちおバカだ」と確信させるような裏表のない潔さがあります。ゲッダもアリア集で残した1幕の御者の歌はハイDまで記譜されていて、この軽佻な作品にはそぐわないぐらい難しい曲なのですが、この超高音がそのままシャプルーのオペラ歌手としての売りとなるものであり、そのエキセントリックな人物設定そのものが笑いを誘うというところまでを、ビュルルはいささかも衒いのない清々しい歌で描いてしまうのです。これを聴いてしまうと彼以上の歌が想像できないような仮称とも言えるでしょう。共演ではここでしか聴いたことのないサニアルというソプラノが、メスプレのような可憐さと外連味を感じさせる歌でお見事です。

・プリュトン=アリステ(J.オッフェンバック『地獄のオルフェ』)
プラッソン指揮/メスプレ、セネシャル、トランポン、ロード、ベルビエ、コマン、ラフォン、マラブレラ共演/トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団&合唱団/1978年録音
>この作品のために書かれた音楽が全て収められているのだそうで、聴いたことのない旋律がたくさん登場するのは楽しいものの、プラッソン先生のテンポ設定もあってちょっと間延びした感じもある録音です。メスプレやトランポンもおっとり気味(2人とも大好きな歌手なのですが!)な中で、このドタバタ劇らしいスパイシーさを与えている人物こそ我らがビュルルで、黒幕であるプリュトンをかなり尖った歌と語りで演じています。既に述べましたがまず登場のアリステの歌からして、優雅で気持ちのいい歌だなあと聴いていると突然最後のフレーズを1オクターヴ上げて歌い出し(!)、そのまま歌い切ります(!!)。最初に聴いたときには、本当に椅子から転げ落ちそうになりました。かと思えば語りの地声は意外と低くドスが効いていて、悪役笑いなどルーニー・テューンズの世界から現れたかのような堂に行ったものです。アンサンブルでもエッジの効いた、しかし仏ものらしい物腰の柔らかさは決して失わないバランス感覚の鋭さで、映像も含めてこの役としては最高の歌唱だと思っています。共演ではいずれも以前記事にしていますけれども、やはりセネシャルのコメディアンぶりとロードの立派な世論が忘れがたいですね。

・ポール殿下(J.オッフェンバック『ジェロルスタン女大公殿下』)
プラッソン指揮/ヴァンゾ、クレスパン、マッサール、メローニ、ルー、メスプレ共演/トゥールーズ・キャピトール管弦楽団&合唱団/1976年録音
>『オルフェ』とは逆にこちらは結構カットが入っているようで、ミンコフスキ盤ではハイライトの一つと言っていい面白おかしさを見せている鐘のアンサンブルなどがごっそりカットされていますが、プラッソンの音楽運びそのものはこちらの方が闊達です。ややクレイジーな笑いを作り上げていたプリュトンに対して、ここでのポール殿下はまさしくつっころばし。優美な品こそあるけれどマッチョさや堅実さからは程遠く、軍人好きの女大公殿下のお眼鏡にはとても叶わないだろうなという情けなさを全体から発していて笑えます。お坊ちゃんらしいクープレももちろん楽しいものの、最高に楽しいのはカヴァリエ・バリトンらしい高貴さと気負いのあるマッサールと陰気なしたり顔を気取る実務家っぽいメローニとのチグハグでスピード感のある3重唱!フリッツ憎しだけで結託するおバカさが音だけでも伝わってきます。

・メネラオス(J.オッフェンバック『美しきエレーヌ』)
プラッソン指揮/ノーマン、エイラー、バキエ、ラフォン、アリオ=リュガ共演/トゥールーズ・キャピトール管弦楽団&合唱団/1985年録音
>プラッソンとのオッフェンバックの仕事でもう一つ。「エレーヌの夫」であることしか取り柄のないことを恥ずかしげもなく自己紹介してしまうおとぼけな王様を演じるには、彼の明るくすっとぼけた響きはうってつけですね。科白回しの巧みさはこちらでもしっかり発揮されていて、浮気の現場を発見して激怒するところなど、この人声優もやれたんじゃないだろうかという暴れっぷりです。そしてこちらでもバキエ、ラフォンとの3重唱が愉しい!この曲は『ギョーム・テル』(G.ロッシーニ)のパロディな訳ですが、ビュルルは引用されているアルノールの嘆きの旋律を原曲同様の悲壮な色彩で歌っていて、内容のバカバカしさとのギャップの笑いを仕込んでいます。バキエは恐らくテルを歌ったバリトンで唯一このアガメムノンも遺している人だと思うのですが、ついついあのシリアスそのものの歌唱を思い浮かべてニヤニヤしてしまいますし、仏語の節回しや言葉捌きがとにかくうまくて舌を巻きます。ラフォンもまたここでは縦横無尽の大活躍で、この人は喜劇の人なんだなと認識を新たにしました。予想外の配役に驚かされるノーマンやアリオ=リュガ含め、充実しています。

・漁夫(G.ロッシーニ『ギョーム・テル(ウィリアム・テル)』)
ガルデッリ指揮/バキエ、ゲッダ、カバリエ、コヴァーチ、メスプレ、ハウウェル共演/ロイヤルフィル管弦楽団&アンブロジアンオペラ合唱団/1973年録音
>そしてパロディ元の作品にも、彼は登場しています笑。ビュルルほどの声と技術があればアルノールも十分歌えたはずですが、父を殺した圧政者を憎みつつもハプスブルクの娘との戀に悩むという役柄があまりにもヒーロー然とし過ぎているせいか、この小さな役しか遺していないようです(次に触れる名唱集ではライヴの歌唱が入っています)。けれども、小さくてもむしろこの役の方が確かに彼の個性に合致しています。冒頭に歌うアリアは戀に焦がれつつも優しく楽しげで、祖国を憂うテルを苛立たせるには十分な暢気さがあります。ビュルルの軽やかでのびのびとした声とやわらかな歌い口がこの暢気さに合わないはずもなく、現実の危機を顧みない感じを一層引き立てているわけです。僅かな出番しかないのがもったいない気もしますが、適材適所といえる配役と思います。実力者で固められた主役たちについてはそれぞれの記事で述べていますが、ここではぜひバキエを上述のアガメムノンと聴き比べてほしいということだけは述べておきましょう。

・リシャール、ギヨー(A.E.M.グレトリ『リシャール獅子心王』)2023.5.28追記
ドノー指揮/トランポン、メスプレ、ヴァン=ゴール、ストルノット共演/ベルギー放送室内管弦楽団&I.M.E.P合唱団/1978年録音
>モーツァルトと同世代だったりそれより前の作曲家への関心が相対的に低いこともあって、グレトリも聴いたことがなかったのですがこの録音に触れてその素晴らしさに感銘を受けました。明朗な旋律と快活なリズムで実に気持ちのいい作品ですし、古いながらもこの演奏は変に重たくなることなくその魅力を伝えています。ここでのビュルルは題名役ながら救出オペラということもあって出番の少ないリシャールと、アンサンブルで僅かに登場するギヨーの2役を演じています。いずれも彼らしいリラックスした歌い口の良さが味わえますが、リシャールは背筋の伸びたキリッとした歌で堂々たる王様ぶり、対してギヨーはキャラクターテナー的な声色と表現でコミカルにという描き分けがお見事です(最初ギヨーはやたらうまい別のテノールだと思ってしまったぐらいです笑)。まとまった出番としてはやはりアリアが聴きごたえがありますが、トランポンをはじめ共演が上手いこともあってアンサンブルが楽しいですね。

・ジョルジュ・ブラウン(F.A.ボワエルデュー『白衣の婦人』)
・アルトゥーロ・タルボ(V.ベッリーニ『清教徒』)
詳細不明
>Malibranが出している名唱集は、いつものことながら詳細不明なライヴの切り貼りで必ずしも聴きやすい音ではないとは言え、全てのテノール・ファンにオススメしたい痺れる内容です。CD2枚にわたってラモーからアダンにいたるまでかなり色々な役柄を入れているのですが、特にオススメしたいのはこの2つ(いやむしろMalibranさん、これらの全曲を出してはくれまいか)。ジョルジュは強い高音を響かせているゲッダやブレイクを前にしても遜色がないどころか、彼らを凌駕する切れ味を持っている上に、セネシャルが聴かせるような優雅さや余裕さえもまとった超人的な歌唱。小気味の良い登場のクープレも胸のすく名唱ですが、やはり白衣の婦人を待つ大アリアが聴きごたえ満点、拍手がうるさいのだけが惜しいです。アルトゥーロについては何故かトラック分けされていませんが、主な出番がまとめてドカンと入っているので聴きどころは押さえられます(けどこれだけあるなら全曲が欲しいです、Malibranさん!)。彼の持ち味を考えれば想像できるとおりの、いやあるいは想像以上の力みのない、気持ちのいいベル・カントでうっとりさせられます。高音を売りにしている歌手でもえいやっと出しがちなハイC以上の音を、こともなげにスッと出していく技術の高さにはただただ頭が下がります。あのハイFをも滑らかに決めているのには、本当にびっくりさせられました(思わずスピーカーを二度見してしまいました)。ビュルルの真の実力を知ることのできる名盤です。
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