オペラなひと♪千夜一夜 ~第百廿四夜/陰翳は濃いほどに慎ましく〜2020-06-04 Thu 20:12
女声を暫く続けます。
……と、言い続けないとまたすぐバスやバリトンに戻りたくなってしまうので、改めて宣言しておきます(笑) 同じメゾながら前回のロードとは全く異なる個性を持ったこの人に登場してもらいましょう。 ![]() Marfa (Khovanshchina) イェレーナ・ザレンバ (Elena Zaremba, Елена Арнольдовна Заремба) 1957〜 Mezzo Soprano, Alto Russia ロードの声は紅の薔薇のような明るさのある音色だと思うのですが、ザレンバはと言うとそれよりうんと深く、暗く、けれども艶やかさでも決して引けを取らない重厚で高級感のある声です。同じように花に例えるならば黒いビオラのようで、際立つ個性を感じさせながらも慎ましやかな印象も持っています。言い方を変えるのであれば、現在活躍している歌手の中でも最も暗い声の持ち主と言っても過言ではありません。また、その低音の響きの豊かさを考慮に入れればアルトといっても差し支えないでしょう。このシリーズで扱ってきた歌手でアルトというとホーンやラーモアですから、最重量級のアルトという言い方もできそうです。 その低い迫力のあるけれどもやわらかな声に加えて、極めて舞台栄えする容姿が、彼女の舞台での存在感を更に引き立てています。単に美しいというところに留まらず、かっこいいのです。妙な言い方ですが堅気の女性ではないような凄みがあるといいますか、「姐御」という言葉がしっくりくるといいますか(笑)。いずれにせよ普通の意味での、捻りのないヒロインを演じて貰うのにはちょっとかえってもったいなくて、もっとエッジの効いた人物、キャラクターの立った役を演じて欲しいと雰囲気を醸し出しています。 ただ、彼女の録音・映像は思いのほか乏しいものがあります。いや、より正確な言い方をするのであれば、それなりの数の録音にも映像にも参加しているのですが、「え、その役なの?」というような小さな役であったり、わずかな出番に甘んじてしまっているところがありまして……贅沢な起用という点では嬉しいものもありつつ、率直に申し上げると役不足で残念になってしまっているものが少なからず(尤も、だからこそ実力相応の大きな役を演じている時の彼女により大きな魅力を見出すこともできるのではありますが)。 そんなわけで今夜は歌姫というよりは個性派歌手という言葉がしっくりくるザレンバを主役に語っていきたいと思います。 <演唱の魅力> 低い方の倍音が豊かで、ダークな音色の個性派メゾ……というここまでの文章を読んで、例えばシミオナートのような狂気をはらんだ熱量のある歌や、先輩のオブラスツォヴァのような馬力のある豪腕な歌唱を想像された方もいらっしゃると思いますが、ザレンバの藝風はそういった熱気や豪快さといったところからは一線を画したものです。むしろ虚心坦懐に彼女の歌を聴けば、そこに感じられるのは耳目を驚かせるような強烈さではなく、捉えようによっては安全運転に終始した地味な演奏にすら思われるような慎ましさではないでしょうか。おそらくですがその実力を以ってすれば、そうした“荒事”めいた歌で劇場を湧かせることも不可能ではないように思いますが、彼女はそれはしない……この燃え上がらない、どこかに冷たいものを宿しているという点が、一風変わった魅力を築いているように考えます。 オペラで歌手の魅力というのはとても複雑な要素が組み合わさって成り立っているもので、楽器=声が卓越していれば感動を呼び起こすわけでもなければ歌が見事であれば良いわけでもなく、さりとて言葉のあつかいや演技が全てでももちろんありません。歌手の持ち味によって効果のある表現は大きく異なります。そして彼ら/彼女らの組み合わせ。居並ぶ名手がお役所仕事のように退屈な駄演に終始することもあれば、凡百な歌手たちが個々人の実力を遥かに凌駕する名演を繰り広げることもあります。全ては微妙なバランスで成り立っているわけです。そうした中でザレンバは、他を圧倒する強い声を持ちながらいたずらにその楽器の強みに頼ることなく、アンサンブルで求められる役割を念頭に置いた歌をうたっているように思います。だから彼女はどんな役を演じても決して悪目立ちすることなく、どんな役でも埋没してしまうことはありません(なにせ歌はとびきりうまいのです!)。こうした芸当ができる知的さ、クールさ、これこそが彼女の冷たい魅力の根源なのではないでしょうか。 そうした無闇に我を張ることのない歌唱が、彼女の舞台での振る舞いや立ち姿のエレガントさとも実に見事に調和しています。声、歌、姿、動作が絶妙な均衡を保っていることで、演じている役そのもののリアリティがぐっと高まるのです。意外なほど小さな役での登場が多いということは先ほど述べましたが、逆に言うとそんな役でもザレンバだからこそ忘れ得ない存在感を聴衆の脳裏に焼き付けることができると言うことなのかもしれません。エレン(С.С.プロコフィエフ『戦争と平和』)やウルリカ(G.F.F.ヴェルディ『仮面舞踏会』)の影が薄かったらあまりにも公演として寂しいですから……。 <アキレス腱> 再三述べてきた通り、歌だけを取り出したときには非常に丁寧ながらおとなしすぎるという印象になってしまうこともあります。その強力な声の響きがあるにしても、外連味に溢れたパフォーマンスが好みという方であれば、食い足りないという感想を持たれても致し方ないかなとは思います。 小さな役であってもその実力を発揮する人ではありますが、手に入りやすい音源や映像では流石に小さすぎる役であることも多く、ちょっともったいない思いをすることも(これは決して彼女自身の実力に由来するマイナスポイントではありませんが)。 <音源紹介> ・マルファ(М.П.ムソルグスキー『ホヴァンシナ』) ボーダー指揮/オグノヴィエンコ、プチーリン、ヴァネーイェフ、ガルージン、ブルベイカー、クラーク、チムチェンコ共演/リセウ大歌劇場管弦楽団&合唱団/2007年録音 >比較的手に入りやすいディスクの中で、彼女の高い実力が最もよく発揮されているのがこの映像でしょう。露国大河ドラマである本作で或る意味最も叙情的な色合いが強いのがこの役ですが、どうしてもアンドレイに振り回される可哀想な女性といっためそめそした役柄に見えやすい一方で、歌としてはオブラスツォヴァのような剛力歌唱をされがちで何となく感情移入しづらいところ、ザレンバは卓越したバランス感覚で説得力のある人物を描き出しています。時代設定を動かしたモダンな演出も相まって、賢くて美しく、そして情深く……と並べられる形容詞はたくさんあるんですが集約するなら兎に角かっこいい!本当にマルファってこんなにかっこよかったんだと圧倒されるほど(笑)。ここでの彼女の演唱を観て軍人や政治家、権威ある聖職者が割拠するこの演目に一本の筋を通しているのはマルファだったんだと認識を新たにした次第です。とはいえ共演男声陣の平均点も高く、とりわけ鷹揚で人間味のある旧時代的な独裁者然としたオグノヴィエンコのイヴァンと、メフィストフェレスのような風貌で暗躍するプチーリンのシャクロヴィートゥイは出色。この演目の現代的な名演として手元においておきたいものです。 ・エレン・ベズウーホヴァ(С.С.プロコフィエフ『戦争と平和』) ベルティーニ指揮/ガン、グリャコーヴァ、ブルベイカー、マルギータ、コチェルガ、オブラスツォヴァ、キット、ゲレロ、プルージュニコフ共演/パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団/2000年録音 >この超大作の中では比較的手に入りやすい映像。あまり露ものっぽくはないですが上記の『ホヴァンシナ』と重なるキャストも多く、完成度の高い演奏と思います。『戦争と平和』の原作を読まれた方ならばエレンは非常に印象に残る蠱惑的な人物として記憶されているかと思いますが、このオペラでは前半の数場にしか登場せず、まとまった歌もないため意外と素通りしてしまいがちです。これに対してここでのザレンバのパフォーマンスは、そんなこの役を最大限に活かしたものだと言えるでしょう。舞台に現れた瞬間から、歌にも姿にもその場の耳目を集める華があるのです。それも健康な美しさを誇る満開の華というよりも、いよいよ散り始める間近というようなもっと爛熟した頽廃的な華の魅力です。まさにトルストイの描いたエレンがそこに居る感じで、知る限りこの役のベストだと思います。主役であるガン、グリャコーヴァ、ブルベイカーもイメージ通りですし、マルギータの軽薄なアナトーリやコチェルガのクトゥーゾフもぴったりです。そして超大物オブラスツォヴァが演じるアフロシーモヴァも作品の世界の立体感を際立たせています。 ・コンチャコヴナ(А.П.ボロディン『イーゴリ公』) ハイティンク指揮/レイフェルクス、トモワ=シントウ、ブルチュラーゼ、ギュゼレフ、ステブリアンコ共演/コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団&合唱団/1990年録音 >本作の代表的な名盤の一つとして知られていると思うのですが、なんとLDかVHSしかないという衝撃的な状況。やや歌舞伎調ながらそれがしっかりとハマる演技ができるメンバーが、卓越した喉を披露している極上の内容ですからDVDかBlu-rayでの復活が熱望されるところです。このころのザレンバは後年と較べると演技の比重こそ軽いものの、所作の美しさもあってその舞台栄えする容貌が目を惹きます。また何と言っても声が素晴らしい!彼女の数ある録音の中でもその声のヴェルヴェットのような高級感ある風合いが最もよく出ているものと言えるかもしれません。視覚的にも聴覚的にもうっとりとした雰囲気が秀逸なのはもちろんのこと、3幕での必死の説得から決然とした行動に移っていくあたりの凛々しさも観ていて気分がいいです(なんでヴラジーミルがいいんだろうか、とは思ってしまいますが笑)。 ・ヴァーニャ(М.И.グリンカ『イヴァン・スサーニン』) ラザレフ指揮/ネステレンコ、メシェリアコーヴァ、ロモノソフ共演/モスクヴァ・ボリショイ歌劇場管弦楽団&合唱団/1992年録音 >こちらもまたかなり古い映像で、演出全盛の現代からみるとあまりにも素朴な舞台ではありますが、演奏のレベルは極めて高く楽しめるものです。ザレンバの声はここでも充実しており、柔らかに響く低音の中に艶やかさや若々しさが感じられ、少年として物語の世界にしっかりと溶け込んでいます。この役では後半に登場する勇壮なアリア(これは単独でもっと歌われてもいいものだと思います)やスサーニンとの長大な重唱が目立つのですが、特に彼女が素晴らしかったのは終幕スサーニンの死を悼む重唱の中でのソロ。派手な嘆き節ではなく禱りにも似た静謐な歌が紡ぎ出され、「スサーニンの愛国的英雄譚」がよくも悪くも本来のテーマであるはずの本作のフィナーレに、家族の哀しみという別の文脈の感情を挟み込むことに成功しているようです。共演ではネステレンコやメシェリアコーヴァもお見事ですが、ソビーニンを演じるロモノソフが圧巻。彼の音源が他に見つからないのは実に残念です。 ・オルガ(П.И.チャイコフスキー『イェヴゲニー・オネーギン』) ゲルギエフ指揮/フヴォロストフスキー、フレミング、バルガス、アレクサーシキン、フシェクール共演/メトロポリタン歌劇場管弦楽団&合唱団/2007年録音 >METのライヴ・ヴューイングにもなった公演で、夭逝したフヴォロストフスキーが当たり役を演じたものですから、彼女の登場しているディスクの中では実は一番手に入りやすいものかもしれません。物語の序盤で活躍し、しかも2幕では意図せず悲しい決闘の撃鉄となってしまうにもかかわらずあまり言及されない人物ですが、小さい役を引き立たせる名手ザレンバの本領が発揮されていると言えるでしょう。キビキビと活発で小気味よい、大変チャーミングなオルガです。レンスキーの詩に対しては正直興味がなさそうで、あからさまに花より団子といった態度でいるのですが、それが嫌味にならない。自然にこうした印象を作っているのですが、これは結構難しいことをこなしていると思います。フレミングのタチヤーナとのコントラストも明確です。 ・アヴラ(А.Н.セロフ『ユディーフィ』) チスチャコフ指揮/ウダロヴァ、クルチコフ、ヴァシリイェフ、バビーキン共演/ボリショイ歌劇場管弦楽団&ソヴィエト・ロシア・アカデミー合唱団/1991年録音 >恐らく全曲盤はこれしかないと思われる、露国のヴァグネリアン・セロフの聖書オペラ。やや地味な気もしますが、東洋風で陰鬱な味わいはユニークですし、ユディーフィ(ユディト)やオロフェルン(ホロフォルネス)といった主役にも際立った個性がありますから、もう少し演奏されて欲しいところです。ザレンバが演じるのはユディーフィの奴隷で、主人の身を案じながらも協力をするという役どころ。アリアでは作中でも最もエキゾチックであるとともに華やかで楽しい旋律を割り当てられていますが、深々とした独特な声の響きで妖しい陰影のある歌となっています。ウダロヴァとは声のコントラストの面でもアンサンブルの面でもぴったり。珍しい演目ですので彼女のような力量のある歌手がうたっているのは嬉しいところ。 ・ウルリカ(G.F.F.ヴェルディ『仮面舞踏会』) リッツィ指揮/リーチ、チェルノフ、クライダー、バーヨ、ローズ、ハウエル共演/ウェールズ国立歌劇場楽団&合唱団/1995年録音 >露もの以外での登場もいくつか……と思ったのですが意外とそうなるとヴェルディがならびます。所謂「超名盤のヴェルディ」に比べると軽量級なイメージではありますが、リッツィの勢いのある指揮のもと重厚すぎない声の人たちが歌い上げた、手垢のついていない清新で明快な演奏です。この傾向はザレンバにもはっきりと顕れていて、迫力で押されがちな予言のアリアをはじめ大仰な力みはない一方で、声そのものの翳のある響きで怪しさを感じさせます。これによりウルリカにおいてアズチェーナのような妖婆という印象は薄まり、むしろ超常的な能力を持つミステリアスな人物としての側面が際立っているようです。ある意味でこれも出番の限られたワンポイントの役で彼女が手腕を発揮している一例と言えそうです。 ・フェネーナ(G.F.F.ヴェルディ『ナブッコ』) オーレン指揮/ブルゾン、グレギーナ、フルラネット、アルミリアート共演/東京交響楽団&オペラ・シンガーズ/1998年録音 >エネルギッシュな名盤。こんなナブッコが東京で演奏されたのかと思うと、この時分子供だったのが残念でなりません。異形のヒロインを火の玉のようなパワーで演じるグレギーナに対し、ザレンバは落ち着いた色調の奇を衒わない歌で、動と静の対比がくっきりとついています。しかしかと言ってそれで記憶に残らないような人物には堕しておらず、4幕での祈りは短いながらも感動を呼ぶものです。 ・カルメン(G.ビゼー『カルメン』) ・レオノーラ・ディ=グスマン(G.ドニゼッティ『ラ=ファヴォリータ』) ・盲女(A.ポンキエッリ『ジョコンダ』) シャンバダル指揮/ベルリン交響楽団/2001年録音 >彼女の魅力が凝縮されたアリア集から。幅広い役柄が収録されていますので選ぶのも忍びないのですが3つ挙げておきます。一つめのカルメンはシコフとともに東京で歌ったのだそうですが(これも観られていない!泣)、ここまでと同じくいい意味でさっぱりとした役作り。そしてだからこそハバネラやセギディーリャよりも、カルタの歌での沈鬱な低音が聴きどころ。占いの結果への得体の知れない恐怖を垣間見ることができるようです。レオノーラは彼女にとっては数少ないベル・カントものの録音ですが、改めて歌のうまさ、美しい旋律を描き出す技術の高さを窺えます。また王の妾であるヒロインの影のある感じがとてもよく合っていて、全曲歌って欲しかったところ。そしてジョコンダの母の盲女。彼女の実力があればもちろんより大きな役であるラウラでも十分説得力のあるパフォーマンスをできたでしょうが、ある種の軽さ・明るさのあるあの戀仇よりも、悲劇を予感させるような暗さのあるこの役の方が、たとえ小さくてもザレンバの持ち味が活きるだろうなと率直に思わせる名唱です。 スポンサーサイト
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