オペラなひと♪千夜一夜 ~第百三十三夜/たたきあげの名歌手〜2022-12-03 Sat 10:28
今年はルートヴィヒのために随分と時間を費やしました。あれだけ長くかけるとつい共演の多い人にも自然と耳が向いてしまうもので、ちょっと書こうかなと考えていた候補たちを一旦置いて、今回はルートヴィヒと縁浅からぬ人のご紹介をすることにします。
![]() Frank ヴァルター・ベリー(ワルター・ベリー) (Walter Berry) 1929〜2000 Bass Baritone Austria 愛嬌満点の喜劇的な人物からドスの効いた悪魔のような敵役、堂々たる政治家に子どものことで思い悩む父親など低音パートに与えられた多彩な役柄を網羅し、そのいずれでも忘れがたい歌唱を遺している稀代の名優です。ルートヴィヒとはモーツァルトやヴァーグナー、リヒャルト・シュトラウス、プフィッツナーなど独ものを中心に、珍しいところではロッシーニやバルトークにいたるまで数多くの演目で共演しています。一時的に夫婦であったことを指摘する向きもありますが、実際耳を傾けると何より仄暗さのある音色同士の相性が良く、個人的な関係を無理に取り沙汰するところではないような気がします。離婚後も少なからず一緒に舞台に乗っていますし、むしろ仕事における名コンビであったという方が適切なのでしょう。 彼もまたバス&バリトン黄金の年である1929年に生まれていますが、ハイバリ系のプライやヴェヒター、カプッチッリとも、どうひっくり返ってもバリトンとはなり得ないしっかりしたバスのギャウロフとも異なるバス・バリトンという声質で、同期たちとは全く違うキャリアを歩んでいます。音域の広さは驚嘆すべきで、パパゲーノ(W.A.モーツァルト『魔笛』)を当たり役とする一方で、オックス男爵(R.シュトラウス『薔薇の騎士』)までものにしていた歌手は彼ぐらいではないでしょうか。また、僕自身はあまり聴き込めてはいないのですが現代オペラもたびたび歌っていたようで、作品唯一の録音となっている音源に登場していることも間々あります。このあたりはヴィーンで叩きあげられてきたという経歴によるところもあるのかもしれません。 昔から大好きな歌手ですが、僕は恐らく彼の本領が示された録音よりも、今では珍しい独語翻訳されたものに親しんでいるので、生粋のファンの方からすれば「え?そこなの?」と思われるところは大いにありそうです。そういう意味でかなり偏った評になることを危惧はしつつ、折角なのでそうした演目でも聴きとれる彼の器用さをお伝えできればと考えています(もちろん、これまで同様に後日の加筆は増えると思いますが!笑)。 <演唱の魅力> パパゲーノという役は、『魔笛』の作曲を依頼したシカネーダーという劇場支配人のためにモーツァルトが当て書きしたもので、有名で聴きどころにも恵まれているものの、譜面そのものは必ずしも難しいものではないのだそうです。さりとて出番がたくさんありますから十人並みの歌い手で安価な満足が得られるようなものではもちろんなく、この役の弱さが公演全体の足を引っ張ってしまうという事態は充分に考えられます。歌や声のよしあしももちろんですが、単に立派な“楽器”が必要ということではなく、むしろしんねりむっつりとした側面もあるこの演目において、愛すべき不真面目な道化であることが感じられるような、軽薄さと人間くささが重要です。ヘルマン・プライはこの点で、まさに文句のつけようのない天真爛漫な歌唱を遺していますが、彼と比肩しうる同時代の名パパゲーノとして、今回の主役ヴァルター・ベリーも忘れるこはできないでしょう。 とはいえ如何にも明るく華やかな声を持ったリリック・バリトンのプライに対し、バス・バリトンのベリーでは一声で響きの印象がまるで違います。彼の声は若いころからはっきりと低く、暗く、力強い音色ですから、ことによると笑いとは縁遠い厳格な表情の歌唱に終始しそうな気配すらあります。実際、のちほど詳しく述べますが、クリングゾル(R.ヴァーグナー『パルジファル』)やジョヴァンニ・モローネ(H.プフィッツナー『パレストリーナ』)、ザッカリア(G.ヴェルディ『ナブッコ』)での彼の歌唱は、むしろその声のドラマティックさや暗い色彩に重きを置いたものです。実力の高さを考えれば、それら生真面目なレパートリーだけでも卓越した歌手として記憶されただろうとは思います。しかし、それでもベリーを語る上では、先述のパパゲーノやレポレロ(W.A.モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』)、ファルケとフランク(J.シュトラウス2世『蝙蝠』)、オックス男爵(R.シュトラウス『薔薇の騎士』)、ケツァール(B.スメタナ『売られた花嫁』)といった愉快な紳士たちを隅に置くことはできません。 こうした演目での彼の奮闘ぶりを視聴して感じるのは、歌と話し言葉の高次の融合です。もちろん「それがオペラというもの」ですし、ブッフォをレパートリーにする歌手にとっては前提条件であることは言をまちません。けれども、近い活躍で記憶に残る名歌手たち−−レナート・カペッキやガブリエル・バキエ、そしてここでも取り上げたいとずっと思っているジュゼッペ・タッデイ−−と比較しても、ベリーの卓越ぶりには目覚ましいものがあります。モーツァルトやオペレッタなどではレチタティーヴォや科白と歌がはっきりと区別されるわけですが、そうした演目でも両者の間の往還が自在で、語りから気取りなくすっと歌に入ってしまいますし、逆に朗々とした歌の最中にふっと語りを感じさせるのです。 妙な言い方ですが「声を使い切らないこと」の巧さがひょっとすると1つポイントなのかもしれません。上述した通り彼の声は本来かなり重厚で立派なのですけれども、フルパワーで響きを聴かせている場面は意外にも限られているように思います(たっぷり歌われたものとしては若い頃のザッカリアやエスカミーリョが挙げられるでしょう)。むしろ鳴りを適度にコントロールすることで、微妙なニュアンスや人間らしい語りをさし挟む余地を生み出して、彼らしい柔軟で表情豊かな歌唱を実現しているのかなと。陽気で屈託のない笑顔とは裏腹に、繊細で精妙な藝です。 所詮は素人の妄想に過ぎないのですが、音源以上に映像での舞台人としての彼のパフォーマンスを観ていると、こうした考えは強くなります。印象としては「演技のうまいオペラ歌手」ではなくて、「異常に歌のうまい役者」です。科白回しに閉じる話ではなく所作も含めて芝居としての自然さをベースにしながら、必要とされるところで歌うというスタイルに見えるのです。歌と言葉が高い次元で融合されていることも、歌い上げることに流されることがないのも、芝居がベースになっていると考えるとつながってくるように思われるのですがいかがでしょうか。 <アキレス腱> 上記のようなパフォーマンスをする人ですから、特にライヴですと歌っている中で普通に笑ったり泣いたりといった感情表現が介在します。僕としてはその自然さに毎度感心しきりなのですが、当然ながらそもそも楽譜や台本に書かれているものではありませんから、音楽の流れが途切れてしまうとか過剰だという印象を持つ方もいらっしゃるかもしれません。 また音域が広いがために、かなり音が高い役も逆にバスとしても低い音が含まれる役も演じているため、そうしたキメの音のカタストロフに欠ける録音があるのも事実でしょう(それでもしっかり鳴りはしているのがすごいのですが)。 <音源紹介> ・パパゲーノ(W.A.モーツァルト『魔笛』) サヴァリッシュ指揮/シュライアー、ローテンベルガー、E.モーザー、モル、ミリャコヴィッチ、ブロックマイヤー、アダム共演/バイエルン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1972年録音 >既に何度かご紹介していますが、個人的には全体のバランスでは最高の『魔笛』だと思っています。今にして思えば了見の狭い話でお恥ずかしいのですが、「パパゲーノはやっぱりプライ」という考えが強かった自分に、鮮やかな対案を示してくれたのがここでのベリーでした。プライの生きることの喜びに溢れた子どものような歌唱に対して、ある意味で彼はもっと泥臭い鳥刺し像です。貴族的な洗練からはほど遠く、下町のおじさんのような快活さや率直さを感じます。言ってしまえば上品さからは距離のある演唱ではあるのですが、彼がこの二面的な作品において“崇高な宗教劇”ではなく、庶民の楽しみであるジングシュピールの人物を代表していることを考えれば、さもありなんといったところでしょう。個人的には寅さんを思い出すのですが、あの映画を愛した観衆を考えるとそう遠くはないかもしれません。 ・レポレロ(W.A.モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』) クレンペラー指揮/ギャウロフ、クラス、C.ルートヴィヒ、ゲッダ、フレーニ、モンタルソロ、ワトソン共演/ニュー・フィルハーモニア交響楽団&合唱団/1966年録音 >クレンペラーの重心の低い音とドラマティックな世界は今風でこそありませんが、この作品の持つコントラストをはっきりと感じさせる超名盤であることは現代でも変わらないでしょう。ギャウロフのDGにベリーのレポレロというと響きを考えるといかにも重いぞ強いぞという演奏を想像してしまいますけれども、馬力を活かしながら鈍重には決してならない暴れっぷりが痛快ですらあります。彼のレポレロは一言で言うなら「強か」で、ちょっと確信犯的な側面も透けて見えるようです。確かに破壊力抜群のDGに振り回されてはいつつも、おこぼれをもらう時にはもらい、女は口説き、都合が悪くなったらあっという間に逃げていくのが非常にうまい。きちんとDGのネガになっていると思います。特にDGに変装してエルヴィーラを口説くところは傑作で、「ギャウロフの声真似をするベリー」と言う他では決して聴くことのできないものを楽しめます。 ・フィガロ(W.A.モーツァルト『フィガロの結婚』) スウィットナー指揮/ギューデン、プライ、ローテンベルガー、マティス、オレンドルフ、ブルマイスター、シュライアー共演/シュターツカペレ・ドレスデン&ドレスデン国立歌劇場合唱団/1964年録音 >今時流行らない翻訳演奏だという理由だけでスルーするのはあまりにももったいない名盤。ベリーの声の音色もあって聴き慣れた歌唱と較べるとやや暗い印象こそありますが、自在に操れる母語であることによって増している生命力の前では大した問題ではありません(彼は伊語もうまいんですけどね笑)。とりわけ早口でまくし立てるところなどは、陽気な皮肉を交えて一席ぶつフィガロの姿が目に浮かぶようです。彼の自由さは、プライがコミカルに演ずる保守的な伯爵とは好対照で、2人でこの作品の対立軸をしっかりと示しています。 ・音楽教師(R.シュトラウス『ナクソス島のアリアドネ』) ベーム指揮/ヤノヴィッツ、キング、グルベローヴァ、バルツァ、ツェドニク、クンツ、マクダニエル、エクヴィルツ、ウンガー、ユングヴィルト共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1976年録音 >こんなメンバーの演奏が存在することだけでも驚きですが、これが実演なのがまたすごい。残念ながら映像がないとは言っても、この演目を知る上で欠かせない名演でしょう。出番も僅かですしまとまった歌もありませんが、作品のフレームワークとして重要な第1幕の狂言回しとして重要な音楽教師は、歌手によって解釈が分かれるところだと思います。ベリーのこの役はとにかくよく笑うと言う印象。自らの藝術的理想に固執するあまり神経質になっている作曲家やしっちゃかめっちゃかな芸人一座、職業上のライバルである舞踏教師に、藝術を解さない執事長などというとんでもない面々に囲まれていても、笑うことで交渉し、取り繕い、舞台の世界で長年生きてきたプロという感じがします。オーバーなバルツァやよく喋るツェドニクといった悩みの種があったとしても、彼の音楽教師ならば生き抜いてくれるに違いありません。 ・オックス男爵(R.シュトラウス『薔薇の騎士』) バーンスタイン指揮/C. ルートヴィヒ、G.ジョーンズ、ポップ、グートシュタイン、ドミンゴ共演/WPO&ヴィーン国立歌劇場合唱団/1971年録音 >あの2幕の最低音を引き合いに出すまでもなく全体に低い音が多いですから、ベリーにとっては厳しくもあったのではないかと推測するのですが、当たり役のひとつと言っていいでしょう。優美で優雅な貴族性と図々しくて遠慮のない野卑さとが不思議な同居を繰り広げる彼の持ち味、面白さが一番引き出されているのはこの役なのかもしれません。ここでの彼の歌を聴いていると、オックスはいやらしくて下品な田舎者ではあっても、単なるものを知らない愚か者ではなくて、むしろある程度高い身分に生来あって、そのしきたりや所作が完全に肉体化されていて、なおかつその中でのゲームの勝ち方を知っている賢しさがあるからこそ質が悪いのだと言うことに気付かされると思います。他方で聴き手としてはそんな狡さも承知しつつ、うきうきで歌うワルツにはついほだされてしまうのも確かです。心底は憎めない魅力をきちんと放つことができるのも、ベリーの芝居人としての老獪さ、手腕の確かさなのでしょう。 ・ファルケ博士(J.シュトラウス2世『蝙蝠』) グルシュバウワー指揮/ヴァイクル、ポップ、グルベローヴァ、ファスベンダー、クンツ、ホプファヴィーザー共演/WPO&ヴィーン少年合唱団/1980年録音 >ベリーはこの役もお得意でしたから、音源でもヴェヒターやクメントといった名アイゼンシュタインとの快演を遺していて、それらも捨て難いのですけれども、やはりこの映像の魅力にはあらがいがたいものがあります。華やかなお祭りの雰囲気が欠かせない演目ですから、これだけスター揃い踏みとなればそれだけで盛り上がりますが、この映像をそれ以上に陽気で清々しい笑いで楽しませている功労者はベリーではないでしょうか。ファルケは黒幕だからこそいろいろな演じられ方をされますし、ちょっと陰険で苦味のある面白さを引き出すこともできるのですが、彼はおそらく敢えてこの役の狡賢い復讐者としての色調を抑えて、とぼけた愛嬌を与えています。その屈託のない人の良さそうな笑みを見ていると、そりゃあ悪戯のカモにされるだろうなという感じですし、要所要所で絶妙におマヌケで隙があるのです。それは例えば1幕のアイゼンシュタインとの重唱で決め所を持っていかれて悔しがっているところであったり、2幕でイヴァンの喋りを理解できずに腹を立てたりといったところにはっきりと見て取れるでしょう。この詰めの甘さがあってこそ、ファルケに親愛の情を持てる気がするのは、おそらく僕だけではないのではないかと思います。 ・フランク(J.シュトラウス2世『蝙蝠』) シルマー指揮/プライ、マッティラ、コヴァルスキー、リーンバッハー、ヘルム、ホプファヴィーザー共演/WPO&ヴィーン少年合唱団/1994年録音 >僕自身は長いことフランクという役は『蝙蝠』でも重要で大きな役だと思い込んでいたのですが、実際には歌のパートはブリントについで短いのだそうで驚いた覚えがあります。今回記事を書くために改めてこの映像を観て、その思い込みの源が他でもないここでのベリーの快演だったことに気づくことができました。ファルケで見せていた可愛らしさからは打って変わって、小心で偉そうなんだけれども滑稽で憎めない小役人といった風情です(どちらもシェンク演出なのでその差が更に目立つように思います)。1幕の終わりアイゼンシュタインの逮捕のために現れたところから人の好さそうな雰囲気を取り繕っていつつ、内心は早く晩餐会に行きたくて仕方がないという演技が最高です。科白のないところでも「おい、もう流石にいい加減にしろよー!」とか「あちゃー、見てらんないや!」といったことが伝わってきます。続く2幕では同い年のプライとの円熟の掛け合いがお見事!実際どうだったのかはわかりませんが、ファルケのヘルムも同年代なこともあり、おじさん達3人の同窓会というような気の置けなさや和やかさがあって、ほのぼのしてきます(プライもベリーも声そのものは流石にかなり衰えを感じるのですが、それを補って余りある愉快さです)。そして3幕でのゴキゲンな酔っぱらいぶりこそ、彼の藝の一つの頂点と言えるかもしれません。単に見事な喉を披露するでも科白捌きや表情づくりのうまさを見せるではなく、オペレッタとなかでそれらが見事に調和しています。口笛の達者さにもびっくりです!(笑)コヴァルスキーやマッティラ、リーンバッハーもよいので、NHKはこれを真剣に販売して欲しいのですが……。 ・ドン・ピツァロ(L.v.ベートーヴェン『フィデリオ』) フォン=カラヤン指揮/C.ルートヴィヒ、ヴィッカーズ、クレッペル、ヤノヴィッツ、クメント、ヴェヒター、パスカリス、パンチェフ共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1962年録音 >続いては独墺ものでもシリアスな方面へ。何でも演じられる幅広さがあるが故か、こういう“真っ黒な悪役”はかえってあまり取り上げていないようです(今回あげたものの中だとあとはクリングゾルぐらいでしょうか)。それでもいざ演じると完全にハマってしまうのが名優の名優たるところで、普段の人懐っこさはどこへやらギラギラとした邪悪さを放っています。レオノーレたちへの態度ももちろんですが、ロッコに対しても苛烈で他の歌手たちと比較してもとりわけサディスティックな色彩の強い歌唱だと思います。この演奏ではルートヴィヒとヴィッカーズの2人がライヴらしい切れ味抜群の歌を聴かせているので、ともすると主役以外が霞んでしまいかねなかったと思うのですが、彼のピツァロのエッジが立っていることで、公演としてもバランスが取れているようです(そして同様のことはクレッペルやヤノヴィッツといった実力ある面々にも言えます)。フォン=カラヤンの重厚でパワフルな音楽もこの演目にはぴったりでしょう。 ・フリードリッヒ・フォン=テルラムント(R.ヴァーグナー『ローエングリン』) ベーム指揮/J.トーマス、ワトソン、C.ルートヴィヒ、タルヴェラ、ヴェヒター共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1965年録音 >テルラムントは気位が高い貴族であり少なからぬ実力もある武人にもかかわらず、無双の英雄ローエングリンやおぞましい魔力と計り知れない恨みを抱くオルトルートといった常人ではない面々に囲まれてしまったがために不本意ながら情けない役回りになってしまっている人物だと思います。意外とこのバランスというのは難しくて、カッコ良いイケメンになりすぎてしまうと常人らしい悲哀から遠くなってしまいますし、かといってあまりにも弱々しくて軟弱では物語のパワーバランスとして緊張感を欠くことになるでしょう。重厚で力強い声を持ちながらも人間臭い嘆きや惑いを得意としているベリーは、こうした意味で理想的な配役です。外面的には立派で堂々としているけれども、思惑が外れたばかりか妻である魔女の口車に乗せられて騎士道精神すら踏みはずすことへの葛藤はリアルですし、この公演ではとりわけキレッキレなルートヴィヒとのバランスもお見事。この悪役夫婦の理想的な歌唱の一つと思います。彼らだけが突出しているわけではなく、トーマスはじめその他の共演陣も秀逸ならベームの熱血の音楽も含めて本作屈指の名盤です。 ・クリングゾル(R.ヴァーグナー『パルジファル』) フォン=カラヤン指揮/ウール、ヘンゲン、C.ルートヴィヒ、ホッター、ヴェヒター共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1961年録音 >どうにも僕は『パルジファル』向きではないようで、何度聴いてもクリングゾルが一番面白い役に思えてしまうのですが、ここでもやはりベリーに魅力を感じます。数ある彼の歌唱の中でも最もドラマティックな部類ではないでしょうか。声の重さのみならず歌い口にもただならぬ迫力があって、およそこの世の善なるものの全てを恨んでいるのはもちろんのこと、嘲弄のまなざしを向けていることが明白であるようです。ファルケやパパゲーノでの無邪気な印象からは考えられないほどのどす黒いオーラを纏っており、クンドリを裏で操る堕落した魔法使いとしての凄みには事欠きません。全体に演奏は良いもののどう言うわけだかフォン=カラヤンはクンドリを2人1役としていて、ヘンゲンも決して悪くはないのですが、2幕後半のみに登場するルートヴィヒを聴くと全曲彼女にやって欲しかった感じがします。 ・ジョヴァンニ・モローネ(H.プフィッツナー『パレストリーナ』) ヘーガー指揮/ヴンダーリッヒ、フリック、シュトルツェ、クレッペル、ヴィーナー、ヴェルター、クライン、カーンズ、ウンガー、ユリナッチ、C.ルートヴィヒ、レッセル=メイダン、ケルツェ、ポップ、ヤノヴィッツ共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1964年録音 >骨太な現代オペラの名作。空転するトリエント公会議の様子を描写したスケルツォ的な立ち位置の第2幕は、戯画化された数多くの登場人物が目まぐるしく入れ替わるのを楽しむような場面です。ですから単に主人公であるパレストリーナがいないというのみならず、幕として主役らしい主役が不在なのですが、それでもモローネは重要でしょう。教皇補佐官として大真面目に演説をぶって会議を進行する一方で、野次や混乱に悩まされるこの役は、シリアスにも(例えばフェルディナント・フランツ)ほんのりコミカルにも(例えばヴァイクル)演じられると思うのですが、ベリーは絶妙な匙加減でどちらにも寄りすぎない、生身の人間らしさがあります。より具体的に言うならば上質な声による厳かなソロは実際感動的な一方で、ブドーヤの司教の茶々にいちいちイライラするところは滑稽でもあり、簡単に割り切れない多面性を持っているのです。この辺り、踏んでいる場数と演じている役の幅の広さが如実に出ているのかもしれません。第2幕での共演者ではアクの強いシュトルツェ、ウンガー、クラインの3人のテノールが傑出しています。 ・ヴォツェック(A.ベルク『ヴォツェック』) ブーレーズ指揮/I.シュトラウス、ウール、ヴァイケンマイアー、デンヒ、ヴァン=ヴルーマン共演/パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団/1966年録音 >包み隠さず申し上げればあまり理解の進んでいない作品ではあるのですが、それでもここで取り上げない訳にはいかないと思いました。題名役たるヴォツェック自身は出ずっぱりではあるものの、前半はむしろ大尉やマリーや医者といった人物たちに気圧されるかのように歌も語りも断片的なのですが、ベリーは敢えて籠ったもごもごとした喋りに終始することで、彼が受けている抑圧を描いているようです。但し、そこには少しずつ幻想に憑かれる様が的確に埋め込まれていて、凶行から自殺に至るまでの流れが非常に有機的に、自然につながっています。このあたり流石は芝居巧者らしく、正気を失っているおぞましさをまとっているのみならず、観ている/聴いている側も自分とヴォツェックが地続きであることに気づかされるような凄演です。 ・ケツァール(B.スメタナ『売られた花嫁』) クロンプホルツ指揮/ストラータス、コロ、ツェドニク共演/ミュンヘン放送管弦楽団&バイエルン放送合唱団/1988年録音 >チェコの作品は言葉の壁もあって昔から独語訳で演奏されてきたようで、ここから3作チェコものを続きます。こちらはそんな独語演奏の中でも指折りの名盤でしょう。ジングシュピール的な軽さと、民族音楽らしい愉悦に加えて、随所にはっきりとヴァーグナーの影響を匂わせるクロンプホルツの指揮が素晴らしいですし、リリック且つ輝かしい強さのあるストラータス、コロ、ツェドニクもお見事です。ベリーはこの時には既に還暦間近だったはずですが、一回り下の世代の彼らと並んでも全く遜色のない張りのある美声を響かせており、まずは声で圧倒されます。加えてそのフットワークの軽さ、特に登場の3重唱でマリーの両親をあの手この手で言いくるめようとする早口の機動力にはニヤリとさせられるでしょう。乾杯の歌は相当低い音が出てくるので、苦労している感じこそありますがそれでもしっかり響かせています。そしてやはり忘れてはならないのはコロとの重唱ですね。ヴァーグナー歌いとしての馬力もある彼らが歌うことによる充実感は忘れ難いものです。 ・水の精(A.ドヴォルジャーク『ルサルカ』) プロハスカ指揮/シュナイダー、クメント、レッセル=マイダン、シェイラー共演/オーストリア放送交響楽団&トーンキュンストラー合唱団/1954年録音 >ドヴォルジャークのオペラとしては最も有名な作品でしょう。どうもそもそも放送音源だったようで繰返しを中心にかなりカットが入っており、CD3枚しっかりある作品が2枚でもおまけがつけられるぐらいの長さに切り詰められてこそいるものの、独風のシンフォニックな響きに民謡調の鄙びた空気をうまく融合させた、悪くない演奏だと思います(同じ合唱団のはずですが次の『ジャコバン党員』よりも合唱の出来もだいぶ良いです)。ベリーは登場場面からあたたかみのある声と歌唱で、ルサルカたち水の妖精の父親としての情愛を感じさせます。そして、その深い感情があるからこそ、悲劇を予見してからの哀しみと悩みの深さがリアルです。荒々しさこそありませんが、本格的なバスが歌った時には抱いたことのないリゴレットの嘆きへの近さもあるような気がします。共演の歌唱陣は皆レベルが高いですが、とりわけクメントの張りのある声が出色です。 ・ハラソフ伯爵(A.ドヴォルジャーク『ジャコバン党員』) テンナー指揮/アグレッリ、アルトルド、クメント、ラートハウシャー、ヘッペ、ウール共演/ヴィーン放送管弦楽団&トーンキュンストラー合唱団/1952年録音 >こちらもベリーが20代とは思えない老成ぶりを聴かせる録音……と言うか改めて録音年を見ると水の精が25、ハラソフが23の時の歌なのですね!同い年のクメント、1つ上のウールもそうですが、ちょっと驚異的な安定感。結構盛大なカットや放送音源らしいナレーションの挿入、独語歌唱もあって、全体としては必ずしもこのドヴォルジャークの隠れた傑作の真価を伝えているとは言い難い演奏なのですが、双葉より芳しい栴檀を知ることができるのは嬉しいものです。伯爵は終幕にしか登場しないとはいえ、一度放逐した息子を赦すとともに、仇を追放するという父親としての悩みと貴族の対面、そして機械仕掛けの神としての役割まで与えられた難儀な役柄で、実際ベリーぐらい恵まれた声と表現力がなければ説得力がなくなってしまうでしょう。アリアも良いですがウールの演じるベンダとの短いやり取りも感動的です。初めて作品を知る人には、原典通り捷語で歌われたピンカス盤やアルブレヒト盤を推しますが、看過するには惜しいところもあると言えるでしょう。 ・ジュリオ・チェーザレ(G.F.ヘンデル『エジプトのジュリオ・チェーザレ』) ライトナー指揮/ポップ、コーン、C.ルートヴィヒ、ヴンダーリッヒ、ネッカー、プレーブストル共演/ミュンヒェン交響楽団&バイエルン放送合唱団/1965年録音 >大変失礼なことを承知で言うと、あまり期待をしないで聴いたらびっくりするほど良くて、自分の思い込みを恥じた演奏です。もちろん現代のバロックを聴く耳で接すると、かなり重厚長大路線なのは間違い無いですし、しかも独語なのですが、不思議なほど色調が明るいのです。古典歌曲集を聴いているかのような清々しさがあると言いますか。そうした印象となっている理由の一つとして、ベリーのソフトタッチでまろやかな発声と格調高い歌い回しがあるのは間違いないでしょう。彼ぐらい重たい声ではともすると鈍重になってしまいそうな細かな動きですら、軽やかなのです。もちろん本来この役が書かれたカストラートに近いカウンター・テナーやアルトと較べて遜色がないわけではないのですけれども、低いどっしりとした声で歌われるからこその英雄然とした雰囲気もそれはそれで魅力的で、一概に切り捨てられないと思います(それはコーンの歌うトロメーオにも言えるでしょう)。騙されたと思って一度聴いてみて欲しい秀演です。 ・ダンディーニ(G.ロッシーニ『チェネレントラ』) エレーデ指揮/C.ルートヴィヒ、クメント、デンヒ、ヴェルター、ルーズ、D. ヘルマン共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団/1959年録音 >モーツァルトのようなメンバーで演じられた、モーツァルトのような独語版演奏です。カットも激しいのでロッシーニを聴いた満足感には乏しいものの、個々人の演奏の完成度は高くて聴きどころには富んでいます(デンヒはちょっと浮いてますが)。ベリーはマニフィコも歌っているようですし、おそらくそちらも見事なのだろうと想像はしつつ、フィガロやレポレロでも感じられた、権力への斜に構えた視線、皮肉っぷりがここでも生きていて、庶民の強かさを備えているようです。登場のアリアは、もちろん今の耳で聴くとコロラトゥーラに厳しさはあるものの、彼ぐらいの重さでごろごろ歌うからこそ出る面白さもあります。ヒロイックで最重量級と思われるクメントの王子との声のバランスも心地よいです。また、ここでのデンヒはあまり趣味ではないのですが2幕の重唱はご両人の言葉捌きが巧みで愉快痛快(笑)。 ・ザッカリア(G.ヴェルディ『ナブッコ』) クロブチャール指揮/コロンボ、シャイラー、ヤヴァノヴィッチ、ツラビンガー共演/ヴィーン放送管弦楽団&ヴィーン国立歌劇場合唱団/1955年録音 >世にも珍しい独語版『ナブッコ』(なぜ伊人のコロンボをわざわざ連れてきたのに独語で歌わせているのかはさっぱりわかりません)。正直なところベリーにヴェルディのイメージはありませんが、堂々たる歌には惚れ惚れします。とてもではないですが20代の完成度ではないです笑。既述のとおり彼が惜しげもなくたっぷりと喉を披露している録音は意外と少ないので、見事な“楽器”を楽しむという側面で貴重ですし、この血の気の多い宗教指導者には存外かなりしっくりきます。共演はそこそこといったところですが、クロブチャールの音楽はかっちりとしつつ熱量もあって魅力的です。 スポンサーサイト
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