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Don Basilio, o il finto Signor

ドン・バジリオ、または偽りの殿様

オペラなひと♪千夜一夜 ~第百三十二夜/僕はなにを聴いていたのか〜

年を明けてから一気に本職が忙しくなりました。なかなかゆっくり音楽を聴く時間も取れず困ったものです。しかもただでさえバタバタしているのに、手持ち音源リストの作成に手をつけ始めたがために、実に8ヶ月ぶりの更新になってしまいました。

なんで今更音源リストなどを作り始めたのかといえば、結局のところここでの記事を書くためです。いつも手持ち音源から主役となる歌手の音盤をかき集める作業から始めるのですが、このごろは量の面でも記憶力の面でも流石に限界になってきました。記事を書いてしまってから「あ!こんなの持ってた!」とか「これを載せていない!」と言ったことも少なからずあります。また、若い頃に触れた音源には自分の耳の未熟さで味わえていないものも多く、こんなに良いものがなぜわからなかったのかと恥ずかしい思いをすることもしばしばなのです。
せめて自分の手許にあるものぐらいはもう少し網羅的に頭に入れておきたいと思って始めはしたものの、ご推察に難くないと思いますがまあこれが大変で少なく見積もっても2年はかかりそうだなという気がしています。
そんなこんなで随分間が空いてしまったわけです。

ChristaLudwig.jpg
Ortrud

クリスタ・ルートヴィヒ(クリスタ・ルートヴィッヒ)
(Christa Ludwig)
1928〜2021
Mezzo Soprano
Germany

今夜クリスタ・ルートヴィヒを取り上げることにしたのは、そんな作業をしていたことと深く関わっています。というよりも、改めて捉え直したいという気持ちを持った、という方が近いかもしれません。

20世紀最大のメゾ・ソプラノの1人である彼女は、ご承知のとおり残念ながら昨年亡くなりました。コロナ禍中であったにもかかわらず小さからぬ話題になっていたようです。クラシックの歌手、それも海外の歌手の訃報が取り上げられることが決して多くはない日本ですらニュースになっていましたし、Twitterでも多くの追悼コメントが流れていました。当然ながら僕自身も記事を書こうとしたのですが、しばらく悩んだ末にその時は文字にすることができないと思ったのです。当時を振り返ると、彼女の本領と思える歌唱を見出せていないと感じたことが一番大きかったのではないかという気がします。そしてあの頃の僕はその状況を、僕自身がまだ彼女の膨大な録音にそれほど触れられていないこと、特に彼女の藝術の本丸であるはずのモーツァルトやR.シュトラウス、ヴァーグナーの開拓が進められていないことに依るものだろうと理解しました。いずれもう少し独ものを聴くことができれば変わるだろう、残念だし心残りではあるけれど今はまだその時ではない、十分ではない、と。

最初に述べたようにリスト作りに手をつけたのはその後しばらく経ってからです。進めながら気がついて驚くと同時にショックでもあったのが、自分がこれまでかなり多くの、幅広いルートヴィヒの歌唱に接していたことです。先に挙げたモーツァルト、シュトラウス、ヴァーグナーはもちろんのこと、ヴェルディ、ビゼー、サン=サーンス、フンパーディンク、オッフェンバックにバーンスタイン……もちろん彼女の録音全体から見れば氷山の一角に過ぎないものではありますが、一方で知らない/聴いていないとは言えないぐらいの量です。これだけ接しているにもかかわらずはっきりとした印象がないとは、いったい何事だろうと頭を抱えつつ、持っていた音源を片っ端からあたっていきました。じきにわかってきたことは2つあります。1つは特にオペラを聴き始めた頃の自分が書評に左右され過ぎて真っ直ぐに聴けていなかったこと、もう1つは僕自身が「これはいいはずだ」と思って聴き始めた演奏での彼女が、必ずしも僕にとってベストに聴こえていなかったということです。僕は何を聴いていたのかと、しばし驚くとともに係もしたのですが、同時に自分なりにはっきり死とした像を結び始めたルートヴィヒの魅力を、書きたい、書かなければという思いを強くしたのも事実で、新しい音源も確保しながら、ようやく今夜のご紹介にいたります。
うまく書けると、いいのですが。

<演唱の魅力>
この連載のタイトルがはっきりと物語るとおり、僕自身はオペラファンでしかなくてクラシック音楽や声楽には疎いのですが、母はむしろ声楽愛好家で、実家ではよくバッハの宗教音楽やシューベルトの歌曲もかかっていました。そんな環境でしたから、ルートヴィヒの名はオペラの人というよりも声楽の人として覚えていたように思います。彼女の歌は静謐な美しさと分かち難く結びつき、「派手ではないけれど、端正で、実直で、凛とした美しさのある歌い手」というイメージを、気がつけば押し付けていたのかもしれません。また、色々な方の感想を見る範囲の当て推量でしかありませんが、同じようなイメージが先行してしまっている人は、存外少なくもない気もします。

まず今回縦にしっかり聴いてみようと思ったのは、自分がごく初期に手を伸ばしてみたような演奏にもう一度当たることで、当時は気づかなかった彼女の魅力に気づくことができるのではないかと考えたからです。ところが意外なことにこれがあまりピンときません。言葉にしづらいのですが求心力に欠けると言うか、パンチが足りないと言うか……そもそも僕は低音が好きでオペラを聴いているので、渋い歌手に魅力を感じないわけでもありません。これはひょっとすると僕はルートヴィヒと相性が悪いのでは?と思い始めたところで、印象のガラッと変わる音源に出会いました。『キャンディード』の老婆役−−これを彼女の「当たり役」という人は、あまりいないでしょう。バーンスタインが英語で書いたオペレッタ(オペラという人も、ミュージカルという人もいる)のコメディ・リリーフ、しかも見せ場の歌は思いっきりタンゴなどという役を、ルートヴィヒが歌っているということ自体そもそも意外な印象を持つかもしれません。ところがどっこい、このタンゴが抜群に楽しい(笑)。この録音の時点では尊敬される老大家であった彼女が、悪ふざけとしか思えないような巻き舌英語で、嘘か本当かわからない怪しい身の上話を歌い上げるエキセントリックさに打たれた僕は、虚心に帰ってルートヴィヒで強く記憶に残っている役柄を探りました。それは独語によるカルメン(G.ビゼー『カルメン』)であり、デリラ(C.サン=サーンス『サムソンとデリラ』)であり魔女(E.フンパーディンク『ヘンゼルとグレーテル』)であって、僕が固定観念で「よいはずだ」と信じてかかっていた作品ではなかったのです。

それからはむしろ、ルートヴィヒはうんと身近になりました。僕にとっての彼女の魅力は淑やかさや実直さというよりも、若々しい力強さだとか勢い、切れ味に近いところなのだと今は思っています。狂乱といってもいいような激情に駆られた瞬間や、若さに満ち満ちた少年など、エネルギーの高い役柄、高い瞬間で聴かせる煌めきは、他の追随を許さないものです。そして、そうと定めてしまうと不思議なもので、記事を書くために新しく入手した音源でも外すことは減ったように思います。オルトルート(R.ヴァーグナー『ローエングリン』)、エボリ公女(G.F.F.ヴェルディ『ドン・カルロ』)、ケルビーノ(W.A.モーツァルト)……とりわけオルトルートは格別でした。一周回って結局ヴァーグナーなのかい、と思われるかもしれませが、ここでの復讐に駆られた魔女の異様な迫力に総毛立たない人がいるでしょうか。もし以前の私のように、ルートヴィヒが四角四面な歌い手だと思われている方だとしたら、些かギョッとするかもしれません。しかしだからと言って、「グロテスク」の一言に切り捨てることはできないでしょう。ルートヴィヒの持つカリスマこそが、彼女のオルトルートの魔法の源なのですから。

<アキレス腱>
メゾの歌手の多くがソプラノの役に憧れるものなのだそうで、ルートヴィヒもまた、ソプラノの諸役に挑戦しています。そうした役柄ではバッハを歌うときのような敬虔で実直な彼女が登場してくるように思うのですが、別の魅力になっているかというと……僕の感触としては成功しているとは、必ずしも言い難いように思います。華がない、というより欲しい音色で聴こえてこない、あるいは淡白すぎる印象という方が近いかもしれません。役柄が浮かび上がってこないのです。
やはり彼女は個性の強いメゾの役柄で聴きたいなあというのが、私見です。

<音源紹介>
・オルトルート(R.ヴァーグナー『ローエングリン』)
ベーム指揮/J. トーマス、ワトソン、ベリー、タルヴェラ、ヴェヒター共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1965年録音
>少なからず聴いていたはずなのに、「これだ!」という歌唱と出逢ったことで曲の理解がうんと進むという経験は、オペラ聴きならば誰しもあるのではないかと思います。今回の記事を書くにあたって仕入れたこの音盤での彼女のオルトルートは、僕にとってまさにそういった経験でした。ヴァーグナーの大家であるヴァルナイや大好きなゴールの歌唱にそそられなかったわけではないものの、脳髄に響くようルートヴィヒの魔女の前では霞んでしまいます。この音盤を聴いて2幕の短い独唱に衝撃を受けない人はいないでしょう。むせ返るようなヴァーグナーの毒に、ヴィーンの聴衆が音楽を中断するほどの拍手を送っているのももっともなことです。けれども本当にすごいのは一場面でのスリルにとどまらないことで、このあとエルザの大聖堂への入場に割っているところや、終幕ローエングリンに食ってかかるところではほとんど狂気と言ってもいいような壮絶さを見せています。この作品の裏の主役は虐げられてきたオルトルートだったのではないかと思わされるほどです。これだけ彼女が強烈だとほとんど独り舞台になってもおかしくないのですが、共演者全員高水準で絶妙なパワーバランスです。とりわけトーマスがきちんと表の主役たる力強いローエングリンを歌っているのが素晴らしい。そしてもちろん、この燃え盛るような音楽世界を作り出しているベームには賛辞を惜しみません。

・ヴェーヌス(R.ヴァーグナー『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』)
フォン=カラヤン指揮/バイラー、ブラウエンステイン、ヴェヒター、フリック、クメント、ヴェルター共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1963年録音
>ヴァーグナーからはじめましたので続けていきましょう。と言いつつ初めて聴いた時から今にいたるまで、この演奏全体はどうもパッとしないというのが正直な感想ではあります。それでも敢えてここで紹介せざるを得ないほどの気を、独りルートヴィヒだけが吐いています。開幕早々これだけ男に追い縋る役も他にはないと思いますけれども、不本意な別れを前にした悲しみと怒りに揺れる心を極めて人間的に表現しながら、女神としての威厳もまた決して失っていません。愛情を裏切られた恨みから祟りを齎しているような強烈さがあるのです。彼女はスタジオ録音でもこの役を遺しており十分立派な歌なのですが、ここまでの危機迫る迫力は有していません。オペラ歌手としての実力を、舞台でこそ最大限発揮するタイプの人だったのだろうと感じます。これだけのヴェーヌスを引き剥がしていくだけの覇気がバイラーに感じられないのが非常に残念です(こちらはむしろスタジオ録音でのコロの圧倒的な輝かしさが忘れられません)。それでもこの音盤のヴェーヌスベルクの場面は必聴だと思います。

・オクタヴィアン(R.シュトラウス『薔薇の騎士』)
フォン=カラヤン指揮/シュヴァルツコップフ、エーデルマン、シュティッヒ=ランダル、ヴェヒター、ゲッダ、ヴェリッチ、キューエン共演/フィルハーモニア管弦楽団&合唱団/1956年録音
>名盤として“履修”し、いっときその評価に疑問を抱き、今また改めてその魅力に酔っています。この後ご紹介する作品でもルートヴィヒは数々のズボン役を演じていますが、それらと較べてもやや女性的なテイストでこのオクタヴィアンを演じているように個人的には感じます。このバランスの妙が重要に思えていて、これによって冒頭の閨で迎えた朝やゾフィーと対面した場面、そして最も重要な場面である3幕の3重唱といった重要な音楽の陶然たる官能性がいっそう高められているようです。一転してマリアンデルとしてオックス男爵を手玉にとる3幕でのいたずらっ子らしいおふざけもまた微笑ましい……こうしたシュトラウスにこそ備わっている味わいを引き出しているという点で、彼女のオクタヴィアンは稀有なものだと思うのです。いうまでもなく共演も優れていますが、シュヴァルツコップフの濃密な言葉の扱い、エーデルマンが聴かせる絶妙な高貴と下品のブレンドがやはりお見事(実は一時期その魅力がよくわからなくなったのがこの2人なのですが、今はこれ以上のものはないように思えます)。フォン=カラヤンの卓越した手腕については言わずもがなのものでしょう。

・ケルビーノ(W.A.モーツァルト『フィガロの結婚』)
ベーム指揮/フィッシャー=ディースカウ、シュヴァルツコップフ、クンツ、ゼーフリート、シュテルン、S.ヴァーグナー、ディッキー、マイクト共演/WPO&ヴィーン国立歌劇場合唱団/1957年録音
>これを言うといろいろな人から怒られそうなのですが、ルートヴィヒになかなかピンとくることができなかった原因が、実はモーツァルトです。名盤の誉れ高いベームとのコジは残念ながら彼女のみならず音盤そのものが全く僕の感性に引っ掛からず、ギャウロフの圧倒的な活躍で大好きなクレンペラーのDGでもどうにもおしとやかすぎてエルヴィーラの尖ったキャラクターにハマっているように思えませんし、上手いとは言っても流石に第2の侍女で印象をガラッと変えるのは難しい……そんな僕にとって光明であったのがケルビーノでした。シュトラウスの作曲の経緯もあってオクタヴィアンと重なる部分が多い役ではあるのですが、明確に異なる人物像に仕上げています。もう少し歳下で、分別よりも感情が先に立つやんちゃ盛り、けれども誰からも愛される紅顔の美少年……バジリオの下世話な誹りのニュアンスを斥けて、まさしくCherbin d’amoreと思わず口をついて出てしまうような溌溂とした少年を、ルートヴィヒは作り上げています。わけても2幕のアリアが圧巻です。彼女以外がこう歌ったら、指揮者のテンポからちょっともたついていると感じてしまうでしょうが、胸いっぱいに膨らんでいる甘やかで弾んだ戀の想いがひしひしと伝わってきます。

・シッラ(H.プフィッツナー『パレストリーナ』)
ヘーガー指揮/ヴンダーリッヒ、フリック、ベリー、シュトルツェ、クレッペル、ヴィーナー、ヴェルター、クライン、カーンズ、ウンガー、ユリナッチ、レッセル=メイダン、ケルツェ、ポップ、ヤノヴィッツ共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1964年録音
>もう1人、少年を。うってかわってこのプフィッツナーの大作は色戀とはかけ離れた藝術をテーマとした作品で、オクタヴィアンやケルビーノの出る幕はありません。けれども堅苦しさ一辺倒ではなくて、活き活きとしたやりとりや風刺をはらんだ笑いの要素が織り込まれており、シッラもまたそうした存在として登場します。この少年は夢を抱き、新しい世界に焦がれているからこそ、戀に燃える少年たちとは違う思い上がり、若さゆえに満ちている無邪気で傲慢な自信を持っているのです。ここでのルートヴィヒの純真な声はまさにうってつけと思います。そう、ここでも彼女は全く異なる少年の声になっているのです。なんと凛々しく、またあどけない響きを備えていることでしょう!あたかも本当に思春期のようです。そしてシッラの活力こそが、老パレストリーナが1幕で痛感する衰えと3幕で与える赦しにつながっていきますから、決して長いとは言えない出番であっても彼女が歌うことに大きな意味があるのです。こうして少年3役に着目すると彼女の舞台人としての卓越に気付かされますね。

・魔女(E.フンパーディンク『ヘンゼルとグレーテル』)
アイヒホルン指揮/ドナート、モッフォ、フィッシャー=ディースカウ、ベルトルト、オジェー、ポップ共演/ミュンヘン放送管弦楽団&テルツ少年合唱団/1971年録音
>バーンスタインの老婆で聴きとれたような彼女のおちゃめさ、コメディ・センスを突き詰めるところまで突き詰めるとこの役になるでしょう。デイヴィス指揮の演奏でも大活躍なのですが、更にいい意味での悪ふざけが際立っているように思い、こちらを推しました。ここまでやるかという“イヒヒヒ”笑いやら極端なRの巻舌、味見でのムニャムニャなど笑えるところは枚挙にいとまがありません。この役での悪ふざけと言えばセルフ・パロディ的な怪演を繰り広げたシュライアーを思い出しますが、エキセントリック差ではやや譲ったとしても、女声で演じることによって生み出すことのできる自然さがルートヴィヒにとっては大きなプラスになります(そしてそれでも十分すぎるほどエキセントリックでもあります)。彼女のような優れたメゾが歌う低音でのドス、高音での切れ味はこの役が道化の要素を含みつつも悍ましい悪者であることも思い出させ、オルトルートにも通ずるものを持っていることを教えてくれるのです。豊麗な響き、さりとて重くならない音楽を作るアイヒホルンのセンスの良さは抜群ですし、共演もベストでしょう。

・カルメン(G.ビゼー『カルメン』)
シュタイン指揮/ショック、プライ、ムゼリー、レブロフ共演/BPO、ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団&シェーネベルク少年合唱団/1961年録音
>今となっては後付けになってしまうのですが、初めてルートヴィヒの歌唱を聴いて圧倒されたのはカルメンだったように思います。白状しますと視聴前には、彼女の独的な声質はあまりにも生真面目すぎて異質だろうなどと考えていたのですが、そんな予想は1幕を聴き終える頃にはあっさりと覆されていました。独語で歌われているにもかかわらず、南欧の明るさとロマのエキゾティシズムとがはっきりとあって、蠱惑的なファム・ファタルそのものだったのです。何度聴いてもそのみずみずしく若さに溢れた声と奔放な歌い口(しばしば挟まれる高音の刺激たるや!)には魅せられますし、言語の壁を越えたカルメンの名演であることは疑いようもありません。あんまり知らない人を含めてキャストのレベルも高いので、5重唱の愉しさは格別です。陽気なプライのエスカミーリョも聴きもの。

・デリラ(C.サン=サーンス『サムソンとデリラ』)
パタネ指揮/キング、ヴァイクル、マルタ、コーゲル共演/ミュンヘン放送管弦楽団&バイエルン放送合唱団/1973年録音
>今度は仏ものを続けましょう。主役3人だけ見るとヴァーグナーをやるつもりだったはずが何か手違いがあったのか?という気もすれば、いわゆる珍盤の部類ではないかなどと邪推もしてしまいますけれども、とんでもない!数ある本作の音源の中でも屈指の名盤だと思います。ルートヴィヒは上述のカルメンとは違って自由な歌い崩しなどを避けた抑えた歌唱ながら、そこには収まりきらない情念(それは例えば戀でもあり、復讐でもあり)が見え隠れします。同じように“運命の女”であったとしてもデリラの野心はうちに秘めたものであって、カルメンと一緒にはできないと訴えかけているようでもあります。ある意味でちょっと知能犯なデリラとも言えるかも知れません。尋常一様では無いキングの神々しさと生臭坊主らしい妖しさのあるヴァイクルが拮抗しているのも嬉しいところです(ここの三つ巴ができてこそのこの演目ですから)。

・母(J.オッフェンバック『ホフマン物語』)
小澤指揮/ドミンゴ、グルベロヴァー、エーダー、シュミット、バキエ、モリス、ディアス、セネシャル、シュタム共演/仏国立管弦楽団&仏放送合唱団/1986〜1989年録音
>もう一つ仏ものをと考えて引いてきましたが、いやしかし彼女のレパートリーの広さと言いますか、大成したあとでも小さな役で仕事をしているのには頭が下がります。当然ですがアントニアの母は筋書きにおいても、この作品でも最も盛り上がる重唱を歌うという意味においても重要な役柄ですが、それにしてもルートヴィヒほどの大物が歌っている例は少ないでしょう。還暦前後だったはずですが声の力は健在で、アントニアに呼びかける場面の神々しさは群を抜いています。第一声だけで超常の存在、この世ならぬ人なのです。一緒に歌うグルベロヴァーやモリスはこの頃が一番声に脂の乗っていた時期ではないかと思いますが、衰えによる聴き劣りなど一切感じさせません。

・エボリ公女(G.F.F.ヴェルディ『ドン・カルロ』)
クロブチャール指揮/ギャウロフ、ドミンゴ、G. ジョーンズ、パスカリス、ホッター、ツェドニク共演/WPO&ヴィーン国立歌劇場合唱団/1967年録音
>数は多くないもののヴェルディも歌っています。彼女の土俵と違う流儀の音楽ではあるのでヴェールの歌など技術的に苦労しているところもあるのですが、これまで見てきたような情熱的な麗人が似合う彼女にとってエボリは適性のある役だと思いますし、こうして聴くことができるのは喜ばしい限りです。当然ながら美貌のアリアも緊迫感の有る名唱ですけれども、2幕でカルロたちに啖呵を切る場面の嫉妬に狂う様が鬼気迫る表現で息を呑みます。「拒絶を受けて追う女」としては上述のヴェーヌスの影も見えるといっていいかも知れません。絶好調で豊かな声をたっぷり聴かせるドミンゴと重厚で武人的なパスカリスとのバランスもよく、前半のクライマックスと言えるでしょう。全体に演奏そのものは素晴らしいのですが、パスカリスやギャウロフの出番の肝心なところに欠損や乱れがあるのが非常に残念です。

・クイックリー夫人(G.F.F.ヴェルディ『ファルスタッフ』)
フォン=カラヤン指揮/タッデイ、パネライ、カバイヴァンスカ、ペリー、アライサ、シュミット、デ=パルマ、ツェドニク、ダヴィア共演/WPO&ウィーン国立歌劇場合唱団/1980年録音
>彼女のヴェルディというとこの役のイメージという方もいらっしゃるかもしれません。まとまったアリアがあるわけではないけれど強烈なキャラクターを示してほしいこの役では、彼女の異質性とコメディのうまさがプラスに働くのは間違いないでしょう。あの魔女の底意地の悪さを活かしつつ陽気さを際立たせた感じとも言える気はしますが、ファルスタッフの元に使いとして来る部分ではそこはかとない不気味さも漂わせています。そして、これは共演陣にも言えますがアンサンブルのうまさ!老巨匠の作り上げた複雑で緻密な重唱の旨味を存分に楽しめます。

・アンジェリーナ(G.ロッシーニ『チェネレントラ』)
エレーデ指揮/クメント、デンヒ、ベリー、ヴェルター、ルーズ、D. ヘルマン共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1959年録音
>これははっきりと申し上げて珍盤だろうなと思います。独語なのはもちろんとして、本来の作品の3分の1ほどバッサリカットされていますし、序曲が終わってすぐアリドーロが謎のアリア(出典をご存知の方がいらっしゃれば是非教えていただきたいです)を歌ったり、舞踏会の場面でバレエ音楽が挿入されたりと、通してみても『チェネレントラ』を聴いた感じはあまりしません。が、しかし、この演奏はそういった留保があったとしても歌と声が立派で聴く楽しみがあるのです。「立派」というと重たすぎるのでは?という懸念も出てこようかと思います。実際ルートヴィヒにしても聴くことのできるアンジェリーナとしては最も重い部類の声ではありますが、娘らしい明るさも兼ね備えていて、変に隈取りにならず愉悦も感じられます。秀逸なのはアリア・フィナーレで、それこそモーツァルトの作品を思わせる軽やかで小気味よいコロラテューラを披露しており、若い頃の彼女はこんな歌までうたえたのかと畏敬の念を新たにします。

・アダルジーザ(V.ベッリーニ『ノルマ』)
セラフィン指揮/カラス、コレッリ、ザッカリア共演/ミラノ・スカラ座管弦楽団&合唱団/1960年録音
>カラスがスタジオ録音で遺した2つの『ノルマ』は、残念ながらいずれも彼女のピークの記録ではないと言われ、また共演についても好ましく語られることは多くないようです。今回取り上げているこの録音でよく槍玉に上がってしまうのは誰あろうルートヴィヒで、実のところ僕自身も疑問に思って今した。しかしこの音源についても改めて聴き込んでみると、むしろいったい彼女のどこが悪いのだろうか?という気持ちが湧き上がっています。なるほど確かに独的な生硬さが全くないわけではないですが、むしろこくのあるやわらかな響きは、若いけれどもぎりぎりで分別を持ち込める淑やかさを感じさせます。何よりカラスやコレッリとの声の重なりが掛け値なしに美しいのです。特に2幕冒頭のデュエットは、カラスが悪声だとかルートヴィヒが伊ものっぽくないとかそんな御託を並べるだけ野暮でしょう。

・コルネーリア(G.F.ヘンデル『エジプトのジュリオ・チェーザレ』)
ライトナー指揮/ベリー、ポップ、コーン、ヴンダーリッヒ、ネッカー、プレーブストル共演/ミュンヒェン交響楽団&バイエルン放送合唱団/1965年録音
>20世紀中葉の演奏らしい重々しいヘンデルですが、優れた音楽者たちが本気で取り組んだ演奏であるからこその荘厳な魅力に溢れています。妙な話ですが変にオペラティックになりすぎず、歌曲のように聴けるところが大きいのかもしれません。コルネーリアは嘆く役ですから、華美な装飾のない抑制された旋律をどれだけ聴かせられるかにかかっているわけですが、ルートヴィヒは丹念な歌唱で深い哀しみを表現しており引き込まれます。東山魁夷の京都の風景を観るような静かな感動があるのです。だからこそポップのヴィヴィッドなクレオパトラとは好対照を成していると言えるでしょう。パートの異動にこそ時代を感じさせますが、男声陣の充実ぶりも特筆すべきものです。

・オッターヴィア(C.モンテヴェルディ『ポッペアの戴冠』)
ルーデル指揮/G.ジョーンズ、ヴィッカーズ、ギャウロフ、スティルウェル、マスターソン、タイヨン、セネシャル、ビュルル共演/パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団/1978年録音
>当然こちらも演奏スタイルとしては今や時代がかったものと言わざるを得ないものですけれども、やはり捨てがたい良さがあります(大河ドラマ的な題材ということもあってちょっと『ホヴァーンシナ』っぽいぐらい)。音は今ひとつながら映像が遺っているのもありがたいです。ヴィッカーズの躁鬱っぽいネローネ(セネシャルとのバカ騒ぎっぷりも笑えます)やジョーンズの悪女ぶりも楽しいのですが、公演としては暴君に虐げられる側の演唱が秀逸ではないでしょうか。ルートヴィヒは皇后としての品格もたっぷりですし、不幸を予見した悲哀に満ちた歌が胸を打ちます。なかんずく終幕にローマへの別れを告げる場面は、ディドー(H.ベルリオーズ『トロイ人』)を想起させるような、苦味のあるかっこよさです。ギャウロフのセネカ(巨大な美声!)ともども破滅のさまが魅力的で、真の主役はこちらなのでは?などとこの作品でも思ってしまいます。

・老婆(L.バーンスタイン『キャンディード』)
バーンスタイン指揮/ハドレー、アンダーソン、グリーン、オルマン、ゲッダ共演/LSO&ロンドン交響合唱団/1989年録音
>いまだにこの自作自演盤は代表的な録音・映像でしょう。上述の通り僕にとってはルートヴィヒ開眼になった大事な1枚です笑。ここまでのご紹介で彼女がまた卓越したコメディエンヌであったことは十分に伝わっている気はしますが、それでもこの演奏でのあまりにもあっけらかんとした陽気さには驚かれると思います。僕自身も全曲の映像を持ってはいないのですが、youtubeにも転がっているタンゴの部分は傑作。ここだけでもご覧になってください。大ヴェテランがノリノリで歌い、踊り、カスタネットまで叩いているのがなんとも微笑ましいです。実際会場でも、隣に座っているアンダーソンが思わずファンの顔になっていますし、バーンスタインも実に楽しそう。
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オペラなひと♪千夜一夜 ~第百三十一夜/地上の重さから逃れて〜

あまり意図したわけではないのですが、ギオー、ヴァン=ダムと仏ものの大御所が続いております。そろそろちょっと毛色の違う人に行こうかとも思っていたのですが、奇しくも訃報を知りましてこの路線を続けることになりました。

CharlesBurles.jpg
Tonio(La fille du régiment)

シャルル・ビュルル
(Charles Burles)
1936〜2021
Tenor
France

シャルル・ビュルルの名はどれだけ知られているのでしょうか(ラジオ番組で紹介されるのを聞くとどちらかと言えば「シャルル・ブール」といった音に自分は聞こえるのですが、ここでは表記としてまだ見ることの多い「ビュルル」で通します)。正直なところ、「泣く子も黙る」というほどの知名度を誇っているとは言い難いかと思います。ご存じとすればよっぽどオペレッタに精通している方か、パリ・オペラ座の公演を念入りに集めている方、或いはあのロンバールの素晴らしい『ラクメ』(C.P.L.ドリーブ)に感動された方ならば、ご記憶にあるかもしれません。

経歴としては10歳ほど先輩のミシェル・セネシャルと近いと言えそうですが、後々述べますけれどもセネシャル翁の個性を更に尖らせたようなところがあるように思います。比較的若い時期は主役として活躍しつつ、オペラ座では長い間にさまざまな傍役、更には端役まで歌っていますから、むしろ個性的な傍役として公演に花を添えているイメージの方が強いかもしれない。

かく言う僕も『ラクメ』のジェラルドに圧倒されてはいたものの、真剣に音源を集めはじめたのは、せいぜいこの1、2年がいいところでしょう。(後日プラッソンの同作のCDで脇役のアジを演じているのに気づいて心底びっくりしました)。しかし、聴けば聴くほど改めてその実力の高さに舌を巻きます。特にライヴ録音がすごい。むしろこれだけ卓越した歌い手が、どうしてスタジオでは大きな役を残していないのだろうと思わず首を傾げたくなるような、聴く人を魅了して止まない力を持っているテノールだと言うことがわかってきます。泣く子を黙らせるのは知名度ではなく、実力なのです。

この8月ごろ、Malibranから彼が主演した『ロンジュモーの御者』(A.アダン)を入手して、あの愉悦に溢れた高音を繰返し堪能していたのですが、どうもそのころに亡くなられたようです。日本では訃報も出なければ大きな話題にもなりませんでしたからオンタイムではわからなかったのですが、なんというか不思議な縁を感じまして、少しでも多くの方に彼のリラックスした超高音を少しでも知っていただくことができたらと思っています。

<演唱の魅力>
これまでも仏ものを得意とする歌手たちをご紹介するとき、彼らの声をあらわすキーワードとして優美さや明るさ、洒脱さ、洗練を挙げてきました。ビュルルは、こうした特徴が最もよく現れている歌い手の1人だと言えるでしょう。ゲッダやセネシャル、ヴァンゾ、アラーニャといった並みいるリリカルなテノールたちの中においてさえも、耳が蕩けるような陶酔感を与えてくれると言う点で、彼は別格です。あの高音域の響きの香の煙のような気だるげな甘美さと、夢のような典雅さと言ったら!当て推量ながら現在歌っているベル・カント歌いたちのような鋭利で身の詰まった胸声とは違い、頭声と言っていい発声だと思います。今どき流行らないスタイルなのかもしれませんが、そんな頭でっかちなことを言ってビュルルの声、ビュルルの歌の快楽をなおざりにするのはあまりにももったいありません。

僕が「優美」とか「洗練」とか「スタイリッシュ」と言うときには、あまり聴衆へのパフォーマンスに傾かない人が多いように思うのですが、ビュルルについては様子が違います。歌唱その物だけを取り出してみると、楽譜に書かれていない超高音を随所に挟み込んでもいれば、お得意の高音をしっかりと引き伸ばしていていて、言ってしまえばかなり「攻めている」のです。下手をすれば「テノール馬鹿」の烙印を押されてしまいそうですが(もちろんそうした歌の楽しみもありますけれども)、不思議と嫌味な感じを受けたり、過剰な自己顕示欲に辟易させられたりはしません。押し付けがましいスポーティなスリルを生む装置として超高音が付加されるのではなくて、むしろその優美な歌の中であるべき場所に適切に組み込まれていると言う方がしっくりきます。だから聴いている側にとっては妙なストレスがないと言いますか、自然な流れの中で感情のピークに超高音の愉悦に酔うことができるのです。

真面目な役柄を淡々と歌ったとしても、例えばベル・カントや仏もののように声質にあった演目であれば十分に活躍できる極上の歌をうたえたことは想像に難くありませんが、Malibranが出している名演集(毎度ながらなんと意欲的な仕事!)に接すれば確信に変わります。正確な年代まではわからないのですが、まさか20世紀の中庸に『清教徒』(V.ベッリーニ)の悪名高いハイFを舞台で歌ったテノールがいるとは!それもどうにかこうにか苦労して出しましたという代物ではなく、自信に溢れた声を響かせているのですから驚きを隠せません。また仏もののシリアスな演目としては繰返しになりますが、スタジオで遺しているジェラルドが外せないでしょう。爽やかで秋晴れのような澄んだ明るい響きには、地上の重さを感じないと言いますか、生々しい現実とどこか乖離したようなところがあって、この夢見がちで生活感のない人物と見事に合致しています。

とは言えそのあまりにも明るく、軽い、現実味の薄い声と抜群のコメディ・センスが、ビュルルを喜劇の人として聴衆に印象づけているのもまた事実でしょう。プラッソンはオッフェンバックの3つの演目で彼を起用していますが、いずれも主役ではなく表情豊かな脇役に据えているのは、その尖った個性が最も光る場を計算した見識と言えると思います。ビュルル自身もまた、自分に求められていることがわかっているようです。上述のとおり彼はどうすれば自然さを維持できるかを弁えている歌手なのですが、プリュトン=アリステ(J.オッフェンバック『地獄のオルフェ』)では敢えてはっきりと流れをぶった斬る高音で歌うことでエキセントリックな効果を上げています。こうしたビュルルの美質が結集するのは、高音の強さをコミカルな人物の造形にそのまま繋げられるような役です。残念ながらどちらも手に入れづらいライヴですが、トニオ(G.ドニゼッティ『連隊の娘』)とシャプルー(A.アダン『ロンジュモーの御者』)を聴けば、彼の最良の時を知ることができるでしょう。

<アキレス腱>
これも上述しましたが頭声に近いと思われる高音域は、現代のロッシーニ・テナーたちの力強い胸声による超高音に馴染んだ耳にはちょっと異質と言いますか、古くささを感じるものかもしれません(それでも意外なぐらいしっかり声量はあるのですが)。ゲッダも『真珠採り』(G.ビゼー)のアリアなどで近いことをやっていますし、往年のフェルッチョ・タリアヴィーニのソット・ヴォーチェも近い世界のように思いますから、このあたりに違和感を持つ向きだと辛いでしょう。
あるいはヒロイックで荒事っぽい力感をテノールに求める方の好みにも合わないだろうと推測しますが、そうした御仁にとってはおそらくは彼のレパートリーは興味の範疇外でしょうからこの点はそこまで心配いらないかもしれません。

<音源紹介>
・トニオ(G.ドニゼッティ『連隊の娘』)
エチュアン指揮/メスプレ、フォンダリー、フレモー、ル=ブリ共演/パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団/1979年録音
>この演目はCDでもDVDでも名盤と呼ばれる音源が少なからず存在しますが、僕個人はこの録音を随一に推したいです。序曲に歪みもあって音質がいいとはとても言えないものの、ドニゼッティらしい旋律の愉悦と仏ものらしい洒脱さ、そしてライヴの熱気が一体となった快演です。トニオは高音を得意とするテノールの憧れとも言える一方で、見せ場のアリアで連発されるハイCに加えて原典版は仏語なので、ただベル・カントを歌えるというだけではこなせない難役ですが、これら全てが強みであり、しかもコメディアンとしての才能のあるビュルルにとっては、自身の魅力をこれ以上なくアピールできる役と言えるわけです。その地に足がついていないつっころばしぶりは特に1幕前半で発揮されています。例えばマリーの歌う連隊の歌の合いの手の部分などは力量のある歌手がやればやるほど勇ましくなってトニオがスベってる感じが出なくなってしまうのですが、彼は声こそしっかり鳴りつつどこか頼りなげで世間知らずの坊やらしく、スュルピスたちに一喝されてしゅんとなるのも違和感がありません。当然ながらアリアも文句なし!ハイC8連発(多くの場合最後もあげるので9ですね)を終始スリリングな響きで魅了する名テノールはたくさんいますが、見せ場としての緊張感を保ちながらもこれだけリラックスした音で鳴らすことができる人は他に思いつきません。まさに、天にも昇る心地という感じです。2幕ではメスプレやフォンダリートのわちゃわちゃしたアンサンブルも楽しいですが、終盤のカヴァティーナの真摯な歌い口が1番の聴きどころでしょう。シリアスもしっかり行けるところがこうした部分で活きてきます。共演のメスプレ、フォンダリー、ル=ブリともに彼らの最上の歌唱、特にメスプレはすごいです。残念ながら手に入れるのがなかなか難しいのですがblog更新日現在でyoutubeで聴くことができますので、未聴の方にはぜひ一度触れて欲しいです。

・ジェラルド(C.P.L.ドリーブ『ラクメ』)
ロンバール指揮/メスプレ、ソワイエ、ミレ共演/パリ・オペラ・コミック管弦楽団&合唱団/1970年録音
>ビュルルの藝に触れることができるスタジオ録音として最も手に入れやすいものあり、決して多いとは言えない本作の全曲録音の中でも随一のものだと思っています。ジェラルドという男はある意味では最もテノールらしい、戀に没頭するがあまり破滅に突き進んでいく、あらすじだけ読むと共感を呼ぶというよりは苛立ちすら感じさせるような人物なのですが、これだけ耽美な歌声を聴かせられるとぐうの音も出ません。その淡くて儚い、蠱惑的な甘さを持った歌い口は、現実のラクメや彼女を取り巻く状況が全く見えておらず、彼女の棲む森が桃源郷か何かだと思い込んでいる彼をリアルに描写するばかりでなく、聴き手もその幸せに巻き込んでしまうような危うさもまとっています。残念ながら主役としての録音が多くない彼ですが、この役ばかりは当時の他の歌手に換えることはできなかったのでしょう。ここでもメスプレは絶好調でこれ以上ない名唱、ソワイエも苦々しい役を軽やかな美声と歌い口でくるんだ得難いサポート、ロンバールの華やかな音楽も夢想的なこの作品を引き立てます。

・シャプルー(A.アダン『ロンジュモーの御者』)
ブラロー指揮/サニアル、J.ドゥセ、ブリュン共演/マルセイユ歌劇場管弦楽団&合唱団/録音年不明
>彼の録音としては最も最近流通するようになったものだと思います。同時期に出たスピアーズ主演のDVDもバカらしくて楽しいのですが、力強い暗めの音色がこの中身のない軽やかな音楽といまひとつ相性が良くないのと、ちょっとその他のメンバー含めて「おバカをやってる」感じが拭えないので個人的にはこちらの方が好みです(スピアーズ自体は現役のテノールとしては最高だと思うのですが)。こちらは音しかない上に必ずしも音質良好とは言いかねるという大きなハンディキャップがあるにもかかわらず、「この人たちおバカだ」と確信させるような裏表のない潔さがあります。ゲッダもアリア集で残した1幕の御者の歌はハイDまで記譜されていて、この軽佻な作品にはそぐわないぐらい難しい曲なのですが、この超高音がそのままシャプルーのオペラ歌手としての売りとなるものであり、そのエキセントリックな人物設定そのものが笑いを誘うというところまでを、ビュルルはいささかも衒いのない清々しい歌で描いてしまうのです。これを聴いてしまうと彼以上の歌が想像できないような仮称とも言えるでしょう。共演ではここでしか聴いたことのないサニアルというソプラノが、メスプレのような可憐さと外連味を感じさせる歌でお見事です。

・プリュトン=アリステ(J.オッフェンバック『地獄のオルフェ』)
プラッソン指揮/メスプレ、セネシャル、トランポン、ロード、ベルビエ、コマン、ラフォン、マラブレラ共演/トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団&合唱団/1978年録音
>この作品のために書かれた音楽が全て収められているのだそうで、聴いたことのない旋律がたくさん登場するのは楽しいものの、プラッソン先生のテンポ設定もあってちょっと間延びした感じもある録音です。メスプレやトランポンもおっとり気味(2人とも大好きな歌手なのですが!)な中で、このドタバタ劇らしいスパイシーさを与えている人物こそ我らがビュルルで、黒幕であるプリュトンをかなり尖った歌と語りで演じています。既に述べましたがまず登場のアリステの歌からして、優雅で気持ちのいい歌だなあと聴いていると突然最後のフレーズを1オクターヴ上げて歌い出し(!)、そのまま歌い切ります(!!)。最初に聴いたときには、本当に椅子から転げ落ちそうになりました。かと思えば語りの地声は意外と低くドスが効いていて、悪役笑いなどルーニー・テューンズの世界から現れたかのような堂に行ったものです。アンサンブルでもエッジの効いた、しかし仏ものらしい物腰の柔らかさは決して失わないバランス感覚の鋭さで、映像も含めてこの役としては最高の歌唱だと思っています。共演ではいずれも以前記事にしていますけれども、やはりセネシャルのコメディアンぶりとロードの立派な世論が忘れがたいですね。

・ポール殿下(J.オッフェンバック『ジェロルスタン女大公殿下』)
プラッソン指揮/ヴァンゾ、クレスパン、マッサール、メローニ、ルー、メスプレ共演/トゥールーズ・キャピトール管弦楽団&合唱団/1976年録音
>『オルフェ』とは逆にこちらは結構カットが入っているようで、ミンコフスキ盤ではハイライトの一つと言っていい面白おかしさを見せている鐘のアンサンブルなどがごっそりカットされていますが、プラッソンの音楽運びそのものはこちらの方が闊達です。ややクレイジーな笑いを作り上げていたプリュトンに対して、ここでのポール殿下はまさしくつっころばし。優美な品こそあるけれどマッチョさや堅実さからは程遠く、軍人好きの女大公殿下のお眼鏡にはとても叶わないだろうなという情けなさを全体から発していて笑えます。お坊ちゃんらしいクープレももちろん楽しいものの、最高に楽しいのはカヴァリエ・バリトンらしい高貴さと気負いのあるマッサールと陰気なしたり顔を気取る実務家っぽいメローニとのチグハグでスピード感のある3重唱!フリッツ憎しだけで結託するおバカさが音だけでも伝わってきます。

・メネラオス(J.オッフェンバック『美しきエレーヌ』)
プラッソン指揮/ノーマン、エイラー、バキエ、ラフォン、アリオ=リュガ共演/トゥールーズ・キャピトール管弦楽団&合唱団/1985年録音
>プラッソンとのオッフェンバックの仕事でもう一つ。「エレーヌの夫」であることしか取り柄のないことを恥ずかしげもなく自己紹介してしまうおとぼけな王様を演じるには、彼の明るくすっとぼけた響きはうってつけですね。科白回しの巧みさはこちらでもしっかり発揮されていて、浮気の現場を発見して激怒するところなど、この人声優もやれたんじゃないだろうかという暴れっぷりです。そしてこちらでもバキエ、ラフォンとの3重唱が愉しい!この曲は『ギョーム・テル』(G.ロッシーニ)のパロディな訳ですが、ビュルルは引用されているアルノールの嘆きの旋律を原曲同様の悲壮な色彩で歌っていて、内容のバカバカしさとのギャップの笑いを仕込んでいます。バキエは恐らくテルを歌ったバリトンで唯一このアガメムノンも遺している人だと思うのですが、ついついあのシリアスそのものの歌唱を思い浮かべてニヤニヤしてしまいますし、仏語の節回しや言葉捌きがとにかくうまくて舌を巻きます。ラフォンもまたここでは縦横無尽の大活躍で、この人は喜劇の人なんだなと認識を新たにしました。予想外の配役に驚かされるノーマンやアリオ=リュガ含め、充実しています。

・漁夫(G.ロッシーニ『ギョーム・テル(ウィリアム・テル)』)
ガルデッリ指揮/バキエ、ゲッダ、カバリエ、コヴァーチ、メスプレ、ハウウェル共演/ロイヤルフィル管弦楽団&アンブロジアンオペラ合唱団/1973年録音
>そしてパロディ元の作品にも、彼は登場しています笑。ビュルルほどの声と技術があればアルノールも十分歌えたはずですが、父を殺した圧政者を憎みつつもハプスブルクの娘との戀に悩むという役柄があまりにもヒーロー然とし過ぎているせいか、この小さな役しか遺していないようです(次に触れる名唱集ではライヴの歌唱が入っています)。けれども、小さくてもむしろこの役の方が確かに彼の個性に合致しています。冒頭に歌うアリアは戀に焦がれつつも優しく楽しげで、祖国を憂うテルを苛立たせるには十分な暢気さがあります。ビュルルの軽やかでのびのびとした声とやわらかな歌い口がこの暢気さに合わないはずもなく、現実の危機を顧みない感じを一層引き立てているわけです。僅かな出番しかないのがもったいない気もしますが、適材適所といえる配役と思います。実力者で固められた主役たちについてはそれぞれの記事で述べていますが、ここではぜひバキエを上述のアガメムノンと聴き比べてほしいということだけは述べておきましょう。

・ジョルジュ・ブラウン(F.A.ボワエルデュー『白衣の婦人』)
・アルトゥーロ・タルボ(V.ベッリーニ『清教徒』)
詳細不明
>Malibranが出している名唱集は、いつものことながら詳細不明なライヴの切り貼りで必ずしも聴きやすい音ではないとは言え、全てのテノール・ファンにオススメしたい痺れる内容です。CD2枚にわたってラモーからアダンにいたるまでかなり色々な役柄を入れているのですが、特にオススメしたいのはこの2つ(いやむしろMalibranさん、これらの全曲を出してはくれまいか)。ジョルジュは強い高音を響かせているゲッダやブレイクを前にしても遜色がないどころか、彼らを凌駕する切れ味を持っている上に、セネシャルが聴かせるような優雅さや余裕さえもまとった超人的な歌唱。小気味の良い登場のクープレも胸のすく名唱ですが、やはり白衣の婦人を待つ大アリアが聴きごたえ満点、拍手がうるさいのだけが惜しいです。アルトゥーロについては何故かトラック分けされていませんが、主な出番がまとめてドカンと入っているので聴きどころは押さえられます(けどこれだけあるなら全曲が欲しいです、Malibranさん!)。彼の持ち味を考えれば想像できるとおりの、いやあるいは想像以上の力みのない、気持ちのいいベル・カントでうっとりさせられます。高音を売りにしている歌手でもえいやっと出しがちなハイC以上の音を、こともなげにスッと出していく技術の高さにはただただ頭が下がります。あのハイFをも滑らかに決めているのには、本当にびっくりさせられました(思わずスピーカーを二度見してしまいました)。ビュルルの真の実力を知ることのできる名盤です。
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オペラなひと♪千夜一夜 ~第百三十夜/迫真の語り〜

それなりに長く連載していることもあって、大好きなんだけどいつ登場させようか保留にしてしまっている人が少なからずいます。後回しになってしまう理由にもいろいろあって、自分がまだその人のレパートリーを開拓しきれていないとか何かしらの特集をしていてそのテーマにそぐわないとか、あるいはこんな低音歌手に偏った内容のblogでも声区のバランスを多少気にしてはいますから、同じパートが続いてしまったのでまた今度ということもあります。
今回は、そんな事情がちょっとありまして登場が遅れていた人です。

JoseVanDam.jpg
Don Quichotte

ジョゼ・ヴァン=ダム
(ヨセ・ファン=ダム、ホセ・ファン=ダム)

(José van Dam)
1940〜
Bass Baritone
Belgium

ものの本によると20世紀に最も多くの録音を残した歌手はフィッシャー=ディースカウだそうです。確かに彼のレパートリーにおいてオペラはほんの一角でしかなく、歌曲や宗教音楽などの業績をあげていけば枚挙にいとまがないでしょう。他方で、ことオペラというジャンルに限定した時に誰が一番多いのか考えると、確かにFDにも山ほど録音はありますが、レパートリーの関係もあってかそこまで多い印象はありません。そうなると超人気ソプラノやスター・テノールの名前もまたたくさん頭の中を去来するのですが、僕自身が意外と有力候補だと思っているのは、今日の主役ジョゼ・ヴァン=ダムです。

とにもかくにも本当によく名前を見かけます。ショルティやフォン=カラヤンに気に入られた彼は、若いうちから役の大小や伊独の別にかかわらず様々なレパートリーで演奏に参加していますし、フィガロ(W.A.モーツァルト『フィガロの結婚』)のように繰り返し録音している役も少なくありません。とりわけ彼のレパートリーをユニークなものにしているのは仏もので、グノーの代表作3つをいずれもスタジオで遺しているほか、マスネー以降20世紀までのメジャーな作品はほとんど歌っているのではないでしょうか。これらはプラッソンとの仕事が多いですね。そして4悪役(J.オッフェンバック『ホフマン物語』)に至ってはまさにスペシャリストと言うべきで、カンブルラン及びナガノの指揮によるスタジオ録音のほか、ペリソンとの映像、デ=アルメイダやレヴァインをはじめとするさまざまなライヴ録音まで含めると一体いくつあるのやら、ちょっと想像がつかないほどです。

ただ正直このレパートリーの広大さこそが、これまで記事を書くのを躊躇っていた最大の理由でもあります。大体このシリーズを書くとき、まずは手元にあるディスクのリストを作るところから始めるのですが、もうこの時点で既に目が回りそうです……自分の趣味で重点的に集めているはずの多くの歌手よりも持っていそうなのは間違い無いとして、下手をすると愛してやまないギャウロフの音源より多いかもしれない。それでも、本当なら彼の話をするならば聴いておきたい父(G.シャルパンティエ『ルイーズ』)やユメ(G.フォーレ『ペネロープ』)、エディプ(G.エネスコ『エディプ』)といった役がまだ押さえられていないことを白状せねばなりません。

とはいえこれらを聴いてからでなければと言っていると永久にヴァン=ダムの記事は書けないでしょう。130という回数が節目になるのかは微妙なところですが、10回に一度ぐらい彼のような録音史の巨人を取り上げたいと思ったところです。

<演唱の魅力>
それだけ膨大な録音があるというと、癖のないクリアーな響きを思い浮かべる方もいらっしゃるでしょう。しかしヴァン=ダムが所謂オペラっぽい声かというとちょっと、いやかなり違う。同じように仏系レパートリーで活躍した低音歌手ならば、例えばドゥプラやソワイエの方が明るくて通りの良い響きで、天鵞絨などと喩えられて好まれそうです。美しい声だとは思うのですが決して高らかに輝かしく響くのではなく、ガレの色ガラスのランプ・シェードを思わせるような曇りがあって、むしろ慎ましやかに籠って聴こえます。どちらかというと歌曲だとか(実際仏歌曲の録音は多いです)、或いはひょっとするとシャンソンの方が合うかもしれない。ですからよしんば大ファンであったとしても、もし彼が万人受けするタイプかと問われたときには、”Oui”と答えないのではないかと思うのです。それぐらいの、はっきりと独特の個性を持った声。

しかし、それでも彼がこの2つの世紀を跨いで多くの指揮者に愛され、幅広い演目で起用されている事実に変わりはありません。単純でわかりやすい理由としては、バスからバリトンまで多くの役柄を歌いこなすことのできる音域の広さが挙げられるでしょう。基本的には低い倍音が中心なので、バス歌手の勲章と言えるような役どころ、メフィストフェレス(C.F.グノー『ファウスト』)、フィリップ(G.F.F.ヴェルディ『ドン・カルロ』)などを演じているイメージが強い一方で、ゴロー(C.ドビュッシー)やウリアス(C.F.グノー『ミレイユ』)のようなレパートリーも演じていますし、なんと「バリトン・アリア集」まであります(流石に慣例的な高音の多くをカットしていますが)。

他方、声域の広さは強みではあるものの当然ながらそれだけで重宝はされないでしょう。ここでヴァン=ダムが支持された第2の理由として、当時の指揮者が求めた器用さがあったのではないかと個人的には考えています。モーツァルトでもヴェルディでもヴァーグナーでも立派な歌を遺している一方で、さてではよく耳にするところのモーツァルト歌いの愉悦だとかヴェルディ歌い/ヴァーグナー歌いの熱狂を宿しているかというと、どうもそういう感じはしないのです。表情は淡白どころかはっきりとつける方なのですが、どちらかというと朗々とした旋律に酔わせるような歌い方というよりは語りに近い印象、語りにそのまま音程がついていったような印象。感情の起伏や爆発を歌に乗せることから距離を置き、楽譜やリブレットから読み取れることを丹念に分析して練り上げる、まさに「演じる」ようなスタイルだということができるかもしれません。こうした観察者的な視線を持った藝風は、声の力で歌手に役が“降ってくる”のを良しとした世代では煙たがられるものだったろうと思うのですが、作品を慣例や通俗的なイメージから切り離し、そもそも作品で描かれた世界を追求していくことを目指す趣味においては、むしろ望まれるものだったのではないでしょうか。

面白いのが、歌の快楽に委ねるのではなく書かれたことを追い求めるスタイルは演劇的であるとともにとても器楽的な様相を帯びていることで、これにより彼はさらに自由にレパートリーを切り拓くことができているように思います。例えばドニゼッティの曲がピアノで演奏されるイメージが湧かないとかムソルグスキーの曲がオーボエで演奏されるイメージが湧かないといったことがないのと近いように、その個性の強い声にもかかわらずヴァン=ダムの歌を全く想像できないという役がないのです(もちろん声域に合っていないとかもっとイメージに合う人がいったということはあるのですが)。このポイントは先ほどあげた2番目の理由と極めて近いところにありつつも少し軸足が異なるので、第3の理由とすべきかもしれません。

それでは、ジェネラリストであるヴァン=ダムは何を歌っても均質で面白くないのでは?と思われるかもしれませんが、そんなことはありません。彼の藝風が最も発揮されるのは、やはり仏ものです。彼以上に語りのうまいメフィストフェレスはちょっと想像できない。バランスとして流麗な歌によりがちなグノーの悪魔では“金の仔牛”すら自然に語る至藝に頭が下がりますし、ベルリオーズでの言葉捌きは或いはそれ以上と思わせる自由闊達さ。時に荒々しい圧力すらあるのに、決して過剰にはならないヴァン=ダムの歌い口は真似できるような代物ではないでしょう。また、とかく主役にばかり光の当たる仏ものでの派手ではないけれども軽んじることのできない重みのある役柄--例えばマスネーの伯爵デ=グリュー(『マノン』)やファニュエル(『エロディアード』)、グノーのローランス神父(『ロメオとジュリエット』)やドリーブのニラカンタ(『ラクメ』)--に、得難い存在感を与えているのも見過ごせません。そしてこうしたことの延長線上に、歌の快楽よりも言葉の美しさの求められるゴロー(C.ドビュッシー『ペレアスとメリザンド』)や聖フランチェスコ(O.メシアン『アッシジの聖フランチェスコ』)といった作品での活躍があります。

こうして見ていくと、仏ものでこそ彼の本領に触れることができるというよりも、仏ものでの手広い活躍が彼の歌唱の基礎になっている、ということもできるような気がしてきます。それほどまでにヴァン=ダムの仏ものの歌唱は美しく、得難いのです……。

<アキレス腱>
彼のアプローチでは、基本的に非常にリアルで生真面目な印象が先に立ちます。そのためある意味で頭でっかちな役への迫り方をしていることで、どんな役柄にも対処できる代わりに違和感を生んでしまう役があるのも確かで、そういう意味で好き嫌いが出る役は少なからずあるでしょう。例えばフィガロ(W.A.モーツァルト『フィガロの結婚』)などは楽しい反骨者というよりは怒り心頭に発しているところの方が真実味があるという異色な印象がありますし、ヴェルディやヴァーグナーでは爆発的なものを出さない分優等生的で枠の中に入ってしまったような歌唱に思えることもあります。
また、オールマイティな活躍をしているだけに音域的な限界を超えた配役をされていることもしばしば。ザラストロ(W.A.モーツァルト『魔笛』)などは彼の理窟っぽいやり方にはあっているのですが、如何せん音が低い……フォン=カラヤンが彼を起用した理由もわかるけれども、やはり彼の魅力はバス・バリトンからバッソ・カンタンテあたりなんだろうという思いを強くします。

<音源紹介>
・ドン・キショット(J.E.F.マスネー『ドン・キショット』)
ミンコフスキ指揮/ファン=メーヘレン、トロ=サンタフェ共演/ベルギー王立モネ劇場管弦楽団&合唱団/2010年録音
>ヴァン=ダムには何度も述べているように膨大な録音や映像があるのですが、一つだけ取り上げるならば、僕が選ぶのはこの引退公演です。さまざまな時代や言語、様式をまたにかけて活躍してきた藝道の終着地として、ヴァン=ダムが愛すべき遍歴の騎士を演じたかったということがよくわかる舞台姿、立居振舞い、歌が胸を打ちます。もちろん往時の柔らかで湿り気のある響きは退いて、乾いた硬直した鳴り方になっているものの、プラッソンとのスタジオ録音(あれも稀に見る見事な演奏なのですが)の時以上に真に迫っているように思われてなりません。おかしさや悲しさ、崇高さといった全てのものを覆う老いというものを、あたたかな筆致で描いたこの舞台は、一つの人間讃歌と呼ぶこともできるでしょう。本をキーアイテムにしたペリーの心理的な演出と、愉悦に溢れたミンコフスキの音楽がつくる世界観も卓越していますし、ファン=メーヘレンの必要趣味的で人間臭いサンチョをはじめとした共演者たちも奮闘しており、この大歌手の花道を飾る公演にかける並々ならぬ意欲を感じます。

・4悪役(J.オッフェンバック『ホフマン物語』)
ナガノ指揮/アラーニャ、デュボス、ドゥセ、ヴァドヴァ、ジョ、ラゴン、バキエ共演/リヨン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1994-96年録音
カンブルラン指揮/シコフ、セッラ、プロウライト、ノーマン、マレー、ティアー、タイヨン、リドル共演/ブリュッセル王立モネ劇場管弦楽団&合唱団/1986年録音
>彼が最も歌った役であると同時に、最も得意とした役ではないでしょうか。ヒロインたちに比べると1人で演じられることの多い4人の悪役は、実のところそれぞれ持ち味も鳴ってほしい音もまったく違うので、全てを満足させてくれる歌手はあまりいないのですが、ヴァン=ダムの歌唱はまさに範とすべきものだと言えるでしょう。ダイヤモンドの歌の官能的な最高音から、ミラクル博士のゾッとする低音まで十全な響きを聴かせるだけでも至難ですが、コミカルさ、不気味さ、尊大さといったもののバランスを各役で調整しつつ、グロテスクながら魅力的な一人の悪魔へとまとめ上げていく手腕には頭が下がります。加えて、オッフェンバックの手稿の発見に伴う楽譜の変化に応じて、ほとんど全ての演奏で異なっているだろう楽譜への対応力にも舌を巻くばかりです(ダッペルトゥットのアリアとしてダイヤモンドの歌よりも鏡の歌の方が、彼はあるいは歌ったかもしれません)。正直なところ彼は登場しているどのホフマンも見事なのですが、取り扱っている楽譜の新しさや共演の充実ぶりからここではナガノ盤とカンブルラン盤を挙げておきましょう。

・メフィストフェレス(H.ベルリオーズ『ファウストの劫罰』)
ショルティ指揮/リーゲル、フォン=シュターデ共演/シカゴ交響楽団、合唱団&グレン・エリン児童合唱団/1981年録音
>ファウストものは大好きなblog主ですが、長いことどうもしっくり来なかったのが本作、一部の楽曲は演奏もしましたし、パリで実演も観たもののどうも良さがわからない……などと思っていた折、今回ヴァン=ダムの記事を書くにあたって、オペラを聴き始めた頃に1回聴いて放り投げていたこの音盤を聴いて、漸く初めて作品の面白さに気づくことができたような次第です。なんと言ってもまずは彼の演じるメフィストフェレスの皮肉たっぷりの歌い口が極上。グノーと較べてもボーイトと較べても、ここでの悪魔に与えられた歌は軽くて地味なので、歌の造形や声の威力・魅力で惹きこむタイプの人がうたうとどうしても欲求不満というか「聴き足りない」感じになってしまうのですが、ヴァン=ダムの旨みのある語りを聴いているとその絶妙な言葉さばきに心が満たされます。魅力的だけれども調理の難しい素材が、適切な調理と量、そしてタイミングによって供されるような満足感とでも言いましょうか。決してひたすらに美しく言葉を紡ぐことに終始しているわけではなく、ドキッとするような破壊力のある表現を聴かせているときもしばしばで、音域もあってヴォータンを演じている時のアダムを思い出したりもします。やや乾いた感じの高音に独特の色気のあるリーゲルと、逆にしっとりした趣のフォン=シュターデ、ショルティのキビキビした音楽も相俟って、ベルリオーズの奇想の世界を楽しめます。

・メフィストフェレス(C.F.グノー『ファウスト』)
プラッソン指揮/リーチ、ステューダー、ハンプソン、ドゥニーズ共演/トゥールーズ・カピトール国立管弦楽団、合唱団&アルメ・フランセ合唱団/1991年録音
>打って変わってわかりやすく華麗でメロディアスなグノーの世界においても、我らがヴァン=ダムは忘れ得ない悪魔を演じています。先ほどのメフィストのスパイシーな警句めいたことを手短にまとめる才気煥発さに対して、こちらはきっぷの良い金持ちを思わせるようなゴージャスさがあります。と言ってもクリストフやギャウロフといったスラヴ系の歌手たちのような俗悪な成金っぽい凄みではなくて、あくまで身振りはエレガントで親切そうな空気をまといつつ、というあたりはやはり仏系のバスたちの路線を感じさせます。彼の個性としてはソワイエのように完全に羊の皮をかぶっているのではなくて、どこかちょっとギャングのようないかがわしげで謎めいた香りを漂わせているところでしょうか。ありがたいことに補遺としてほとんど歌われることのないスカラベの歌(金の仔牛に差し替えられたクープレ)まで歌ってくれています。割とライトな響きのメフィストと言うこともあってか、共演は総じて明るくて、重くなりすぎない声と知的な歌い回しを持ち味としている人が揃っていて嬉しいところです。

・ローラン神父(C.F.グノー『ロメオとジュリエット』)
プラッソン指揮/ゲオルギウ、アラーニャ、キーンリサイド、フォンダリー、M.A.トドロヴィッチ共演/トゥールーズ・カピトール国立管弦楽団&合唱団/1995年録音
>この作品はどうしても主役2人に注目が集まりますし、当時スターカップルとして飛ぶ鳥を落とす勢いだったゲオルギウとアラーニャにどうしても注目しがちですが、低音陣も実力者で固められており隙がありません。ヴァン=ダムの神父は若い彼らを庇護する高徳の人といった印象で、自分たちの家のことを優先する大人たちの中で決して押し付けがましくない真摯さが感動を呼びます。2人の秘密の結婚の場面はもちろんですが、ジュリエットに秘薬を渡す場面でも相手を尊重する慈愛に満ちた優しい歌が心地よいです。

・ウリアス(C.F.グノー『ミレイユ』)
プラッソン指揮/フレーニ、ヴァンゾ、ロード、バキエ共演/トゥールーズ・カピトール管弦楽団&合唱団/1979年録音
>バリトン寄りのバスのヴァン=ダムがウリアスを、バス寄りのバリトンのバキエがラモンを演じているのはちょっと意外な感じもしますが、聴いてみると流石2人とも藝達者ですし年齢差を考えるとこちらの方が説得力がある組合せだというプラッソンの判断にも得心が行きます。なんといっても若々しい力強さ!ヴァンゾとの決鬪の場面で凄むところなどはこの時の彼だからこそ出せた迫力を感じさせるものです。プライドも高ければ腕っ節も強いけれども心に弱さも持っているこの人物は、マッサールのようなハイ・バリトンが歌うと「気位が高い」という言葉を想起させますが、ヴァン=ダムぐらい低い方の響きが充実していると「矜持」という語が似合うように思います。ヴァンゾ、ロード、バキエといった仏ものの大家たちは文句のつけようのない歌唱ですし、やや伊的で異質な感じはなきにしもあらずであってもやはりフレーニのコクのある美声にはうっとりさせられてしまいます。

・ニラカンタ(C.P.L.ドリーブ『ラクメ』)
プラッソン指揮/ドゥセ、クンデ、ビュルル、プティボン、エイデン共演/トゥールーズ・キャピタル管弦楽団&合唱団/1997年録音
>先ほどの『ロメオ』や後述する『マノン』もそうですが、このころ既に老大家の趣のあったヴァン=ダムは若きスター歌手たちをフューチャリングした仏ものの音源で演奏の要として繰り返し起用されています。当然ながらドゥセの演じるラクメこそが主役なのですが、彼のニラカンタがこの録音の価値を更に高めているのは間違いないでしょう。既に声のピークを過ぎてやや乾いた響きになっていることによって、ソワイエの歌で聴くことができるような芳醇な声と情緒的なリリシズムとは全く逆の、厳しくて頑なな高僧を作り上げています。ああこのニラカンタなら、どんなに優しい歌をうたっても確かに異教徒を刺すだろうなという、追い詰められている感じがとてもリアルです。以前も取り上げましたがドゥセは現代のラクメとして最高の歌唱(彼女のあとには誰が来るのでしょう?)、クンデは大好きなテノールなのですがこの役では響きが軽すぎるというか明るすぎるというか、彼のパートだけ蛍光ペンで塗ったような感じで馴染んでいない気がします。

・クロード(C.L.A.トマ『アムレート』)
プラッソン指揮/ハンプソン、ドゥセ、ド=ユン、ラオー共演/トゥールーズ・キャピタル管弦楽団&合唱団/2000年録音
>ハンプソンやドゥセが当たり役を演じた大変見事な公演の映像記録にもかかわらず、入手困難なのが残念です。敵役のクロードは、僕の持っているいくつかのこの作品の中でもここでのヴァン=ダムが最高だと思っています。この王の冷たさ、不遜さ、そして自らの犯した罪への恐怖を、美しく仏語の語りの中で歌うことができるのはヴァン=ダムをおいて他にいないでしょう。懺悔のアリアの低い方の音をもっとしっかりと鳴らすことのできるバスはもちろんもっといるかもしれませんが、彼の声の乾いて曇った響きが不安と後悔をより際立たせているように感じます。舞台姿は背の高いハンプソンやド=ユンと較べると明らかに小柄なのですが強烈な存在感があり、むしろ小柄だからこそ邪さが凝集されたような効果をあげているようです。どこかで発売されないかとずっと思っているのですが。。。

・ファニュエル(J.E.F.マスネー『エロディアード』)
プラッソン指揮/ドゥニーズ、ステューダー、ヘップナー、ハンプソン、ヴァノー共演/トゥールーズ・キャピタル管弦楽団&合唱団/1994年録音
>派手好みのMETなどではいかにも受けそうな演目の気はするのに登場人物が多いせいかあまり演奏が盛んではなく、またキャストが揃っている音源も少ない本作では本命といえる演奏でしょう。占星術師のファニュエルはワイルドの『サロメ』には登場しない(従ってシュトラウスのオペラにも登場しません)人物ながら、サロメの正体も知っていれば王とも王妃とも直接対決があるという重要な役柄です。伊的なドラマティックさを出すことができるバスならばいくらでもいるでしょうが、優美なマスネーの音楽を崩すことなく緊張感のあるやりとりができる歌手はなかなか得難いところ、ヴァン=ダムならばまさに適役というわけです。同じく流麗でロマンティックながら強力な声を持っているハンプソンとの対決は、彼らのキャラクターと音楽が噛み合って、美しくも迫真の場面になっていると思います。ステューダーが出色、ヘップナーも魅力満載という中ではドゥニーズがやや影が薄いですが十分に美しい歌唱だとは思います。ここまであえて触れていませんでしたがプラッソンの仏ものでの精力的な仕事には驚かされると共に尊敬の念を強くします。今ほど光が当たっていなかった時代によくぞここまで仏ものを牽引してくれたものです。

・伯爵デ=グリュー(J.E.F.マスネー『マノン』)
パッパーノ指揮/ゲオルギウ、アラーニャ、パトリアルコ、ラゴン、リヴァン共演/ベルギー王立モネ劇場管弦楽団&合唱団/2000年録音
>作品の中で重要ではあるけれども決して出番は少なく、極めて渋い役ですから、ライヴ盤を見ると座付の歌手が演じていたり、また音盤の紹介がなされていてもスルーされていることが多々あるのですが、こういうところで得難い存在感を示してくれていることは、ヴァン=ダムの業績の中でも重要な点だと思います。華やかで刹那的な思慮に乏しい若者たちに対し、あらゆる面で対置されたこの伯爵は落ち着きや思慮とともに堅気のいやらしさをも纏った人物で、意外と演じるのは難しいと思うのですが、彼は流石のバランス感覚。「良識」という言葉の持つプラスの面とマイナスの面とを巧みに表現しています。こちらもまた主役に据えられたゲオルギウとアラーニャが、ただただネームバリューだけの存在ではなかったことがよくわかる名演を繰り広げています。

・ラルフ(G.ビゼー『美しきパースの娘』)
プレートル指揮/アンダーソン、クラウス、G.キリコ、バキエ、 ジマーマン共演/フランス放送新フィルハーモニー管弦楽団&合唱団/1985年録音
>『カルメン』という傑作の影に隠れがちなこのビゼーの佳作の、知るかぎり唯一の全曲録音ですが、よくこれだけのキャストが集まったものです。ラルフが酔って歌う戀の歌は、仏もののバスのアリアとしては比較的メジャーなので多くの録音がありますが、ここでの彼の歌を聴くとなるほどこういう文脈で歌われるものなのだなあと得心がいくように思います。妙な言い方ですが、声に力はあるものの立派過ぎないのです。報われない戀を紛らわすために酒に頼っている男の情けなさや悲しさが、ヴァン=ダムのソフトな声と知的なコントロールで引き出されているように思います。また、アンリと決闘では堂々と男らしく、クラウスの美声とのアンサンブルも綺麗です。登場人物が多いこともあってこの役も必ずしも出番がたくさんあるというわけではないのですが、或いは主人公のアンリ以上にラルフに肩入れしたくなってしまうような人間くささがあるんですよね。この辺り人を喰った不実な好色漢を演じるキリコや、陽気でマイペースな父親のバキエともうまくキャラクター分けができていて三者三様に楽しめます。

・ゴロー(C.ドビュッシー『ペレアスとメリザンド』)
ガーディナー指揮/アリオ=リュガ、ル=ルー、ソワイエ、タイヨン共演/リヨン歌劇場管弦楽団&合唱団/1987年録音
>何度か書いている通り得意ではない作品なのですが、夜霧のようなしっとりとした演奏と幽玄で美しい映像(読替演出ですが)が相まって、日本語字幕がなくても作品への理解を広げられるように思います。この頃のヴァン=ダムはまだまだ老境という年齢ではなかったはずですが、掴むことのできない幸せへの渇望とそれを手に入れられる若者への羨望といった老いたる者の哀しみを、歌を通してまた芝居を通して切実に訴えかけています。僕はここでの彼の演唱を観たことで、この物語の主人公がゴローであること、この役もまたフィリップの変奏なのだという理解を得ることができました。アリオ=リュガとル=ルーの題名役2人はもちろん、ソワイエやタイヨンといった脇役も含めて歌も姿も最高ですが、この映像の軸になっているのは、紛れもなくヴァン=ダムだと思います。

・フィリップ2世(G.F.F.ヴェルディ『ドン・カルロ』)
パッパーノ指揮/アラーニャ、マッティラ、ハンプソン、マイヤー、ハーフヴァソン、エリゼー共演/パリ管弦楽団&シャトレ座合唱団/1996年録音
>ヴァン=ダムの歌ったヴェルディというと真っ先に思い浮かぶのは、やはりここでのフィリップでしょう。ラ=スコーラやヌッチと共演している伊語版での「フィリッポ」もまた堂々とした名演で捨てがたいのですが、こちらでの仏語による自然な演唱の魅力はほかの歌手の公演からは得難いものがあります。小兵ながら序盤の威圧的なオーラは卓越していて、高貴なオーラのある王者というよりももっと現代風の権力者、グローバルな市場を席巻する企業の社長のような有無を言わさない冷たさです。だからこそあのアリアからの極めて人間らしい懊悩が活きてくるようにも思えます。これだけを聞くとギャップが大きすぎてしまうのではという懸念を生みそうですが、実際はこの2つの側面をきっちりと繋げる流石の手腕で、あの冷たい表情が権力者としての仮面であることがよくわかるのです。パッパーノ版としか言いようのない楽譜の取扱いに面食らう場面もなきにしもあらずですが、変に重々しくならない音楽は見事ですし、シンプルな美しさのある演出とも相性がいいです。共演陣は特に男声の水準が高く、現代の名唱です。

・修道士(G.F.F.ヴェルディ『ドン・カルロ』)
フォン=カラヤン指揮/ギャウロフ、カレーラス、フレーニ、カプッチッリ、バルツァ、R.ライモンディ、グルベロヴァー、ヘンドリクス共演/BPO&ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団/1978年録音
>パッパーノのある意味での軽やかさをまとった演奏に対して、こちらは重厚で祝祭的なフォン=カラヤンの世界で、どちらを好むかははっきりと趣味の問題と思います。テバルドに先ごろ亡くなったグルベロヴァー、天の声にはヘンドリクスと相変わらずの徹底的な豪華路線の中で、ヴァン=ダムは修道士を歌っています。通例この役を歌うようなバスと較べると彼の声はどちらかといえばバリトン寄りのリリカルな響きではあるので、ドスがない分不気味さやおどろおどろしさはあまりないのですが、生真面目な歌い口はいかにも静かな寺院の上人という風情がハマっています。だからこそ亡霊のような雰囲気を出しているということも言えそうです。バス3人の中でフィリッポのギャウロフが一番重いという、よく考えてみると意表をつくキャスティングですが、ヴァン=ダムにせよライモンディにせよフォン=カラヤンがよくよく考えて起用していることが伺えます。

・パオロ・アルビアーニ (G.F.F.ヴェルディ『シモン・ボッカネグラ』)
アバド指揮/カプッチッリ、ギャウロフ、フレーニ、カレーラス、フォイアーニ共演/ミラノ・スカラ座管弦楽団&合唱団/1976年録音
>今更賛辞を重ねる必要もない名盤中の名盤でしょう。アバドのシモンのライヴ音源に当たるとこの役はフェリーチェ・スキアーヴィが演じていることが多く、ややいがらっぽい癖のある響きの声と性格的な歌い口のいかにもな感じがとてもいいのですが、スタジオ録音ではヴァン=ダムが歌っています。この役としては低めの声で落ち着いた感じですし、歌唱も整っているので一聴するとおとなしい気もするのですが、逆にそれまで忠誠を尽くしてきた身内に対しても復讐を辞さない根暗な過激さを柔和さの下に宿しているようです。ある意味でわかりやすい悪人になりすぎていないことによるリアリティですとか、物語の膨らみを感じるものになっているのです。

・フィガロ(W.A.モーツァルト『フィガロの結婚』)
ショルティ指揮/ポップ、ヤノヴィッツ、バキエ、フォン=シュターデ、モル、ベルビエ、ロロー、セネシャル、バスタン、ペリエ共演/パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団/1980年録音
>上述のとおり彼のフィガロは、異色の風貌です。歌のみを取り出して聴いてみると、例えばカペッキだとかプライのような人間味をこの役に求める方にとっては、暗く籠った音色も生真面目なまでにスタイリッシュな歌い口も受け入れがたいとさえ思えるかもしれません。かく言う僕もいくつかの音源を聴きながらあまりしっくりこないなあと感じていたのですが、この映像を見てうんと印象が変わりました。舞台で演じている彼をみると驚くほど柔和で、いい意味で皮肉屋らしいウィットに飛んだパフォーマンス。ああそうか、これは陽の世界のメフィストフェレスなんだという不思議な納得感があります。他方でまた彼に演じられることによって、フィガロというのは陽気な好人物というイメージが先に立ってしまいがちなものの、ロッシーニと違ってこちらのフィガロは思いっきり自分が利害関係者なので、実は大円団までは終始怒っているんですね。そうした怒りが動力となっている人物として、ここでのヴァン=ダムはとてもリアルです。最も大きな拍手が飛んでいるのが終幕のアリアなのは、パリの観衆の物見だかさとも言えるのかもしれません。バジリオやマルチェリーナのアリアなどのカットは残念ではありますが、映像としては端役に至るまで聴覚・視覚ともに抜群(アントーニオにバスタンとは!)だと思います。

・オランダ人(R.ヴァーグナー『彷徨えるオランダ人』)
フォン=カラヤン指揮/ヴェイソヴィッチ、モル、ホフマン、T.モーザー共演/BPO&ヴィーン国立歌劇場合唱団/1981〜3年録音
>荒々しさや暗さの際立った作品であり、この役そのものにも救済に辿り着かない亡霊の冷たいとげとげしさが求められる一方で、ヴァーグナーの中では初期の作品ということもあって歌の美しさも欲しいという中で、彼の演唱はひとつの解ではないかと感じます。もっとドラマティックに、パワフルに演じる人も多いですから最初はどうしてもやや地味な印象を持つのですが、その沈んだ色調の響きと朴訥とした語りは救いのない海の男として現実味があります。更にそこからメロディアスな歌に移っていった時も変に派手になりすぎない渋い美観があって、変に仰々しい感情過多な歌唱をされるよりも真に迫っています。同じく美声のモルとの重厚な美声での重唱は聴きごたえ満点です。

・ヨカナーン(R.シュトラウス『サロメ』)
フォン=カラヤン指揮/ベーレンス、ベーム、バルツァ、オフマン共演/WPO/1977-78年録音
>こちらもまだ耳ができていない頃に聴いて面白いと思えなかったのですが、今回聴きなおして完成度の高さに驚いた演奏です。とりわけ彼の理知的な藝風は、この預言者のキャラクターに合致しているように思います。例えばヴェヒターなどはエネルギッシュで苛烈なヨカナーンだと思うのですが、ヴァン=ダムはもっと静謐な雰囲気を湛えた高僧、渾々と人の進むべき道を説きそうな、学者風の人物になっているようです。どちらも大変ドライで、甘さのない堅物(それでもどこかに色気を感じさせる)という点では共通しているのですが、全く別の印象を与える歌唱になっています。どちらを好むかははっきりと好き好きの話になるでしょう。共演ではベーレンスが出色、バルツァやオフマンも良いのでヘロデにもう少し人を得たかった感じはします。

・聖フランチェスコ(O.メシアン『アッシジの聖フランチェスコ』)
小澤指揮/エダ=ピエール、リーゲル、フィリップ、ゴーティエ、クルティ、セネシャル共演/パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団/1983年録音
>正直に申し上げてまだ今の自分の耳でどう捉えていいのか苦しむ部分が多いのですが、彼が初演を行い、各地で高い評価を受けてきたこの演目を取り上げないのは片手落ちですので、紹介させていただきます。記憶に残るのはどちらかといえば打楽器や木管楽器、高弦の色彩豊かな鳥の声ですとか、オンド・マルトノが奏でる彼岸の世界の音という中で、4時間にわたって主役として質素な音形を柔和に語り続けるというのは、オペラ歌手の歌手としての側面からしても役者としての側面からしても凄まじい困難でしょう。そういう意味で、仏語での語りを最大の武器としてきたヴァン=ダムが持てる技を尽くした藝の極致を味わうことができるものと思います。彼の思索的な役作りがどれほどこの役柄に真実味を持たせたかと思おうと、映像で観ることができないのが残念です。
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オペラなひと♪千夜一夜 ~第百廿九夜/ひそやかな決意を胸に〜

自分が聴いている音源に20世紀中盤から後半にかけてのものが多いこともあり、悲しいことに100回を超える前後から追悼記事を書くことが多くなりましたし、既に取り上げた人の訃報に接することも増えました。近いところでは昨年の暮れにショーヨム=ナジ、今年に入ってからはネステレンコや指揮者のレヴァインなどよく親しんでいる音楽家たちが相次いで旅立ってしまっているのは、残念でなりません。
今夜の主役も2月の中ごろ、ちょうど前回のヴァイクルの記事の見通しが立った頃に亡くなられたというニュースを知りました。

AndreaGuiot.jpg
Micaëla

アンドレア・ギオー
(Andréa Guiot)
1928〜2021
Soprano
France

決して録音には恵まれていませんが、20世紀仏国屈指の名花です。
うっとりするほど滑らかで澄んだ響きは可憐だけれども、適度な質量と凛とした力強さがあって声を聴いている満足感があります。歌い口は端正なのですが「整っている」と言い方をしてしまうと恐らく正確ではなくて、慎み深さや趣味の良さ、上品さといった印象の方が強いように思います。このblogでの仏国の歌手の特集をお読みいただいている方はここまでで「ははあ」と思われるかもしれませんが、バリトンならばエルネスト・ブラン、バスならばロジェ・ソワイエやグザヴィエ・ドゥプラに通ずる空気を纏ったソプラノなのです。

訃報はもちろん大きなショックだったのですが、ある意味でそれ以上に悲しい気持ちにさせられたのは、少なからぬ記事が「カラスの『カルメン』でミカエラを演じたソプラノが死去」という書きぶりだったことです。もちろんあの『カルメン』の彼女はとびきり素敵ですし、その歌を知ることができる代表的な録音であることに異論はありません。けれど、アンドレア・ギオーは、アンドレア・ギオーの歌が素晴らしかったからこそ記憶に残る藝術家なのであって、決してひととき「カラスの共演者」であったことこそが彼女を知らしめている所以ではないのですから、こうした書き方はあまりにも彼女に対して礼を失していると思います。何故、魅力あふれるソプラノだった彼女の功績に素直に耳を傾けられないのか。

偲ぶ想いとともに、こうした大きな失望と憤りもあって、今回はギオーのことをどうしても書きたいと思った次第です。

<演唱の魅力>
「求められる声」という表現はあまりにも作品やジャンルを自分の都合のいいイメージの中に閉じ込めてしまう言い回しかもしれませんが、それでもやはりある役柄に対してこういう響きや表現で聴きたい/聴きたくないという嗜好の存在を否定することはできないでしょう。伊もののテノールと言えば生命力にあふれた輝きを放っていて欲しいし、独もののソプラノであれば生硬で辛口なスパークリングワインのようにすっきりと純粋な響きを、露もののバスであれば人生の悲喜交交を折り込むことのできるような倍音の豊かさを期待してしまう。では仏もののソプラノでは?その一つの答えがギオーではないかと思います。

彼女の声を聴いてまず強く印象付けられるのは、既に述べたとおりいかにも娘役らしい可憐さです。それも品よく躾けられた深窓の令嬢とでも言ったような風情で、フレッシュなのですが若さゆえのオーバーな熱量や効きすぎるぐらいの機転でキビキビと動き回る様子ではなく、むしろ楚々として奥ゆかしい空気を纏っています。ただこれで終わってしまうとあまりにも「お人形さん」になってしまうのですが、仏もののソプラノ役はそうではありませんよね?アントニア(J.オッフェンバック『ホフマン物語』)はこのイメージに最もそぐう箱入り娘ですが、最後にはクレスペルやホフマンの籠の鳥を脱する人間としての芯の強さを持っています。非力な田舎娘の代表格であるようなミカエラ(G.ビゼー『カルメン』)も、恐怖と闘いながら戀する相手のいる無法者の住処まで乗り込む覚悟のできる女性です。マルガレート(C.F.グノー『ファウスト』)もローゼン(V.A.E.ラロ『イスの王』)もそうでしょう。彼女たちに通底する、一見すると可愛らしく弱々しい少女のようでありながら、自分の信じる道筋を抂げない我の強さを宿した人物に、ギオーはまさにうってつけの声を持っているし、またその楽器のポテンシャルを活かすことができたのです。だからこそ彼女のミカエラは決して添え物にはなることなく、頼りなげな外見に譲ることのないしたたかさを秘めた人物として、態度とは裏腹に弱さを内包したカルメンへのこの上ないカウンターパートであり得るのです。「カラスのカルメンのミカエラ」でも「ロードのカルメンのミカエラ」でもなく、「稀代のミカエラとして様々なカルメンと亘りあったソプラノ」なのだと、僕は声を大にして言いたいと思います。

彼女の美質の頂点として、あまりにも演奏されることの少ないE.レイエの『シギュール』が遺されたことは、オペラ・ファンの僥倖と言っても良いでしょう。ヴァーグナーの『神々の黄昏』の異稿と言えるこの物語で彼女が演じるのはブリュヌイルド、即ちブリュンヒルデです。その登場の悠揚たること!やわらかな美しさを保ちつつも、しなやかで雄渾な声と歌い口は、まさに戦女神にふさわしい神々しさを放っています。手に入れ難い逸品ですが、ぜひもっと知られて欲しいものです。

<アキレス腱>
「麗人」というイメージとぴったり合致したギオーの歌唱なのですが、どうもその長所がうまく発揮されていない印象の演奏もないわけではありません。何が、と言われると非常に困るのですけれども、どうもその可憐さと力強さのバランスがしっくりはまっていないと言いますか、「滑っている」感じに聴こえてしまう時があるのです……また、彼女もまたこの世代の歌手ですから細かい音の転がしについては雰囲気で聴かせている部分がないと言い切ってしまうと嘘になるでしょう(色々な意味でカバリエがお好きな方であれば気にはならないと思います)。

<音源紹介>
・ミカエラ(G.ビゼー『カルメン』)
ベンツィ指揮/ロード、ランス、マッサール、パニ、ブルデュー、プランティ、モリアン共演/パリ・オペラ座歌劇場管弦楽団&合唱団/1960年録音
プレートル指揮/カラス、ゲッダ、マッサール、ソートロー、ベルビエ、ヴォーケラン、プリュヴォ、マル、カレ共演/パリ・オペラ座歌劇場管弦楽団&合唱団/1964年録音
>いろいろ述べてきましたがギオーはやはりミカエラのイメージが強いのです。カマトトっぽいいやらしさを出さずに純朴で一途な田舎娘を演じるというのは難しいのだろうなあと思うのですが、そういう意味で彼女ほど好感度の高いミカエラ、『カルメン』というむわっとするような熱気をはらんだ作品の中で一服の清涼剤たり得るようなミカエラには、そうそう出会うことができません。最初に取り上げた抜粋盤は、これが全曲録られなかったのが本当に残念でならない、生命力と洒脱さに溢れた決定的名盤。彼女が登場するのは僅かにあのアリアだけなのですが、それでも『カルメン』の中でのこの役の存在をきちんと聴き手に刻みつける力があります。のちのベルガンサのカルメンを予見させる、軽やかできっぷのいいロードのカルメンと機微のわかったランス、ベンツィの瀟洒な音楽も抜群です。とはいえ、ギオーについていえばアリア以外も聴きたくなるのが人情で、そうなるとあの「カラスの『カルメン』」です。これで彼女を知っている、或いはここでしか彼女を知らないが印象的という人がいてもおかしくない名演をこちらでも遺しています。冒頭のモラレスたちとの絡みでは兵営が男ばかりという以上にちやほやされる理由のよくわかるチャーミングさですし、ジョゼを説得する静かな語りも真に迫っています。母の便りの重唱も美しい……のですが、ここでのゲッダは美声だけれどもちょっと健康的過ぎ。ジョゼは2つスタジオで遺していますし、いずれも水準以上とは思いますが、いずれを聴いてもゲッダに向いた役ではなかったんだなと思ってしまう部分は否めません。またカラスも評価が難しい……稀に見る演劇的表現力で磨かれたカルメンが魅力的でないなどというつもりは毛頭ないのですけれども、他方でオペラ座を支えた仏ものっぽいキャストにこれだけ囲まれてしまうと彼女の個性はあまりにも異質であるように思います、ここでいずれの録音でも共演してむしろ輝いているのは華やかな闘牛士、ということはマッサールの回で語りましたからそちらに譲りましょう。

・ブリュヌイルド(E.レイエ『シギュール』)
ロザンタール指揮/ショーヴェ、マッサール、バスタン、ブラン、An.エスポージト、シャルレ共演/ORTF管弦楽団&合唱団/1973年録音
>ギオーの歌手としての柄の大きさは、この録音で一番感じられるかと思います。ヴァーグナーとの作風の違いや筋書きの相違があるとはいえ、雄大で重厚なオーケストラをバックに女神の復活や、イルド(『黄昏』のグートルーネにあたります)との対決、壮大な死の場面にとてつもない馬力がいることには変わりなく、それを彼女らしい“たをやめぶり”を維持して歌い上げてしまうのを聴くと、エリザベッタ(G.F.F.ヴェルディ『ドン・カルロ』)なども遺してくれていればという詮ない妄想が、つい掻き立てられるのです。共演がこの時期の仏ものの粋を尽くしたメンバーなのもたまりません。特に主役のショーヴェ!彼もまた録音に恵まれていないのですが、これほどぴったりの役柄が遺っているのはありがたいです。

・ローゼン(V.A.E.ラロ『イスの王』)
デルヴォー指揮/ロード、ヴァンゾ、マッサール、バスタン、トー共演/リリック放送管弦楽団&合唱団/1973年録音
>彼女が遺した全曲盤ではカラスの『カルメン』とともに比較的入手しやすいものです。いかにも整い過ぎたお嬢様であるローゼンは、歌が上手いだけの人が演じてしまうと薄っぺらな印象を免れ得ないでしょうが、ギオーは優しいけれども力のある声で対照的な存在感を示しています。ちょうどカルメンに対するミカエラのように、ドラマティックではあっても多くの葛藤を抱えた弱さのあるマルガレードに対して、地味ながらローゼンは一貫して姉を心配し、守ろうとする譲らなさを持っているのだなということがわかるように思えるのです。そういう意味で、カルメンでもそうでしたがロードとのバランスが素晴らしいですね^^ヴァンゾのハスキーな声もセクシーですし、まとまった歌はないものの低音陣も充実しています。

・マルグリート(C.F.グノー『ファウスト』)
エチェヴリー指揮/ボティオー、ドゥプラ、ビアンコ、シルヴィ共演/管管弦楽団&合唱団不明/1960年録音
>何度か書いていますがこの時代の仏国の流行だったのか、上述の『カルメン』のみならずオペラは抜粋が非常に多いです(全曲録っていてくれたらどんなによかったか!)。華麗なヴィルトゥオーゾを聴かせる宝石の歌が大きな聴きどころであるが故に技巧に長けたソプラノが歌うことも多いこの役ですが、彼女たちにはあまり聴くことのできないこっくりとした響きの豊かさ、倍音のやわらかさを十二分に楽しめるのが、ここでのギオーの魅力でしょう。月明かりの入った部屋のように、程よい明るさと暗さの同居したような彼女の音色が、“トゥーレの王”など個別の歌にも合っていますし、作品全体の色調にも沿っています。そしてここでもフィナーレは堂々と神々しい……!ドゥプラはじめ必ずしも録音の多くない面々の共演も嬉しく、とりわけボティオーは貴重でしょう。

・アントニア(J.オッフェンバック『ホフマン物語』)
エチェヴリー指揮/ランス、メスプレ、サロッカ、セルコワイヤン、ジョヴァネッティ、マッサール、バキエ、ジロドー、ミシェル、ビソン、ソワイエ共演/管弦楽団&合唱団不明/1968年録音
>この作品のヒロインと悪役と道化とをそれぞれ別の人に演じさせつつ、全体を1枚のCD(恐らく当初はレコード両面でしょうね)に収まる長さにしてしまった抜粋ですから、ほとんどガラ・コンサートか歌合戦の世界なのですが、だからこそ当時の仏国の歌手たちの珠玉の歌声を凝縮した魅力のある音盤です。抜粋ではありますが、単なる清楚なおぼこ娘のようでいて藝術家として一本の筋の通ったアントニアはまさにギオーの適性にハマった役柄ですから、こうして聴くことができるのは非常にありがたいです。アリアの静謐さももちろんながら、やはりクライマックスの3重唱での恍惚とした音楽が一番の聴きどころでしょう。この瞬間、アントニアは表現という快楽に身を委ねているのだろうなということが感じられます。ここでも巧みに誘惑者を演じるバキエ、そして母の声にはソランジュ・ミシェル!ややエチェヴリーの指揮がおっとりしている気はしますが、それでもこれだけ仏ものらしいメンバーでこのアンサンブルを愉しめるのは大きいです。

・マティルド(G.ロッシーニ『ギョーム・テル(ウィリアム・テル)』)
ロンバール指揮/ブラン、ゲッダ共演/パリ・オペラ座歌劇場管弦楽団&合唱団/1967-8年録音
>パテ社は仏もの抜粋シリーズによくぞこれを入れてくれました!と心底思います、ロッシーニの最後の大作であり伊語版もあるが故に仏語の録音・映像は今でも必ずしも多くない作品ですから……。気高いブランやゲッダと並んでも、ハプスブルクの王女として登場して負けない気品を感じさせる淑やかな声の響きと端正な歌は流石のものです。ゲッダとの情熱的な(しかし決して伊的な暑苦しさに陥らない)戀の重唱もさることながらやはりアリア、特に最後に付加した高音の繊細な響きは多くのオペラファンを唸らせるに違いありません。ブランは本当にこういう役は似合いますね!格調高く英雄然としたテルは古典的過ぎるというご意見もあるでしょうが、元来のロッシーニたちの意には沿うものでしょう。ゲッダは全曲盤も遺していますがここでも柔和でありながら強烈な歌唱を披露しています。

・ミレイユ(C.F.グノー『ミレイユ』)
・サロメ(J.E.F.マスネー『エロディアード』)
・ドンナ・エルヴィーラ(W.A.モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』)
>最後はMalibranの出している名唱集から。このレーベルにはよくあることながら細かい情報はわからないことが多く、調べる限り『エロディアード』以外の全曲盤は出回ってはいないようです。うーん、実にもったいない!まずミレイユではあの長大な祈りのアリア、仏国でもルネ・ドーリアなど細めのソプラノが歌うことも多い役ですが、ギオーぐらいの響きの幅がある方がこの歌のドラマティックな盛り上がりも愉しめるし、絶叫調にもならなくて良いと思います。次いでロマンティックなマスネーの世界のサロメであれば、彼女はベストの歌手の一人と言えるでしょう。細く鋭すぎる声の人や、逆に脂の乗ったグラマラスすぎる人が歌ってしまうと、この役に欲しいエロティックな少女の姿にたどり着けない。ギオーの声には程よい肉感があるように思います。そしてエルヴィーラ!正直なところこれは彼女のイメージではなかったのですが、素晴らしい演奏がまとめられているこのアルバムでも随一の出来です。コミカルに傾きすぎてしまったり、逆に深刻になりすぎてしまったりするこの役で、少なくともこのアリアを聴くかぎり、ギオーはものすごくリアルな女性の気の迷い、親近感のある葛藤を描くことに成功しているように感じます。Malibranさんには是非こちらの全曲を出していただきたい……!
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オペラなひと♪千夜一夜 ~第百廿八夜/馥郁たる美男子〜

飛んでしまったiPodの中身はそうそう簡単には復旧しそうになく、ちまちまと作業しています。もっと早く復旧する手段もないことはないのですが、それをやってしまうとどうしても復旧したい音源がちゃんと入るかどうかわからない。やはり絶対入れておきたい音源は少なからず存在するので、牛のあゆみでも確実な手を使いたいというところです。
そんなこんなでまだ以前の4分の1ぐらいの状況なのですが、こちらもちまちま更新していこうかと思います。

BerndWeikl.jpg
Mandryka

ベルント・ヴァイクル
(Bernd Weikl)
1942〜
Baritone
Austria

今回もバスを続けようかと思ったのですが、前回モルの音源を聴いているうちに共演の多かった彼のことを書きたくなりました。チャームポイントの口髭が凛々しい墺国のバリトンです(実在の人物でこんなに似合う人を他に知りません笑)。

若々しいパワーに溢れた個性を持った人ですが筋肉質な硬い声ではなく、むしろ芳醇で耳に心地よいやわらかな響きが魅力の核になっていると思います。同じヴィーンの先輩であるヴェヒターと較べるとその違いは歴然でしょう。ヴェヒターを華やかだけれどもやや神経質で峻険な貴族と評するのであれば、ヴァイクルはさしずめ駆け引きが上手で社交会が似合い、愛想のいい色男と言ったところでしょうか。ヴェヒターのみならず独墺系のバリトンは、ドン・ジョヴァンニ(W.A.モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』)やダニロ(レハール F.『メリー・ウィドウ』)を演じても比較的生真面目で不器用な印象のある歌手が多く、そうでなければ思い起こされるのは愛嬌と人間味とを魅力にしたプライやベリーといった一群です。彼らもまた十分に素敵なのですが、いかにもな美男子の雰囲気を湛えているという点で、ヴァイクルを際立った存在と見ることもできるかもしれません(敢えて同じような歌手を探すのであればブレンデルだと思いますがもう少し軽量級ですね)。

今でこそヴァイクルの最も重要なレパートリーとしてハンス・ザックス(R.ヴァーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』)は欠かせないものとなっていますが、戀おおき美丈夫という言葉がしっくりくる歌声と個性と照らせば、当時いかに斬新なキャスティングであったかは想像に難くありません。ヴァーグナーの作品に明るくない僕ですらも、ザックスと言えば重厚で低い倍音の鳴るバスによって演じられる思索的な中年の親方というイメージが植え付けられているぐらいですから。しかし他方で彼の歌に接すると、この役が名刺がわりとして知られ、愛されたのはよくわかるように思うのです。今回はそのあたりの彼の持ち味について語っていくことができればと考えています。

<演唱の魅力>
戀に悩む優男というとオペラではテノールの印象ですが、天下の色事師ドン・ジョヴァンニを引き合いに出すまでもなく、自らの戀情を追いかける美男子がバリトンに割り当てられる機会は少なからずあります。ベルコーレ(G.ドニゼッティ『愛の妙薬』)が軍曹という肩書のみならず女性にモテるだけの外華やかな容姿をも備えているからこそネモリーノは焦るのでしょうし、アルマヴィーヴァ伯爵(W.A.モーツァルト『フィガロの結婚』)に冒険心あふれたヒーローの面影が残っていてもおかしくはない訳です。当て馬/敵役ばかりではなく、堂々たる主役としてマンドリカ(R.シュトラウス『アラベラ』)もオネーギン(П.И.チャイコフスキー『イェヴゲニー・オネーギン』)を挙げることもできるでしょう。彼らは胸に熱い情熱を抱いた騎士であり、「カヴァリエ・バリトン」といわれる歌手にこそ歌われてほしい。ヴァイクルは、まさにうってつけです。

とはいえいかなその素質があったとして肝心なのは歌、彼はその点でも卓越しています。とりわけその鼻持ちならないさ!物語に登場する美男というのは往々にしてうぬぼれ屋で自己顕示欲が強いものです(これはもちろん僕自身が男だから余計に感じるという部分もあるように思いますが、他方で物語を進めていくためにはそういう性格づけが必要だからという側面もあります)。どういうわけかテノールにはこういう雰囲気を出せる人が多いのですが、バリトンではナルキッソス的な空気を出すのに苦労を感じることが少なくありません(演じる役柄の幅が広いからかもしれません)。ヴァイクルは、あの整ってはいるものの強面の容貌からはちょっと想像ができないぐらい、引き出しが多く器用な歌い方をできる人なので、この鼻につく空気を自然に/自在に歌に纏わせるのが本当にうまい。そのうぬぼれをベースにジョヴァンニやオネーギンであれば人を喰った、性格の歪みを巧みに描きますし、ベルコーレならいつでも配れるように自分のブロマイドを何枚か懐に忍ばせていそうなバカバカしさを感じさせます。また、実はベックメッサー(R.ヴァーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』)も遺していて、闊達で滑ったイケメンぶりには感嘆させられること請け合いです。褒めているんだかなんなんだかと思われるかもしれませんが、こういう個性は物語の人物をリアルにするために非常に重要であるばかりでなく、出そうと思って出せるものではありません。

なおかつヴァイクルが素晴らしいのはそのちょっと鼻持ちならない美男子オーラを感じさせつつも、上段で述べた独墺系らしい生真面目な雰囲気を逸脱してはいないところ。これがあるからこそヴォルフラム(R.ヴァーグナー『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』)やザックスが、大きな支持を得たのではないでしょうか。容姿も整っていて思慮深く、実力もあるけれど、ただほんの少しだけ歳を累ねていて、そしてヒロインの意中の人物ではない。自分にあるものもないものもわかっているからこそ、相手の意を汲んで引いていくという葛藤の深さとかっこよさ。あるいは元帥夫人(R.シュトラウス『薔薇の騎士』)に通ずるところもあるかもしれません。こうした年長者の姿はちょっと理想化された人間すぎる、かくありたい人物像すぎるという向きももちろんあるでしょうが、それでもやはり観る人を魅了するものであると思います。

<アキレス腱>
とても藝達者でいろいろな人物を演じ分けられる人だとは思うのですが、ちょっとやりすぎかなと感じるところもない訳ではなくて、役によって/聴く人によって評価の上下が出てくる部分もあるようです(僕は好きなんでご紹介するんですがね笑)。また、なんといっても甘い声が武器のひとなので、ドライな声や表現が欲しい役では良さが活きないと思います。例えば司令官(R.シュトラウス「平和の日』)は期待して聴いたのですが……これならそれこそヴェヒターの方がハマっただろうなと。

<音源紹介>
・マンドリカ(R.シュトラウス『アラベラ』)
サヴァリッシュ指揮/ポップ、Ju.カウフマン、ザイフェルト、クーン、ヤーン、ホプファヴィーザー、シーデン共演/バイエルン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1989年録音
>あれだけザックスの話をしておいて難ですが、僕にとっては、彼といえばここでのこの役の演唱なのです。冷静に考えればこのマンドリカという男、自分が富豪であることも魅力的な容姿であることもわかっていながらそれをごりごり押し出すのではなく、もったいぶった言葉や態度から主張していくという、鼻持ちならなさで行けばオネーギンといい勝負の人物なのですが、ここでのヴァイクルはそうした衒いを自然に、しかも素敵に魅せてしまうだけの華々しさと愛らしさを備えています。パワフルで野生的な歌い口はこの役のもつエキゾチックな香りを高めるとともに、彼が地方出身者だからこそ財産や貴族的な振舞い/慣習にこだわっているのだということを仄めかしてもいるようです。結構オーバーに愛を語ったり、怒り狂ったり、落ち込んだり気性の激しさを際立たせた歌だとも思うのですけれども、それがギリギリのところで悲愴でもありコミカルでもあり美しい……絶妙な匙加減には感服させられます。ヒロインのアラベラもややこしいこだわりのある女性ですがポップちゃんの知的さがとてもよく出ていて、しかも可愛らしい。この主人公たちのキャラクターとしての面倒臭さを、ここでの彼らは絶妙に愛すべき人たちへと昇華しているのです。この作品の肝ながら現実感に乏しいズデンカに生き生きと命を吹き込んでいるカウフマンや直情径行で程よくおバカなザイフェルト、エレメールにはもったいないぐらいのキラキラした美声で歌い上げるホプファヴィーザーといった面々もお見事ですが、この公演はクーンとヤーンの作り上げる極めて人間的な両親によって深みを増していると言っても過言ではありません。とりわけクーンのヴァルトナー伯爵は道化役と愛のある父親とのバランスが最高で極め付け。そしてもちろんこれらを支えるサヴァリッシュの豊麗な音楽の洪水も圧巻です。NHKさんには是非ともこの映像を正規の商品として販売していただきたいです。

・ハンス・ザックス(R.ヴァーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』)
サヴァリッシュ指揮/ヘップナー、ステューダー、S.ローレンツ、モル、ファン=デア=ヴァルト、カリッシュ共演/バイエルン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1993年録音
>そんなわけで一般的には本命と思われるザックスです。繰り返しますが僕はあまりヴァーグナーは聴き込めていないものの、これだけ若やいだザックスの類例は少なくとも彼以前には思い当たりません。まだ枯れていないものを持っているからこそ、むしろ悩みの深さを感じさせる名演だと思います。彼が本気になれば親方衆やポーグナーはもちろんのこと、エーファ自身ですらも心をぐらつかせかねないことを自覚した上で、彼女の幸せを願って自らの想いに蓋をするまでの心のよろめき惑いがとても切実です。ヴァーグナーの音楽は例によって男性中心的で大袈裟なので、人によっては大仰で胡散臭くなってしまいそうなところを個人として親しみを感じられるレベルまで現実味を持たせている手腕は圧倒的と言えるでしょう。ここでもサヴァリッシュの指揮もいいですし、共演も優れていますが、とりわけエーファのステューダー!こんなにこの役が瑞々しく、愛らしいものだったとは!

・ジクストゥス・ベックメッサー(R.ヴァーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』)
ショルティ指揮/ベイリー、コロ、ボーデ、モル、ハマリ、ダッラポッツァ共演/WPO&ヴィーン国立歌劇場合唱団/1975年録音
>あまりにも新しく、優れたザックスとして鳴らした彼が、若い時に演じたベックメッサーというとちょっとイロモノ感すら漂ってしまう意想外の配役ですが、これは掛け値ない名唱だと言えるでしょう。ヴァルターやザックスとの関係で捉えられがちなこの役は、笑われる役としての対比を際立たせるために過度に年老いた、物笑いの種となる人物として描かれてしまうと思うのですが、ここでのヴァイクルはこれまでに述べてきた彼らしさをある意味で明確に発揮しています。即ち、ベックメッサー自身としては大変真摯で真剣であり、なおかつ端正でもありながらそれがどこか行きすぎてタガを外してしまったような、筋の通った滑稽さがあるのです。だから聴かせどころのセレナーデなどはハッとするほど美しい……この辺りバカバカしいだけになってはいけないバランスの難しさをよくよく心得て歌っているのがわかります。同じくジェントルなベイリーのザックスとのバランスもいいですし、上記の録音同様モルの実直かつ華のある歌にも旨みがありますが、なんと言ってもコロの美声がすごいです。まるで火口から流れるマグマのような明晰で生命力のある、熱量の大きな輝き。スタジオ録音ながら必ずしも手に入りやすくないのが残念です。

・ヴォルフラム・フォン=エッシェンバッハ(R.ヴァーグナー『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』)
ハイティンク指揮/ケーニヒ、ポップ、マイヤー、モル、イェルザレム共演/バイエルン放送交響楽団&合唱団/1985年録音
>ヴァイクルのヴァーグナーといえばやはり一にも二にもザックスなのでしょうが、実は彼の持つ音色や雰囲気に一番似合っているのはこのヴォルフラムなのではないかと思います。この役はイェレツキー公爵(П.И.チャイコフスキー『スペードの女王』)と同様、幸せになることのできない哀愁と諦念を漂わせた人格者的二枚目であって欲しいと個人的には思っているのですが、そういった理想に一番近い歌唱です。外面・内面ともに天分に恵まれ、何不自由ない人生を送ることもできたであろうに、ただ一人の破滅的な天才のせいで運命が狂っていく人物の哀しい美しさ……情熱溢れるヴェヒターや理知的なFDとは異なる高貴なる凡人ヴォルフラムをヴァイクルは地で行けてしまっているのが素晴らしいです(こう考えてみると、実はこの役は遠くないところでザックスと繋がっているのかもしれません)。だからこそタンホイザーにはもうちょっと人が欲しかったところ、いやケーニヒも悪くはないのですが。ポップやモルがいいだけに余計にそれは感じてしまいます。

・グンター(R.ヴァーグナー『ニーベルンクの指環』)
レヴァイン指揮/ベーレンス、ゴールドベルク、サルミネン、ステューダー、ヴラシハ、シュヴァルツ、デルネシュ、トロヤノス、グルーバー共演/メトロポリタン歌劇場管弦楽団&合唱団/1989年録音
>高貴なる凡人と言えばこの役こそだという気もします。この兄妹はハーゲンの引き立て役のようにもともするとなってしまうのですが、それでは面白くない。彼もまた世間並みには優れた人物であるからこそ、ハーゲンの怪物性が際立つのではないでしょうか。ヴァイクルらしい甘めの歌い口をこの役として好まない方ももちろんいらっしゃるでしょうが、ブリュンヒルデへの彼の想いを建前以上のものにしているように思います(愛に焦がれる兄を弟が弑するというのは『ラインの黄金』との対照が意識されているんでしょうね)。そして彼が歌うことによって、例えばジークフリートとの誓いの歌などヴァーグナーがこの演目に与えているベル・カントっぽい歌にも気付かされたりします。共演の中ではサルミネンがダントツで強力、次いでステューダーの楚々とした歌が気に入っています。ノルンたちが豪華でびっくり。

・ドン・ジョヴァンニ(W.A.モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』)
ショルティ指揮/バキエ、シャシュ、M.プライス、バロウズ、ポップ、スラメク、モル共演/LSO&ロンドン歌劇合唱団/1978年録音
>この演目/役柄は非常に多面的なので、演じる人によって随分と解釈が分かれるのまた面白いところですが、ここでのヴァイクルはショルティの作る音楽以上にコミカルに演じているのではないかと感じます。自分の美男子ぶりを笠に着たジョヴァンニで、世の中を舐めきって全てが自分の思いどおりになると信じて疑わない、非常に横柄で傲慢な印象が前に出ています。あまりにも戯画化されすぎていて魅力を感じないという方もいらっしゃるでしょうが、悪人というよりは自信過剰な戀の狩人としての説得力は十分と言えるのではないでしょうか(ですから彼のジョヴァンニはベルコーレやオリー伯爵(G.ロッシーニ『オリー伯爵』)とおそらく非常に相性が良いと思うのです)。こうなるとただのコミカル路線のレポレロでは力不足になってしまいますが、藝達者なバキエが一筋縄ではいかなさそうな狡さを持っていて好演。主従ともにバリトンというのも珍しいですが良いコンビですし、騎士長に来るどバスのモルが際立ちます。天使のようなプライスと溌剌としたポップも聴きもの、バロウズも凛々しいですが、シャシュは好き嫌いが出そう。

・アルマヴィーヴァ伯爵(W.A.モーツァルト『フィガロの結婚』)
ベーム指揮/ヤノヴィッツ、プライ、ポップ、バルツァ、リドル、リローヴァ、ツェドニク、エキルス共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1980年録音
>ヴァイクルはいかにもこの役には向いていそうなのに意外にもこれ以外に録音も映像もないようです(ちなみにこの時の映像はときどき出回っているのですがちょっとびっくりするような価格で出ていることが多いので、今のところは諦めて音のみで我慢しています^^;)。実際視聴してみてどうかといえば、よくぞこれを遺してくれましたという素晴らしいもの。上述の音源との並びで聴くとよくわかりますが、ああ彼のアルマヴィーヴァはちょっと隙の多いジョヴァンニなんだなということで、色男だしそれと貴族であることを鼻にかけた強権的な人物ではあるのだけれども、そこにあぐらをかいてしまった油断の多さがとても感じられます。コワモテのイケメンなのでアリアなんかはとてもかっこいいんだけれども、フィガロやスザンナにいっぱい喰わされるところはとても油断があってお間抜け。あまつさえここでのフィガロとスザンナは百戦錬磨のプライと利発を絵に描いたようなポップちゃんですから、余計そこが際立ってくるようです。好みは多少あれどこれだけの布陣のフィガロを東京で観られたなんて羨ましい限り!

・ハンス・ハイリンク(H.A.マルシュナー『ハンス・ハイリンク』)
G.A.アルブレヒト指揮/シュレーダー=フェイネン、シウコラ、ツォイマー、ギルズ共演/RAIトリノ管弦楽団&合唱団/1972年録音
>フォン=ヴェーバーとならびモーツァルトとヴァーグナーを繋ぐ時代の重要な作曲家にもかかわらずほとんど忘れられているマルシュナーの代表作の1つで、カットはかなりあるものの貴重な全曲録音です(プライの歌うハイリンクのおまけ付き)。話の筋を何度読んでもどうも人間にたぶらかされたとしか思えないちょっと抜けた感じのする地獄の王子なのですが、マルシュナーがデモーニッシュな迫力のある音楽を与えていることもあり、ヴァイクルぐらいパワーのあるたっぷりした声で歌われてこそ真価を発揮すると思います。響きの甘さが活きていることもあってしばしば歌われているアリアもロマンティックな味わいがあるのですが、地獄の軍団の合唱との歌の不気味さがとても独墺系らしくて個人的には好きです。共演も指揮も全くわかりませんが、水準の高い演奏だと思います。

・オットカール(C.M.フォン=ヴェーバー『魔弾の射手』)
C.クライバー指揮/シュライアー、ヤノヴィッツ、アダム、マティス、ヴァイクル、フォーゲル、クラス共演/シュターツカペレ・ドレスデン&ライプツィヒ放送合唱団/1973年録音
>出番は少ないながらも大変重要な要役で、カヴァリエ・バリトンとしての彼の魅力を味わえます。この物語の世界において悪魔の誘いに乗ることが禁忌であり、本来マックスは罪を免れないことを象徴するのがオットカールという人物です。彼が隠者のとりなしがあるまで頑なに恩赦を拒むのは、個人的な固定観念に縛られているからではなく、しきたりを守り統治する領主としての勤め、求められているふるまいを果たそうとしているからなので、小役人じみてしまったり、度量が小さく見えてはいけない。ここでのヴァイクルの歌唱は若い力に溢れて荒々しいですが、そのことがよくわかるものです。

・ファルケ博士(J.シュトラウス2世『蝙蝠』)
C.クライバー指揮/プライ、ヴァラディ、ポップ、レブロフ、コロ、クッシェ、グルーバー/バイエルン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1975年録音
>必ずしもオペレッタをたくさん歌っている人ではないと思いますが、『蝙蝠』は外せないでしょう。アイゼンシュタインという男は愛すべき人物ながらある程度解釈の方向が揃うのに対し、彼へのとびきり馬鹿馬鹿しい復讐を企てるこの人物の方こそ意外と色々なアプローチがあるように思います。ヴァイクルのファルケ博士は十分すぎるぐらいコミカルな味わいも持っているのですが、同時にびっくりするほどハンサム。彼がアイゼンシュタインもまた歌っているからということではないのですが(映像があるのですが未視聴)、ひょっとするとこの悪友たちは逆の立場であってもおかしくなかったのでは?とついつい勘繰ってしまいます。この或る種の双子的な空気は、相方がプライであることによっておそらく更に強くなっています。実年齢も含めた印象で言えば年長の人懐っこい男にしっぺ返しをする頭の回る年下の男というここでの『ドン・パスクァーレ』的な構図に対して、おそらく実在はしないですが配役を交換した演奏があるならば是非聴いてみたいものです(観られていないのに言うのもなんですが、ヴァイクルのザックスにプライのベックメッサーという映像があって、ひょっとすると関係性としてはそこに近くなるのかも)。こんな2人ですから1幕で舞踏会に乗り出す重唱が大傑作です!クライバーの素晴らしく闊達な音楽と抜群のキャストによる歌が楽しめる不滅の名盤ですが、実はこの音盤の価値を高めているのは科白回しかもしれないと最近思います。独語の美しさだけではなく、怪しげな仏語も楽しめますし、露語ネイティヴという点まで鑑みれば、毀誉褒貶を見越してもレブロフをオルロフスキーに据えた意図は非常によくわかります(そして彼がちゃんと仏語がわかっていそうなのもミソ)。

・ジョヴァンニ・モローネ(H.プフィッツナー『パレストリーナ』) 2021.12.25追記
クーベリック指揮/ゲッダ、フィッシャー=ディースカウ、リッダーブッシュ、シュタインバッハ、プライ、ドナート、ファスベンダー、ニーンシュテット、フォン=ハーレム、メーフェン、マツーラ共演/バイエルン放送交響楽団&合唱団/1973年録音
>個性的で豪華なメンバーが揃うことで真価を発揮する大作の、数少ないスタジオ録音です。ベリーやフランツといったバス・バリトンが重厚な声で歌うことの多いこの役ですし、このメンバーの中では若手のヴァイクルが歌うのはちょっと意外な気もするのですが、いざ聴いてみるとクーベリックの狙いはわかる気がします。彼の芳しい声と甘美な歌い口は、トリエント公会議を取り仕切る教皇補佐官として相応しい、力強い理想家に合致しているというのみならず、ちょっとナルシスティックな印象も持っています。会議の冒頭の長大な演説は大変美しいのですが、自分の言っていることに酔っているような絶妙な油断があって、厳かなバス・バリトンの歌からは生まれ得ない、会議の失敗の予感を聴衆に与えるのです。先輩のプライの方が小さな役であるルーナ伯爵を歌っており、実力の面でも歌唱の面でも逆の配役もあり得るのですが、ここで感じられるような脇の甘さのあるモローネの進行を強引なルーナ伯爵が引っ掻き回すという構図は弱まってしまったでしょう(だからこそもう一人の引っ掻き回し役であるブドーヤの司教はもう少しトリッキーな人が良かったのですが)。彼ら2人とフィッシャー=ディースカウのバリトン・トリオを取り出すのならばこれ以上の演奏はあり得ないと思います。もちろんゲッダやリッダーブッシュ、ファスベンダーもお見事です。

・ベルコーレ軍曹(G.ドニゼッティ『愛の妙薬』)
ヴァルベルク指揮/ポップ、P.ドヴォルスキー、ネステレンコ共演/ミュンヘン放送管弦楽団&バイエルン放送合唱団/1981年録音
>ヴァルベルクによる2つのブッファの全曲録音は、指揮者、歌唱陣、オケや合唱とすべてにおいてスタジオで遺されていることそのものが意外ではあるのですが、いずれも大変優れた演奏です。ヴァイクルについて言えば、やわらかな甘みのある声の持ち味がベル・カントものでも十分に発揮されるものであることを示したものだと言えるでしょう。もう何度も上で述べていますが、中身のないイケメンという定番の役柄を奇を衒わず直球で演じています。いわば極上の紋切り型。案外と伊的なメンバーでもこれだけ見た目の整っていそうなベルコーレというのはいないような気がしており、僕は彼の歌を聞いて初めてああこの役は「ドン・ジョヴァンニくずれ」なんだ、という新鮮な発見が得られました。作品そのものに新しい光を当てつつ全体にブッファの愉悦にも満ちた特異な秀演です。

・マラテスタ医師(G.ドニゼッティ『ドン・パスクァーレ』)
ヴァルベルク指揮/ネステレンコ、ポップ、アライサ共演/ミュンヘン放送管弦楽団&バイエルン放送合唱団/1979年録音
>上記の「妙薬」と同じくこちらも実にユニークなブッファ。20世紀の名ボリスと名ザックスがこのおバカな演目でどんな歌を披露するのか初見だと想像もつきませんが、めざましい成功だと思います。ザックスやヴォルフラムで聴かせる知的さを喜劇に転じていくとファルケやこの役になっていくのだなあと役同士の意外な距離感が見えてきて面白いですね。海賊版のレコード以外ではフィガロ(G.ロッシーニ『セヴィリャの理髪師』)も見当たらないヴァイクルですが、ネステレンコともども早口も実に達者。この作品のハイライトである強烈な2重唱がこれだけ重たい声のコンビで痛快に歌われた例は他に知りません。何度も共演しているポップちゃんとの息の合ったコンビでも、いわゆるベル・カントっぽいイメージを脱却した清新な歌唱を楽しめます。アライサが見事なのは言わずもがな!

・リゴレット(G.ヴェルディ『リゴレット』)
ガルデッリ指揮/アラガル、ポップ、ローテリング、タカーチ、マルタ共演/ミュンヘン放送管弦楽団&バイエルン放送合唱団/1984年録音
>実は以前は全然いいと思わなかったのですが、今回改めて聴いてみて充実した演奏なのに驚きました。なんといってもヴァイクルの言葉の扱いが見事で、浮き沈みが激しく複雑なリゴレットという男にさまざまな表情を与えています。もちろん2幕のようにドラマティックで人間的な場面も秀逸ながら、とりわけ意外とこの役柄の歌唱で見えてくることの少ない、道化としての顔、例えば1幕1場でモンテローネを侮辱するに至るまでの皮肉なおべんちゃらっぷりが際立っているようです。ポップはアリアなどちょっとモーツァルトっぽい歌ですが娘ぶりが愛らしいですし、アラガルもライヴ盤ほどのアツさこそないものの薄っぺらな端正さがこの役らしい。ヴェルディの録音が必ずしも多くないローテリングやタカーチも高水準です。ただ、傍の中では驚くぐらい迫力のあるマルタのモンテローネがいちばん聴きごたえがあるかもしれません。

・ダゴンの大祭司(C.サン=サーンス『サムソンとデリラ』)
パタネ指揮/キング、C.ルートヴィヒ、マルタ、コーゲル共演/ミュンヘン放送管弦楽団&バイエルン放送合唱団/1973年録音
>これまた何故あえてこのメンバーでこの作品をという感じですが、上述の2つのブッファと『リゴレット』と同じくバイエルン州ゆかりのオケと合唱ですから、当時のミュンヘンで演奏されていたオペラの空気を遺したいというような意図があったシリーズなのかもしれません。さておきこの演目はどうにも題名役たちにばかり話題が偏りがちなのですが、この大祭司は第3の主役であってここがこけてしまうと全然面白くない演奏になってしまう重要なポジションです。ヴァイクルのまとっている男の色気と独墺系らしい生真面目さがここでは絶妙な相互作用を起こして、背徳的な空気を湛えた生臭坊主を作り上げています。こういう妖しげな色香があるとデリラとの重唱の意味合いも増しますし、サムソンとの関係も一段と緊張感を孕んだものになることが、お聴きいただければお分かりになるでしょう。仏もののイメージはこちらもないものの神性を帯びた雰囲気がハマっているキング、柔軟で旨みのあるルートヴィヒも優れており、一風変わってこそいるものの役者の揃った名盤です。

・イェヴゲニー・オネーギン(П.И.チャイコフスキー『イェヴゲニー・オネーギン』)
ショルティ指揮/クビアク、バロウズ、ギャウロフ、ハマリ、セネシャル共演/コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団&合唱団/1974年録音
>露色の少ない演奏の中では最も知られたものかもしれません。フヴォロストフスキーなど露国のバリトンが聴かせる気怠げで空虚な哀しい男とは異なり、戀の冒険者を感じさせるアプローチには最初ちょっと面喰らいますが、繰返し聴いていると役に対しての思い込みから離れればこういう人物造形も十分あり得る気がしてきます。ドン・ジョヴァンニと繋がる部分もあるのですが、彼のように情熱的に色戀を追いかけ回しているわけではなく、ヴァイクルのオネーギンは退屈しのぎに女性に声をかけているような、愛情の感じられないもの(だからこそオリガに色目を使ってレンスキーを激昂させるあたりがリアルなのです)。それがこの役の虚ろさに別の部分から光を当てているように思います。共演はいずれも土臭さはありませんが優秀、特にギャウロフの圧倒的な声には登場の瞬間から息を飲みます。

・ドン・ヴァスケス(L.シュポア『錬金術師』)
フレーリヒ指揮/ピュッテルス、アボウロフ、ドゥルミュラー、ツィンクラー共演/ブラウンシュヴァイグ州立劇場管弦楽団&合唱団/2009年録音
>知るかぎりヴァイクルの最も新しい全曲録音は、滅多に演奏されないシュポアの秘曲です。題名役ながら派手な歌は多くなく、筋の上でも戀の鞘当てを繰返す若者たちにスポットが当たっているようには思うのですが、この作品を仄暗い色調に定めている点で強い存在感が求められていると言えるでしょう。さしものヴァイクルも往年の甘美さは衰え、渋みの際立ったドライな響きになっているのですが、ここではそれがむしろ効果的に働いていて、特に宗教裁判の幻想の場面など実に不気味です。共演は知らない人ばかりなのですが、事実上の主役と言っていいピュッテルスが抜群の出来で舞台を引っ張っているほか、ドゥルミュラーの熱の籠った歌唱もお見事。作品も素敵で一聴の価値ありです。
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