Don Basilio, o il finto Signor

ドン・バジリオ、または偽りの殿様

グスコーブドリ考

そろそろほとぼりが冷めたころだろう、というかネタバレをしてもいい時期だろうと思うので、簡単にこの夏公開された映画『グスコーブドリの伝記』について。

先に断わっておくと、私自身この作品をどう評価していいかどうか、悩んでいる部分が非常にあります。
ただ、確実に言えることは、少なくともこの映画が“宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』”ではありえないということだと思います。

映画全体を通してみて感じるのは、この作品を作ったひとたちは少なくとも賢治の作品をよく読み込んでいる、或いはよく知っている人だということです。賢治ファンなら思わず反応するようなフレーズや科白があちこちにちりばめられていますし、仕掛けとしても組み込まれています。
私が気付いて覚えている範囲だと、
1)序盤のグスコーナドリの科白中「とんびの染物屋が~~」は童話『林の底』
2)先生が学校の授業で朗読している詩は所謂『雨ニモマケズ』
3)途中でブドリが見る夢(というより迷い込む幻想世界?)の世界は『グスコーブドリの伝記』の原型と言われる童話『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』の世界。
4)ブドリの夢の世界のひとつで流れている詩は『青森挽歌』
5)ブドリの夢の世界の裁判の場面で鞭を鳴らす人物は童話『どんぐりと山猫』の馬車別当。加えて、この裁判を仕切っている人物は猫(ただし、この映画の登場人物はすべて猫である)。
あたりでしょうか。こうした部分は賢治への或る種のオマージュと捉えることができるかなと。

ただ、このオマージュが果たしてうまく行っているかと言われると、ちょっと困ってしまいます。
例えば上に上げたもののうち、1)は非常に軽微なもので、あればクスリだけどなくても別にどっちでもいいかなと言う感じ。2)は賢治の非常に重要な思想であり、原作の大テーマだと言って良いと思う自己犠牲を示している部分があるので、有効な改変だと言って良いでしょう。問題は3)と4)です。
3)については、『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』を知っていると、非常に興味深く見ることができるのは確かです。ネネムの伝記はブドリの伝記の原型と言われており、最後を除き基本的な話の流れは一緒ですが、その実両者はかなり異なっています。ネネムは化け物世界を舞台として書かれ、序盤で人さらい(化け物さらい?)に連れて行かれた妹を後半にサーカスで発見する場面があります。映画をご覧になった方はピンとくると思いますが、ブドリの夢の中の街の住人がすべて奇怪な姿で描かれているのは、明らかにネネムの影響です。加えて、映画のブドリは夢の中のサーカスで妹ネリを見つけますし、別の夢で裁判にかけられているのもそうでしょう(ネネムは化け物世界の最高裁判長になります)。今回の映画のひとつのツボは、ブドリの夢と言う形を取ることで、映画『グスコーブドリの伝記』の中に前身作であるネネムの伝記を重ね合わせていることと言えるでしょう。これは両者を知っている人にとっては非常に興味深い構成でしょう。ほぼ同じプロットながら世界観の全く違う物語を、夢で糊付けして重ね合わせてみることができるというのは、趣向としては面白い。ただ、これがネネムの伝記を知らない人、更に言えばブドリの伝記すら読んだことがなくて、初見だというような人に伝わるかと言うと、かなり厳しいと思います。ネネムの夢、幻想と言うことはわかったとしても、それでなんでブドリの世界の猫の姿の住人達とは違う、気味の悪い姿をした人たちの世界に入って来るのかちっともわからないと言われても、文句は言えないでしょう。そういう意味でこの仕掛けは、面白いことは面白いけれども、かなり高次元な内輪ネタに過ぎないとも言えるように思います。
4)についてはさらに厄介だと言えます。『青森挽歌』の具体的に言えば「ギルちゃんが~~」の件のあたりが繰り返される中、ブドリが化け物の街を彷徨う場面です。そもそもこの映画の制作側は、ブドリと賢治をかなり意識して重ね合わせている感があります。そのためにブドリがネリと出会わないという重要な原作からの改編もなされている訳ですが、それについては後述します。『青森挽歌』は、亡くなった妹トシに賢治が捧げた挽歌のひとつであるわけで、そういう前知識があれば、化け物の街の中でブドリが妹のネリを探す場面でこれを引用している意味が分かります。ただ、これを普通に映画を楽しみに来た人に求めるのは、正直酷でしょう。相当賢治について知っていなければ、ここでのこの詩の意味はわからない。
5)についても同様です。裁判の主題自体はネネムのもの。その主題に合わせて山猫の馬車別当が登場しています。ここでは『どんぐりと山猫』の馬車別当のコミカルさはだいぶ薄れ、むしろ気味の悪さ・恐ろしさに力点を置いた描き方をしています。

ここまで見ていくと、要するにこの映画は、賢治をよく読み込んでいる制作側が、賢治に畏敬の念を込めて、さまざまな仕掛けを放り込んだものの、少しやり過ぎでわかりづらくなってしまった、賢治作品への愛ゆえの失敗と言う風に見ることもできますが、なかなかどうしてことはそう単純にはいかないようです。
というのも、この映画作品は、原作の芯ともいうべき重要なポイントをいろいろと変更してしまっており、結果としてこれを“賢治の『グスコーブドリの伝記』”というには抵抗があるレベルにしてしまっているのも、また事実だからです。

まずはブドリの人物像ですが、原作でのブドリは実直で素直ではありますが、自分で物事を考え、行動する才能ある人物であり、その結果として周囲から信頼もされる、というようなキャラクターづけがなされていますが、映画の中での彼の科白はほとんど「はい」であり、確かに実直で信頼はされる人物には映りますが、自分で考えて行動するという要素の面では随分と後退しているように思えます。加えて、原作に較べると彼の活躍が少ない。原作を読むとブドリの有能さはクーボー大博士の授業のところでもよく顕れていますが、そこからさき研究所でのペンネンナーム技師(明らかにペンネンネンネンネン・ネネムと関わりのある名前ですね)の火山局での活躍ぶりがやっぱり目立ちます。火山局にいるのは、技師とブドリの2人だけであり、ブドリがその有能さと努力で結果をいろいろ出していくように原作では見えるのですが、映画ではモブとしてたくさん先輩技師が出てくるし、どちらかというと経験値の高いペンネン技師や先輩たちの方が前に出て、ブドリはその組織の歯車の1個のように見えます。原作と映画を較べれば、当然映画の方が仕事内容的にも現実味がある訳ですが、これではブドリのキャラクターが弱くなってしまう。更に言ってしまえば、原作ではブドリは最終的にクーボー大博士やペンネン技師を説得して自分がカルボナード島に突っ込んでいくわけですが、その大事な場面でも、彼は2人を説得できず、何故かコトリの力でカルボナードに向かったかのように演出されています。これだとブドリの自己犠牲という主題が全然生きません(尤も、最後の場面がスペクタクルにならなかったのは良かったと思います。小田和正の歌だけは、好き嫌い別にして余計な感じがしましたが)。

更に、ブドリの重要な場面がカットになっているのもいただけません。
ひとつはブドリが小村でリンチに遭う場面、もうひとつは妹ネリとの再会の場面です。
恐らく理窟としては、前述のとおりこの映画ではブドリを賢治と重ね合わせているので、賢治がトシと死別したことを、ブドリがネリと結局再会できないということでリンクさせたいというところがあり、結果、ネリとの再会のあしがかりとなる小村でリンチされるという一コマもカットされたということなのでしょう。このリンチの場面の前提としてある、彼が火山を使って空から肥料を降らせて豊作となったという、彼の功績も如何にも賢治らしい壮大なものではありますが、ちょっと現実味がないという部分もあるのかもしれません。
しかし、これをカットしてしまうとブドリの業績はサンムトリの場面ぐらいしかなくなってしまい、ブドリが優秀な人物であり、彼の業績が農村の人たちの生活に直結するという、大事な要素が欠けてしまいます。また、ネリとの再会も、これは現実の世界では叶わない妹トシとの再会を作品世界に仮託したと考えると、ここも賢治の意図を尊重するのであればカットすることのできない場面だと思います。

前述もしましたが、何より原作の主題は自己犠牲なのです。これはどう足掻いたって変わりません。
才能に溢れ、世間からも認められ、離れてしまった妹とも再会し、恩のある人物には恩を返した、未来のある若者が、そのすべてをかなぐり捨てて、人々の幸せのため、“ほんたうのさいわひ”のために命を捨てる。
これが良くも悪くも原作『グスコーブドリの伝記』の核になっている部分だし、賢治作品の多くの重要な主題なのです。だから、賢治の作品、特にこの作品は好き嫌いがはっきり分かれて然るべきで、拒絶反応を起こす人も絶対にいる、ただそれと同じぐらいこれが素晴らしいと思う人たちもいる、と言う種類の作品なのです。

今回の映画ではその賢治の作品として大事な部分を大幅に殺ぎ落としてしまっていると思います。
それ以外にもいろいろと改変はあります。テグス工場の場面をブドリの夢にしてしまったり、コトリのキャラクターを大きく拡張したり、このあたりは原作と大きく異なる部分ではありますが、前述のそれに較べれば大した問題ではありません(個人的には不必要で意図のわからない改変に思えますが)。
こうなってしまうと、話の展開が原作通りかどうかと言う問題以前に“宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』”とは全く異なった、別の作品として考えるのが妥当なのだろうと思います。
ただ一方で、先に述べたようにやや過剰なまでの賢治作品へのリスペクトも感じられる内容でもあります。

以上のように考えたときに、非常に中途半端なものに終わってしまった感が否めないです。賢治へのオマージュとするのか、それとも賢治とは全く別の世界を生み出すのか、どちらかにバットを振り切って呉れてさえいれば、まだ評価できるところを、どっちつかずのまま提供されてしまったように感じます。
賢治作品をよく知っている人が観てももやもやが残るし、かといって賢治を全く知らない人が見て楽しめるかと言うと、おそらくそれもないでしょう。

良く作りこんであると思いますし、映像も大変美しい場面や印象的な場面もある。
見るべきところは少なくないが、腑に落ちない部分も沢山ある。
駄作とは言わないが、決して傑作とも言えず…となると成功してはいないから、やっぱり失敗作なのかしら。
未だに考えあぐねています。
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