オペラなひと♪千夜一夜 ~第百三十五夜/誰がそなたを救うのか、待ち受ける不幸な運命から2023-09-12 Tue 20:46
烏国の名歌手をもう1人、ご紹介したいと思います。
![]() Shaklovity アナトーリ・コチェルガ (アナトリー・コチェルガ) (Anatoli Kotcherga, Анатолій Іванович Кочерга) 1947~ Bass Ukraine 前回のグレギーナと較べると些か地味な存在かもしれません。ヴェルディやプッチーニをはじめとした伊ものを主に歌っていた彼女に対し、コチェルガは露ものを中心に据えた活躍が目立ちます。音源や映像をあたってみても、僅かに騎士長(W.A.モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』)や宗教裁判長(G.F.F.ヴェルディ『ドン・カルロ』)、それにピストラ(同『ファルスタッフ』)があることを除くと露ものに重心があることが一目瞭然です。 そうした中で恐らく最も有名なのは、ムソルグスキーを愛したアバドの指揮によるボリス(М.П.ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』)とシャクロヴィートゥイ(同『ホヴァーンシナ』)ではないでしょうか。このコンビはまた、オペラ以外に「死の歌と踊り」などの歌曲も遺しています。これらの経験を受けてかコチェルガ単独でもキャリア全体にわたってこの作曲家の作品を歌う機会が多いようで、『ボリス』については上記のボリス以外に、ピーメンとヴァルラームがそれぞれ映像で世紀に発売されていますし、『ホヴァーンシナ』についてもドシフェイとイヴァン・ホヴァンスキーを演じています。まさにスペシャリスト呼ぶのがふさわしい経歴を積んでいると言えるでしょう。 ご承知のとおり『ボリス』も『ホヴァーンシナ』も権力者に決して肯定的なまなざしを注いでおらず、また単純な主役でもありません。いずれの作品も群像劇であり、そのスポットライトはむしろ翻弄される人々にあたっています(特にアバドがこだわった原典に近い形ではその傾向が強くなります)。調べられた範囲ではコチェルガはこの2年の出来事について公に発信をしていないように思いますが、これらの作品を歌い込んでいた彼が現在の情勢をどう捉えているのだろうかと、最近はつい気になってしまいます。 <演唱の魅力> ここで取り上げている人としては本当に久々ですが、僕はコチェルガを実演で観ています。2009年のスカラ座来日の『ドン・カルロ』で、この引越公演は毀誉褒貶いろいろあったようにも記憶しているのですけれども、大好きなこの演目を初めてナマで観た機会ということもあって、僕にとっては思い入れが強いです。この中で彼が演じていたのは宗教裁判長。よく覚えているのはその巨体で、すらっと背が高く立派な体格のパーペに対してもうんと大きく見えて、異様な存在感を放っていました。またバスとしては高めで明るい色の声ながら、ズシリと最低音が響いていたことも記憶に残っています。 彼がよく舞台を踏んでいるリセウ大劇場が収録に積極的なこともあり、幸いにして多くの公演を映像で楽しむことができます。恰幅のある、威風堂々とした立ち姿はシャクロヴィートゥイやクトゥーゾフ(С.С.プロコフィエフ『戦争と平和』)のような大河ドラマの重要人物にふさわしい貫録を感じさせます。僕の観劇した宗教裁判長でのパフォーマンスは、まさにこのイメージです。一方で多くの映像にあたっていると、この印象は彼の老獪な藝のあくまで一側面でしかないことにも気づきます。ヴァルラームであるとかボリス・イズマイロフ(Д.Д.ショスタコーヴィッチ『ムツェンスク群のマクベス夫人』を観ると、大柄な体躯の印象は一変し、自堕落でだらしのない肥満漢に見えてきます。特にボリス・イズマイロフでの醜悪さ、汚らしさはすさまじく(褒めてます!!)、歴史ものでのコチェルガの姿を刷り込まれていた身としてはちょっとショッキングでした笑。僕自身演劇の素養がないので、どうしてこれほどまでに印象を変えられるのかは推測の範囲でしか述べられませんが、他人をよく観察し、そして再現しているのだろうなということは思います。彼にもまたよくする仕草はあると思うのですけれども、ほんのわずかなところで、シャクロヴィートゥイならば尊大で高圧的に、クトゥーゾフならば誇り高く、ボリス・イズマイロフならば下品で粗野にそれぞれ映る。その小さな差を逃さないところが、どんな役柄・演出であっても舞台上で説得力を出すことに繋がっているのだろうなと。 こうした側面はまた、オペラという藝術の特性上、歌唱にも聴きとることができます。コチェルガの声楽面での持ち味は、とりわけ嘆く歌、懊悩をさらけ出す歌で発揮されるというのが私見です。ここで活きてくるのが、僕が実演で感じたもう一つの印象「バスとしては高めで明るい色の声」という点だと思っています。高めの倍音の多い声で、吠えるようにエモーショナルに歌われることによって、胸を引き裂かれるような悲しみや苦しみが、克明に立ち現れるように感じる瞬間は少なくありません。権力を手に入れても心の平安は手に入れられないボリス、名誉も娘も失ったコチュベイ、動乱の中で祖国と人々の行く末を案ずるシャクロヴィートゥイ、都を手放す決断を迫られたクトゥーゾフ……いずれもより重量感のある暗い響きのバスによって歌われることが多い役ですが、彼が歌うと差し迫った苦悩が浮き上がり、人間らしく感じられます。一般にイメージされるようなバスの声を持っていることが即ち“良いバス歌手”の条件ではなく、自らの個性をどのように持ち味へと昇華させていくかが重要なのだということを、コチェルガの歌は示しているように僕には思われるのです。 <アキレス腱> 彼の声は美しいと僕は思うのですが、上述したような独特の音色を好まない方が一定数いてもおかしくはないのでしょう。バリトンっぽいという評を読んだこともありますが、それを持ち味にして人間味を増した描き方を実現しているというのが、繰返しになりますが私見です。とはいえyoutubeで視聴できるかなり若い頃の動画のいくつかでは、低い方の倍音がほとんど感じられずに面食らうものがあるのも確かではあります(ただ、これは録音技術に起因する問題ではないかという気もします。実際実演でも最低音をしっかり聴かせていましたから、低い音が鳴らない訳ではありません)。 むしろややテンポにルーズになることがある点の方が、気になる人がいてもおかしくないだろうなと感じます。但しこの点についても、アバドのファルスタッフで起用されているぐらいで本来的にはリズム感は鋭い人ですし、演技も含めた舞台上でのパフォーマンスとして、敢えておおらかにしているようにも思えるのですが。 <音源紹介> ・ボリス・ゴドゥノフ(М.П.ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』) アバド指揮/レイミー、ラングリッジ、ラリン、リポヴシェク、レイフェルクス、ニコルスキー、シャギドゥリン、フェディン、ヴァレンテ、ニキテアヌー、ザレンバ共演/ブラティスラヴァ・スロヴァキア・フィルハーモニック合唱団、ベルリン放送合唱団&テルツ少年合唱団/1993年録音 >このあとご紹介するとおり、コチェルガは今世紀に入ってから映像で数々の名演を遺していますが、彼の仕事を代表する記録が何かと問われれば今なおこのボリスでしょう。アクの強い伝統的なスラヴのスタイルとも、フォン=カラヤンの重厚で堅牢な西欧スタイルとも異なる、地縁のしがらみから逃れた清冽なボリスをアバドは実現していますが、これはコチェルガがいてこその成功と言えるようにも思います。40代の彼の声は若々しく巨大であり、十分な芝居気を感じさせる歌唱であるにもかかわらず、シャリャピン以来の芝居気の強い演唱とは一線を画した静謐な印象で、人によっては食い足りなさを覚えるかもしれません。戴冠も野心に満ちた迫力を聴かせるのではなく淡々としていますし、死の場面では苦悶の声をあげて壮絶な最期を遂げるのではなく、むしろ救いを求める祈りを切々と唱えて、火の消えるように絶命します。言い方を変えるのであれば、敢えてスターの演じる見せ場の多い大役として歌うのではなく、時代に翻弄された1人の人間としてのリアルさを求めたアプローチをしているということでしょう。あまりにも自信満々に戴冠に臨むのは陰謀の渦中の人物としては怪しすぎますし、派手派手しい死に様というのもいかにも舞台めいてしまう。もちろんそういうものとしてボリスは親しまれてきてもいるわけですが、アバドのスタンス自体がそうではなくて、群像劇、主役のいないオペラとしてこの作品を上演すること(そしてそれこそがムソルグスキーの真意と捉えているようです)を目指しています。コチェルガの歌唱はまさにこの方針に合致した、非常に知的で繊細なものですし、この演奏以降の現代のボリス上演にも大きな影響を与えていると思います。 ・フョードル・シャクロヴィートゥイ(М.П.ムソルグスキー『ホヴァンシナ』) アバド指揮/ギャウロフ、ブルチュラーゼ、マルーシン、アトラントフ、セムチュク、ツェドニク共演/ヴィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団、スロヴァキア・フィルハーモニー合唱団、ヴィーン少年合唱団/1989年録音 >コチェルガのもう1つの代表盤。こちらで彼を知っている人も多いでしょう。出番こそ多くないながら作品の中核をなすアリアを与えられているこの役に、ギャウロフやアトラントフなどこの時期のスター歌手に混じって、若いながらも起用されていることからもアバドの信頼を感じさせます(これはブルチュラーぜにも言えるでしょう)。どうしてもそのアリアに注目したくなりますが、ここでの彼のポイントはむしろ開幕してすぐのやりとりかもしれません。代書屋(ツェドニク、なんという引き出しの多い歌手でしょう!)にむりくり政治的な文言を書かせる高圧的な態度の一方で、彼のシャクロヴィートゥイはこの時点でははっきりと銃兵隊を恐れています。彼らの歌が大きくなる中で、脅しの相手であったはずの代書屋の仕事場に逃げ込んで様子を伺うさまは紋切り型の恐ろしい敵という印象には程遠く、いつ何時自身が危機に陥ってもおかしくないという緊張感と、身の危険から逃れるためにどんな手段でもとるという必死さから来る皮肉なコミカルさとをまとっています。けだし、生々しい人物造形です。こういう表情を冒頭に見せているからこそ、作品を通じて見せるこの人物のマキャヴェリスト的な悪役ぶりから、アリアでの真摯な嘆きが浮き上がってしまうことなくつながってきます。ボリスと同じく、コチェルガがムソルグスキーの演奏史で果たした役割の大きさを感じさせる公演です。 ・ヴァルラーム(М.П.ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』) ヴァイグレ指揮/サルミネン、ハーフヴァーソン、ラングリッジ、リンドスコイ、シャギドゥリン、アサワ、アルネ、トツィスカ共演/バルセロナ・リセウ大劇場管弦楽団&合唱団/2004年録音 >1869年原典版に基づくためボリス個人に大きくスポットがあたっているのですが、ラングリッジやシャギドゥリンなどアバドのボリスでも繰返し起用されていた歌手や大ヴェテランだったトツィスカも登場しており、重層的なドラマを感じとることのできる公演です。アバドでのボリスだったコチェルガはここではスター歌手のサルミネンに主役の座を譲り、ヴァルラームを歌っています。この版では旅籠の場面にしか登場しないのですが、存在感は強烈そのもの。偽ディミトリーのみならず相方のミサイールすら手を焼いている様子でいるのは演出としては珍しいと思いますが、舞台姿でも歌い口でも豪快で警吏にも暫くのらりくらりとした態度で交わし続ける狸ぶりとも相まってリアリティを感じます。乱暴で破壊的なのですがどこかカリスマがあるのです。こうした人物造形は手配状をつっかえつっかえ読み上げる、この作品の中でもサスペンスの感じられる場面で非常に効果を上げています。これだけ舞台を支配できるヴァルラームはなかなかいないでしょう。これだけ歌うコチェルガに引けを取らないハーフヴァーソン、そして彼ら個性の強いバス2人がいてもなお堂々たる主役を張れるサルミネンは圧巻です。また、演出も相まってラングリッジの癖の強いシュイスキーも見逃せません。 ・ミハイル・クトゥーゾフ将軍(С.С.プロコフィエフ『戦争と平和』) ベルティーニ指揮/ガン、グリャコーヴァ、ブルベイカー、ザレンバ、マルギータ、オブラスツォヴァ、キット、ゲレロ、プルージュニコフ共演/パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団/2000年録音 >もはやこの作品をそのまま取り上げることは難しいですし(2023年にユロフスキ指揮、チャルニコフ演出で上演したそうなのでぜひ観てみたい)、今となってはこの役をコチェルガが演じていること自体にもご紹介を躊躇う気持ちを感じざるを得ないのですが、それでもなお彼の記事を書く上で見過ごすことのできない公演なのです。原作とは異なりクトゥーゾフの登場は後半のみですが、全編観終わってコチェルガの印象がとりわけ強く感じられるほど、ここでの彼の演唱はあまりにめざましく、ベスト・パフォーマンスの一つではないかと思います。ヴァルラームにも独特のカリスマが感じられたことは上述しましたが、こちらの方がより分かりやすく威厳とオーラを発していて、登場から前線の兵士たちから歓迎されるのもよくわかります。オペラではここに至るまで殆ど科白でも出てこないので、この時点で説得力を持たせられる存在感を持っているのは稀有なことです。このことは当然、オペラの最後、終戦を前に現れる場面でも大きな意味を持ちます。そして最大の見せ場である第10場がことのほか素晴らしい……まず軍議でのやりとりはプロコフィエフらしい神経質なアンサンブルですが、将軍たちを演じている歌手たちの実力が高いこともあって、歴史ものの映画のように会話として自然でありつつ音楽的です。続くアリアではいつもながら秀逸な嘆き、悲嘆の表現とともに、中間部では決然と不屈の精神を歌い上げており聴きごたえ満点、コチェルガの長所が余すところなく発揮されています。今の情勢もあって、むしろキーウやオデッサへの歌のように聴こえてしまうのは筋の悪い深読みとわかりつつ……。 ・ボリス・チモフェーヴィチ・イズマイロフ(Д.Д.ショスタコーヴィッチ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』) アニシモフ指揮/セクンデ、ヴェントリス、ヴァス、クラーク、スルグラーゼ、コティライネン、ミハイロフ、ネステレンコ共演/リセウ大歌劇場管弦楽団&合唱団/2002年録音 >上述のとおりコチェルガの大怪演が楽しめるのがこちらの映像です。そもそもこの作品そのものに好感度の高い人物が存在しませんが、それにしても舞台に登場した瞬間に醜悪な気配を全身から発していて、ただならぬ怪物が現れたような印象すら与えます。この物語では立場だけを見れば裕福な支配階級にいるカテリーナが追い詰められて転落していくという点が非常に重要なので、欲深く父権的なボリスが、強力で化け物じみた人物に描かれることはとても効果的です。抗いがたい力への反抗の結果、人の道を外していくことを象徴的に表すことができるからです。ここでのコチェルガはその観点で、これ以上はちょっと考えられません。立ち姿や演技ももちろんですし、破壊力すら感じる声の圧力は聴いていて打ちのめされそうな気持ちになります。卑猥な欲望を歌うアリアは悪魔めいた諧謔に満ちている一方で、亡霊として登場する場面では騎士長(W.A.モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』)を思い出さずにはいられない凄みがあり、死してなおカテリーナを苦しめていることがひしひしと伝わります。愉しい気持ちにはとてもなれない作品ですが、是非一度ご覧ください。 ・ヴァシーリー・コチュベイ(П.И.チャイコフスキー『マゼッパ』) N.ヤルヴィ指揮/レイフェルクス、ゴルチャコーヴァ、ラリン、ジャチコーヴァ共演/イェーテボリ交響楽団&イェーテボリ歌劇場合唱団/1993年録音 >同時期のゲルギエフ盤と双璧をなす名盤ですが、両者の性格は大きく異なります。露的な濃さのあるゲルギエフに対し、ヤルヴィの音楽は真摯に楽譜に当たったクリアな響きで、ローカルな歴史絵巻という背景を蒸留して抜いたような、それでいて熱気は維持した演奏になっていると思います。こうした文脈の中で聴くと、コチェルガの歌の繊細な人物造形が際立ちます。コチュベイの聴かせどころというと、嘆きや諦念を歌う2幕冒頭の牢獄の場や処刑の前の禱りなどですからそれこそ彼の持ち味が発揮される部分が多く、個人的には彼の録音でもベストではないかと思います。そんな中で特に取り上げたいのは1幕フィナーレです。メインとなる旋律をコチュベイがリードするかたちになっており、fで力強く歌うこともできるかと思うのですが、むしろ彼はmpぐらいの強さでやわらかに、慎重に歌いはじめています。これによりこの人物が単純に復讐を叫んでいるのではなく、悲劇的な状況になってしまったことへの戸惑いや悲しみ、自分たちの企てへの不安といった複雑な感情をはらんだ言葉であることが示されているように感じられますし、コチュベイの思いとは裏腹に、その言葉が周囲を巻き込んで群衆の怒りの荒波を生み出していくというリアルでドラマティックな筋書きが見えてきます。また、音楽的な効果も大きくなっているようです(場面は全く異なりますが、バジリオ(G.ロッシーニ『セビリャの理髪師』)のアリアを髣髴とさせます)。コチェルガの藝が光る部分と言えるのではないでしょうか。 ・老ジプシー(С.В.ラフマニノフ『アレコ』) N.ヤルヴィ指揮/レイフェルクス、グレギーナ、レヴィンスキー、フォン=オッター共演/イェーテボリ交響楽団&イェーテボリ歌劇場合唱団/1996年録音 >彼の声であればアレコももちろん歌えると思いますが(実際若い頃アリアを歌った映像がyoutubeに転がっています)、この録音では老ジプシー。アレコよりも高齢の人物ということで、重心の低い、プロフォンドに近い声で歌われることがいいと思うのですが、やはりコチェルガのような高めの響きのある楽器で歌われると、嘆き節が真に迫って来ます。「ゼムフィーラ“を”失う」ことを悲しむアレコに対して、老ジプシーは「ゼムフィーラ“も”失う」人物であり、さらに深い悲しみを抱えているからこそ、老年の諦観はあってもしっかりと嘆きの伝わるバスであることが重要なのだということがよくわかります(特に終盤、アレコを追放するくだり)。対するアレコのレイフェルクスが、コチェルガと近いトーンの音色ながらより動的で、ヴェルディやドニゼッティを思わせるより屈折したパワーを感じさせる歌を歌っていることで両者のコントラストがつけられているのも嬉しいです。ヤルヴィが音楽作り全体として、すっきりとした演奏に仕上げているのは『マゼッパ』と同様。 ・宗教裁判長(G.F.F.ヴェルディ『ドン・カルロ』) ガッティ指揮/F.フルラネット、ニール、チェドリンス、イェニス、ザージック共演/ミラノ・スカラ座管弦楽団&合唱団/2008年録音 >僕が実演を観たのと同じプロダクション、コチェルガとイェニスは同じキャストなのでいろいろと思い出も含めて観てしまう映像です。改めて視聴すると彼の声はフルラネットとほぼ同等のバランス、響いてくる音域、音色の明るさ、馬力のいずれにおいても近く、実力も拮抗していることがわかります。この役はフィリッポと異なる個性を出すために、明らかに低く暗い響きのプロフォンドをあてがうことが多いことを考えると意外と珍しいパターンです。また以前の記事で書いた通りここでのフルラネットは離の境地に至った荒々しい歌唱ですが、だからと言ってコチェルガが端正で厳格な歌唱で応じているかというとそんなことはなく、彼らしい人間臭さのある歌唱になっています。例えばロドリーゴの引き渡しを要求するところは懐柔をしながら立場の違いを感じさせる高慢さがありますし、逆にフィリッポに意見具申を始める場面で登場する最低音はいたずらに化け物じみた響きを強調せずあっさりとしています(もちろんこれは彼自身の声の個性も踏まえた上での対応と思います)。何が言いたいかと申しますと、いずれも個性的な役柄だからこそ取られうる紋切り型の対決にはなっておらず、もっと政治的な、人間と人間の対立がはっきり表現されているように思うのです。ある意味でこの場面でイメージされる派手さは薄まってしまっていると思われる方はいらっしゃるかもしれませんが、その分を補って余りある味わいの濃いドラマを感じられる名演です。 スポンサーサイト
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