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Don Basilio, o il finto Signor

ドン・バジリオ、または偽りの殿様

オペラなひと♪千夜一夜 ~第十夜/偉大なる縁の下~

いきあたりばったりにのらりくらりと書いてきたこの企画もついに第十夜に突入しました。折角の切り番なので今回はちょっと趣向を変えて。
ということで書いていたこの記事なのですが、そもそもが10年以上も前に書いたものということもあってどうにもこうにも完成度が高くない内容だったので、全面的に書き直すことにしました。かといってこの新しい内容がハイレベルかというと、そんなこともないとはおもうのですが……。(2019.10.30)

僕自身そうなのですが、どうしてもオペラと言うと目立つアリアやアンサンブルのある大きな役に目が行きます。しかし一方でなかなかどうして大切なのが合唱。素人考えだと「話の流れからすればその他大勢ではないか」とも思ってしまいがちなのですが、このひとたちが演奏面はもちろんのことながら演技の面でもしっかりして呉れないと、公演全体が締りのないものになってしまいます。そういう意味でオペラには脇役はいないと言うことができるのかもしれません。

Chorus.jpg
Gli ebrei

と大風呂敷を広げておいて、ほんとならここでオススメの合唱団とかをご紹介できればカッコいいのでしょうが、残念ながら僕自身は合唱経験も知識も持ち合わせておりませんので、オペラの中での合唱の扱われ方、とりわけ主役として扱われれている合唱を見て行きたいなと思っています。

オペラはそもそもどんなところからスタートしたかと言えば、希国の古典悲劇の復活を意図して始まったという歴史があります。そういう意味で古典悲劇における合唱がどんなものかと言いますと、登場人物が語り得ないものや物語の進行を担うコロスと呼ばれるものでした(もちろんこの言葉がchorusの語源)。こうした役割ですから古い時代のオペラにおいては合唱はどちらかというと無性格なものであり、場面を盛り上げたりする以上の役目を与えられているとは言い難いかと思います。それは例えばW.A.モーツァルトの有名オペラを眺めても、合唱が強い個性を発揮しているものが多くないことを考えても納得できるのではないでしょうか。敢えて言えば『ドン・ジョヴァンニ』の地獄堕ちはあげられますね。

さて伊国において聴きごたえのある音楽と言いますと、G.ロッシーニあたりから漸く登場するイメージでしょうか。それは例えば『モゼ』の祈り“天の玉座から” であったり、『グリエルモ・テル』のフィナーレ“ここではすべてが成長し”であったりといった作品です。ただしどちらも合唱の名曲として取り上げられますが、お聴きになるとお分かりの通りソリストたちに続いて合唱が登場するかたちで、実は純粋に合唱が主役と言う感じではないですね。どちらかというと大アンサンブル。合唱自体が曲の終わりをダイナミックにしていくために入ると言う趣のもので、過去の合唱の役柄としての扱われ方とそう多くは違わないようです。そういう意味では後輩のG.ドニゼッティやV.ベッリーニもあまり大きく変わらないでしょう。
そんな作品が多かった伊国のオペラの合唱でもついに合唱という役柄に個性が与えられた名曲が生まれます。
G.F.F.ヴェルディの『ナブッコ』です。

ここでの合唱は状況説明的な歌詞以上に、民衆としての個性が感じられます。不信心な異国の王に襲われた混乱、裏切り者の同胞への呪いの言葉、神への静謐な祈りなど非常に人間的な感情を持った集団、民衆、大衆というべきもので、6人目の主役と言ってもいいでしょう。とりわけ有名なのは、ヘブライ人の合唱“行け、わが想いよ金色の翼に乗って”です。喪われた祖国への思慕を歌ったこの曲は、ほとんどアリアと言ってもいいような内容だと思います。ちなみに余り知られていませんがこのあとでヘブライの大祭司ザッカリアが登場して歌うアリア“未来の暗闇の中に”でも合唱はソリストとかなり緊密に絡んで再興を誓います。“行け、わが想いよ”に隠れてしまいがちですがこちらも大変な名曲であり、そしてなおかつ難曲。この2曲はカヴァティーナ=カバレッタと捉えることもできるように思います。
“行け、わが想いよ”は、都市ごとに分裂しさまざまな国から攻撃されていた伊国のひとたちと劇中のヘブライ人たちを重ね合わせて大きな共感を呼んだと一般的には言われており、伊国統一運動においても象徴的に使われましたし、今でも彼の国の第2の国歌として(むしろ国歌よりも)慕われているそうです。『ナブッコ』自体は若き日のヴェルディのパワー(と、そしてもろもろの事情)が生み出した非常にエネルギッシュな曲なのですが、そのなかで最も静謐に歌われるこの曲が全曲中の白眉として多くの人々に受け入れられたと言うのはオペラ史のなかでも興味深い出来事として取り扱っていいと思います。

もちろんヴェルディも書き割り的だったりその他大勢的だったりする合唱も書いてはいますが、総じて役柄としての合唱の扱いは興味深いものです。また、『リゴレット』の嵐の音楽では歌詞のない男声合唱によって不気味な場面を盛り立てると言ったようなこともしています。この辺り、後の世代のG.プッチーニなどよりも合唱の扱いは実験的で面白いことをしているように思います。後輩世代で面白いと言えばA.ボーイト『メフィストーフェレ』のプロローグでしょうか。ここでは合唱は天使として登場しますが、部分的には神の声そのものをも歌っています。バスによるソロである悪魔メフィストーフェレに対峙する神が、様々な人々の声の集積である合唱というのは非常に面白いところです。

さて伊国の話ばかりをしてきましたが、少し別の国の作品のお話を。
まずは独ものですがこちらは実のところあまり詳しく存じ上げず……ただR.ヴァーグナーやR.シュトラウスを含めても意外と合唱をキャラクターとして、或いは音楽の面で伊国のように面白く扱っているものは少ないような気がします。もちろんヴァーグナーも『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』での入場行進曲や、『ローエングリン』での婚礼の合唱など有名曲は書いていますし、C.M.フォン=ヴェーバーも『オイリアンテ』のなかで美しい合唱曲を書いてはいるのですが、あくまで僕の知っている範疇でのことですけれども、そこまで役柄としての個性のある合唱はないように思います。敢えて言えばG.フォン=アイネム『ダントンの死』の合唱は、革命に踊らされてコロコロと言うことの変わる大衆というキャラクターを見事に表出しており、印象に残ります。

しかし、この大衆という性格づけを最もうまく合唱に施しているのは仏オペレッタの大家J.オッフェンバックでしょう。彼の作品に登場する合唱は、いずれの作品でもうわべばかり上品に取り繕って、それでいて品性は下卑ている、軽薄な大衆の姿を明確に表しています。『地獄のオルフェ(天国と地獄)』に出てくる神々や『ジェロルスタン女大公殿下』の軍隊のバカバカしい集団っぷりは最高ですが、とりわけ『ホフマン物語』のオランピアの幕やジュリエッタの幕に登場するグロテスクな合唱は忘れられません。明るく軽やかな長調の音楽に乗って、大衆の醜悪な嗜好をものの見事に表現しています。仏ものではG.ビゼー『カルメン』のエキゾチックなロマたちや、『ナブッコ』を思い出させるようなC.サン=サーンス『サムソンとデリラ』のヘブライ人たちなどもそれぞれに個性を感じる合唱ではあるものの、このオッフェンバックの活き活きとした俗世の人びとはそれらを凌駕するインパクトがあると思います。

そして忘れてはならないのが露国です!
露もののオペラの隠れた主役は合唱だと言って憚りません。まずは何と言ってもМ.П.ムソルグスキー!『ボリス・ゴドゥノフ』の冒頭で訳の分からぬままボリスへの賛辞を矯正され、終盤では僭称者に率いられて去っていく農民たちは、混迷の時代の露国を象徴する重要な役割を担っています。この傾向は彼の未完の大作『ホヴァンシナ』ではより顕著です。『ボリス』と比べても明確な主役のいない群像劇であるこの作品では銃兵隊や分離派教徒たちが実に活き活きと描かれており、ホヴァンスキー父子やゴリーツィン公など物語としては重要な人物たちよりも音楽的に魅力があると言ってもいいでしょう。ムソルグスキーはこの作品では、露国を動かそうとした人物たちよりも、それによって混乱に陥った人々にこそスポットを当てたかったのではないでしょうか。先ほどのフォン=アイネムやオッフェンバックが注目したのが大衆ならば、ムソルグスキーは民衆というキャラクターを描いたと言えるかと思います。同じ五人組のメンバーではたくさんのオペラを遺しているН.А.リムスキー=コルサコフの『金鶏』も同じように権力者に振り回される民衆を描いていますし、後輩たちの世代でも、20世紀に入ってから活躍したプロコフィエフなどは超大作『戦争と平和』で合唱に民衆という重要な役割を与えています。

合唱はその他大勢などではなく、作品によってはむしろ主役よりも強い主張のあるパートになりうることが少しでも伝われば嬉しいと思います。
さてさて今回はこのあたりでおしまい。
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