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Don Basilio, o il finto Signor

ドン・バジリオ、または偽りの殿様

オペラなひと♪千夜一夜 ~第百廿二夜/自然美と人工美〜

またも訃報!12月の末ですから少し経ってしまいましたが追悼記事を。
2019年頭に亡くなった盟友アダムの後を追うように彼もまた逝ってしまうとは……!

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Die Knusperhexe

ペーター・シュライアー
(ペーター・シュライヤー)

(Peter Schreier)
1935〜2019
Tenor
German

前回のデロサンヘレスと同じく、彼もまた信じられないぐらい幅広いレパートリーを誇った20世紀クラシック音楽を代表する名歌手だということができるでしょう。バッハや歌曲での活躍はまさに不滅のもので、僕のようなオペラ・フリークでも抗しがたい魅力を感じます。指揮者としても卓越した才能を発揮していたと言い、そのマルチな活動は驚くべきものです。昨今ではドミンゴも同じように指揮やバリトンとしての活動を繰り広げていますが、彼の方がよりやりたいことにとにかく手を出しているといった印象で、シュライアーのクレヴァーな感じの活動の広げ方とはちょっと質が異なるように思います。

とは言えこのblogのメインであるオペラに限って改めて彼のレパートリーを見てみると、意外なことにこのジャンルで遺したものは絞られるようです。基本的には主役・脇役を問わずリリカルな役どころ、よりはっきり申し上げればモーツァルトこそがオペラ歌手としてのシュライアーの本丸にあるように感じます。ヴンダーリッヒよりも更に端正でうんと生真面目で、しかし熱い感情の迸る彼の歌い口を考えると、これは得心のいくところかもしれません。他方で彼にはF=Dにもなされたような批判、例えば巧すぎるとか聴かせるための技巧(これは超絶技巧という意味ではありません、念のため)が立ちすぎて鼻につくと言った批判をされる方も一定数いたようです。その経歴や歌を聴いて感じられる通り、彼は“智に働く”感じがあるのは間違いなく、そこに人工的・人為的な匂いを嗅ぎ取ってしまう人もいるのではないかと推察します。しかしこの知的で清潔な歌唱こそが彼の持ち味でもあり、だからこそ彼が独系のテノールの中で一種独特の立ち位置を得ることができたのではないでしょうか。後段ではそのあたりもうまく述べることができればと思っている次第です。

そんな訳で、今夜はまさしく「20世紀の巨匠」であったペーター・シュライアーに光を当てて行きます。

<演唱の魅力>
明瞭で端正、清潔で知的……独墺系のリリック・テナーというとこういった言葉が僕の頭にはすっと思い浮かび、理想として追ってしまうのですが、それは少なからずこのシュライアーのイメージなのでしょう。キリッとして精妙でしかし甘みのある、アルザスのワインのような彼の声と歌は、とりわけモーツァルトやバッハの演奏で代え難い魅力を放ちます。同じようなレパートリーで活躍したテノールとしては、声の面ではヴンダーリッヒやデルモータといった人たちの方が自分の好みには近いのですが、これらの人たちが具体的な役柄に結びついてその卓越した歌唱が思い浮かぶ(例えばヴンダーリッヒであればタミーノ(W.A.モーツァルト『魔笛』)、デルモータであればオッターヴィオ(同『ドン・ジョヴァンニ』)のに対し、彼の歌唱はもっとニュートラルに、軽やかな独語のもの、もっと言えばモーツァルトならばなんでもござれという感じ。それだけレパートリーが広かったといえばそれまでなのですが、これはシュライアーの美点にも繋がっているのではないかと思います。

シュライアーの声に躍動するような生命力が宿っていることは疑いようもありません。それは例えばプライやパネライと歌う『女はみんなこうしたもの』(W.A.モーツァルト)の冒頭やサヴァリッシュの指揮によるタミーノのアリアを聴けば、僕がここで長々と語らずとも感ずることができるでしょう。しかしながら他方で彼の歌は、人の手によって磨き上げられた、計算された美しさをも備えています。それは例えば優れた職人の手による白磁の銘品のような美しさ。人の力の及び得ない自然の産物と、人の技術の粋を尽くした結果との成し遂げ難い絶妙なバランス。これこそが彼を世に稀な名歌手たらしめている点であり、その長所が最も発揮された世界こそ、モーツァルトの典雅な音楽だったと言えるように思うのです。

敢えて較べるのであれば、ヴンダーリッヒは言わずもがな天才ですがもっと生来の声や感覚に寄った或る意味で奔放な歌唱で、シュライアーの方がより楷書体の、好ましい意味でお手本のような歌唱と考えることもできるかもしれません。そう考えるとヴンダーリッヒがプライと、シュライアーがアダムとそれぞれ縁の深い歌手であるというのは、もちろんそれ以外の様々な要因もあるにしても、非常に興味深いと思います。実際彼らはそれぞれにデュエット集を遺していますが、いずれもこのコンビ以外の組み合わせは考えられないと感じさせる代物です。

但し、ここまでのことを全てひっくり返す形になりますが、僕自身が彼の演唱で一番強烈な印象を受けたのは実はモーツァルトではなく、むしろその楷書体のかっちりしたイメージから最も離れたところにあると言ってもいい魔女(E.フンパーディンク『ヘンゼルとグレーテル』)であることを最後に述べておきます。これは彼がそのキャリアの中でも恐らく群を抜いて暴れてみた記録ではないでしょうか。普段の端正そのものというような歌い口と、プルージュニコフやセネシャルもびっくりの引き攣った哄笑とを交錯させるここでのシュライアーは「男の演じる魔女」を遠の昔に通り過ぎた人ではない何かと化しており、その藝の懐の深さは衝撃的です。自然美と人工美のバランスによって成り立っているシュライアーの藝術のバランスを、彼自身の手によってグロテスクに歪め、変奏したパロディと見ることもできると思います。まさしく怪演であり快演です。

<アキレス腱>
もう好きではない人はこれが原因だろうなあということは一通り書いてしまった気もしますので屋上屋を重ねるようではありますが、その作為的に感じられることもある歌いぶりへの好悪はどうしてもあるところかなと思います。ただ、それを言い出したらオペラの歌唱そのものがかなり人為的に技術を磨いた結果なのではないかとも思うのですが……。

<音源紹介>
・タミーノ(W.A.モーツァルト『魔笛』)
サヴァリッシュ指揮/ローテンベルガー、ベリー、E.モーザー、モル、ミリャコヴィッチ、ブロックマイヤー、アダム共演/バイエルン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1972年録音
>本作の決定盤(と思っているのですが、意外なことにこのblogでは殆ど紹介できていませんね汗)。均整のとれた美しい声と泉のように沸く活力を感じられる歌、キャラクターへの適性などを考えると、彼の最良の演奏の一つでしょう。冒頭の蛇に追われている場面の一声からーーこの場面でのタミーノの滑稽なまでのひ弱さと裏腹にーー叙情的な悲劇のヒーローを思わせる切羽詰まった真剣さで聴く者の心を鷲掴みにしてしまいます。そこからガラッと変わって科白でのパパゲーノとのコミカルなやりとり、有名な絵姿のアリアでの耽美な感傷と立て続けに示される藝の幅広さはまさに圧巻です!笛のアリアでの食べごろの果物のようなフレッシュさも強く印象に残りますし、2幕以降のお気楽パパゲーノに対する頑なな態度では理屈っぽい彼らしさがよく表れているように感じます。サヴァリッシュの堅実で実直な音楽もこの作品の空気にピッタリ、モルやエーザー、ローテンベルガーといった共演陣も鉄壁です。とりわけベリーのパパゲーノには得難い愛嬌があって、音楽全体を明るく彩っています。

・フェルランド(W.A.モーツァルト『女はみんなこうしたもの』)
ベーム指揮/ヤノヴィッツ、ファスベンダー、グリスト、プライ、パネライ共演/WPO&ヴィーン国立歌劇場合唱団/1974年録音
>ライヴらしい瑞々しさの感じられる超名盤です(この時ベームが80才だったなんて信じられない!)。冒頭の3重唱から彼らしいやや神経質ささえ感じられる端正さと歳若い男の力み返った勢いとが共存した歌にワクワクさせられます。すごく几帳面な歌なんですが、そこに決起盛んで必死すぎる若さが表出されていて、この賭事が勝ちでは終わらないことがなんとなく見透せ得るのが◎これにプライの余裕と気品のあるまろやかな歌とパネライのちょっと伊ものらしい脂のあるいかがわしい語り口と、それぞれ全く異なること性であるにもかかわらず最高に相性が良く、アンサンブルにこそ美点のある本作の魅力をこれ以上ないほど引き出しているといえるのではないかと。また1幕フィナーレ最後に書かれている付点と16分の異様に難しいパッセージを軽々と浮き立たせる手腕には圧倒されます。女性陣では何と言ってもグリストのいたずらっ子のようなデズピーナが出色です。ヤノヴィッツとファスベンダーはやや生硬な気がしなくもないですが、アンサンブルの精妙さは特筆すべきもの。

・ベルモンテ(W.A.モーツァルト『後宮からの逃走』)
ベーム指揮/オジェー、グリスト、ノイキルヒ、モル共演/ドレスデン国立歌劇場管弦楽団&ライプツィヒ放送合唱団/1973年録音
>不滅の名盤。シュライアーのモーツァルトの中でも最もその2枚目ぶりを楽しめる演奏の一つでしょう。清流の水を思わせるような、澄んでスッキリとしたヴィヴィッドな響きの声と、繊細で甘い歌い口には耳がとろける思いがすること請け合いです。オジェーの天使の歌声とのアンサンブルの美しいこと!他方でモルとの弾むような活力の感じられるコミカルなやりとりも実に楽しく、優れたバランス感覚を発揮しています。ペドリロのノイキルヒがちょっとガサついた、けれども旨味のある声のキャラクター・テナーで、シュライアーと明確に異なる持ち味ながらうまく共存しているのも嬉しいところ。オジェーの天使の歌声、グリストの軽やかさ、ベームの典雅な指揮も相待って有名な4重唱の盛り上がりは最高です。もちろんモルの重厚で端正でありつつ迫力あるオスミンも言うことありません!

・ティート帝(W.A.モーツァルト『皇帝ティートの慈悲』)
ベーム指揮/ヴァラディ、ベルガンサ、マティス、シルム、アダム共演/ドレスデン国立管弦楽団&ライプツィヒ放送合唱団/1979年録音
>ベーム指揮のモーツァルトが続きます、こちらも名盤。ここでのシュライアーの評判は必ずしも芳しくなく、不調だとか衰えを感じるというようなコメントも散見されますが、個人的にはそんなことはないと思います。確かにタミーノやベルモンテのときに較べれば声の潑剌とした輝きは一段弱まったような印象はありますが、寛大な心で知られた皇帝を演ずるのには、いい意味で角が取れた穏やかな響きはむしろ好ましいのではないでしょうか。やや地味な印象になってしまっているとすれば、こ題名役でもあり少なくない数のアリアもある割に、女声陣に喰われている感じが否めないこの役の問題かもしれません。それでも終曲では柔らかで威厳のある声をたっぷりと鳴らしており、大団円にふさわしい歌唱を披露しています。共演は凹みのないメンバーですが、難役ヴィッテリアを歌うヴァラディと彼女に振り回されるセルヴィリオのベルガンサが堂々たるパフォーマンス。

・バジリオ(W.A.モーツァルト『フィガロの結婚』)
スウィットナー指揮/ギューデン、プライ、ベリー、ローテンベルガー、マティス、オレンドルフ、ブルマイスター共演/シュターツカペレ・ドレスデン&ドレスデン国立歌劇場合唱団/1964年録音
>旧東独の名手を集めた独語版。彼のキャラクタリスティックな歌唱が活きた録音だと思います。バジリオはボーマルシェのお話の中ではフィガロたちにしてやられるのですが、本来はクレヴァーで強かな人物であるということが、シュライアーの知的な歌い口によって感じ取れると言えるでしょう。そう言った側面をより表すためにもアリアは歌って欲しかったですが(ブルマイスターともども折角彼らを起用したのならば歌ってもらえば良かったのに)。アダムとの共演が多いということを上段では述べましたが、キャリアが長いこともありプライともかなりの数共演しており、ここでも奔放なプライの殿様に媚びへつらうシュライアーの臣下というバランスのいいコンビを楽しめます。

・アルフォンソ(F.シューベルト『アルフォンソとエストレッラ』)
スウィットナー指揮/マティス、フィッシャー=ディースカウ、プライ、アダム共演/シュターツカペレ・ベルリン&ベルリン放送合唱団/1978年録音
>何度か登場している本作の決定盤。旧東独の粋を尽くした演奏で、スウィットナーによるオペラ録音の中でも特に優れた完成度だと思います。外の世界を夢見るようなアリアも合唱を伴った勢いのある歌も、ロマンティックな逢瀬の場面も、かなりシューベルトの少年のような理想が入っているように思いますが、如何にもその世界の主人公というこの役に、シュライアーらしい王子様的な声と歌が見事に合致しています。ここで取り上げた録音の中ではティートの次に最近の歌唱ではありますが、声の質感そのものはむしろフレッシュな印象すら与えるぐらいです。今回纏めて聴いてみて意外にもオペラの全曲での共演はそこまで多くない(集められていないだけの可能性もかなり高いですが)F=Dとの重唱も、両者の理知的な藝風が心地よく調和しており、まさしく“アンサンブル”していると言えるのではないかと。マティス、プライ、アダムも悪かろうはずがありません。スウィットナーはこの作品の持つ伊的な歌劇への作曲者の憧れ(そうした歌劇からの影響といった方が適切かもしれません)をうまく引き出しているように感じます。

・アルマヴィーヴァ伯爵(G.ロッシーニ『セビリャの理髪師』)
スウィットナー指揮/プライ、ピュッツ、オレンドルフ、クラス、ブルマイスター共演/シュターツカペレ・ベルリン&ベルリン放送合唱団/1965年録音
>独語歌唱ですが、スウィットナーの精緻で硬めの音楽と歌唱陣の言葉のうまさで自然に聴こえてしまう名盤です(ロッシーニというよりはモーツァルトに聴こえてきますが笑)。シュライアーの歌も、例えばシラグーザの聴かせるような開けっぴろげなバカバカしい貴族というよりは、モーツァルトに出てくるちょっとなよっとした優男を思わせるもの。ある意味ここまで品がいいとこの後『フィガロの結婚』には繋がらないのではと思ってしまうほどです。ここでもプライと素晴らしく典雅なアンサンブル!(プライのフィガロはやはり伊語で歌ったものよりも独語で歌ったものの方が完成度が高いと思う)。共演凹みはないですが、クラスのダース・ヴェイダーのような深い声のバジリオがちょうどいい陰翳をもたらしています。

・イェーニク(B.スメタナ『売られた花嫁』)
・ファウスト(C.F.グノー『ファウスト』)
スウィットナー指揮/アダム共演/シュターツカペレ・ドレスデン/1973年録音
>アダムとのデュエット集ではモーツァルトやヴェルディ、ロルツィングなど幅広くさまざまな作曲家の演目を歌っています(全て独語歌唱)。特に完成度が高いと思うのはこの2つで、いずれの役でも彼らしいクレヴァーな輝きが役柄にはまっていると言えましょう。イェーニクでの抜け目のない軽やかさは同じく俊敏なアダムと丁々発止のやりとりを繰り広げており爽快そのものです!ファウストはこの演目では世界の果てまで調べ尽くした大学者という要素は少なくて脳みそ垂れ流し感のある所謂テノールの役なのですが、シュライアーが歌うことによってより理屈が多い学究肌の人物である感じが出てきます。ここでも交渉慣れしてそうなアダムとのコンビがいい。レコードしか私は知りませんが、CDなどでもっと知られてほしいと思う音盤です。

・マックス(C.M.フォン=ヴェーバー『魔弾の射手』)
C.クライバー指揮/ヤノヴィッツ、アダム、マティス、ヴァイクル、フォーゲル、クラス共演/シュターツカペレ・ドレスデン&ライプツィヒ放送合唱団/1973年録音
>名盤の誉れ高く、また実際優れた演奏だと思うのですが、シュライアー個人のキャラクターを考えるのであれば「鬼っ子」というべき録音ではないかと思います。何と言っても彼の録音の中では群を抜いて重たい役!実際アリアの最後など、普段の彼からするとかなり声を荒げていて、ほとんど破綻寸前の歌唱でしょう。そうした意味でここでのシュライアーの起用が失敗だったという人がいても不思議ではありません。しかし、それでも、やはり、うまい。その破綻ギリギリの歌唱が、単なる声のリソース・オーバーに聴こえるのではなく、スランプに悩み、苦しむ姿にきちんと繋がってくるのです。そしてリリカルな彼が歌うことによって、ドラマティックなテノールが歌うよりもいい意味でなよっとして聴こえることで、マックスの真面目さや神経質さが表現されているように思います。

・魔女(E.フンパーディンク『ヘンゼルとグレーテル』)
スウィットナー指揮/シュプリンガー、ホフ、シュレーダー、アダム、クライマー共演/シュターツカペレ・ドレスデン&ドレスデン聖十字架合唱団/1969年録音
>シュライアー最高の怪演を記録した本作の名盤のひとつです。初めて聴いた時、あの上品で格調高いモーツァルトを歌う人がここまでトリッキーな崩しを聴かせるものかと衝撃を受けたことは鮮明に記憶しています。イヒヒヒ、アハハハという不気味な笑いと異様な作り声、わざとどぎつく発音した子音の印象が勢い強くなりますが、よく聴いてみるとただのおふざけではなく彼一流の丁寧でリリックな歌が基本になっていること、優れた技術がなければできないことをしていることもよくわかるのではないでしょうか。ご承知の通りこの演目で魔女が出てくるのはお話もだいぶ後半になった3幕半ばなのですが、出番がわずかしかないとはとても思えない強烈さです。勢い彼の印象が強くなりますが、スウィットナーの清潔だけれども濃密な音楽も魅力的ですし、共演が素晴らしい出来。主役2人がちゃんと子供たちに聴こえるというのもありがたいところです。
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